何年前だったでしょうか、写真家であり、料理家であり、歴史家でもある「いその爺さん」から古い本をお借りして以来、何冊か貴重な古本を読ませていただきました。 その間、ブツのやりとりは中華街の老舗「一楽」を通していましたので、お互いに顔を合わせることはありませんでした。おかみさんが預かっておいてくれた本を、私がランチを食べに行った際に受け取るというやり方だったのです。 何冊目かのとき、お返しするのは「一楽」を通してではなく、実際に面会して手渡しすることになりました。それが今年の夏でした。 密会の場所は屏風ヶ浦駅前の「あいぐん」。 そこで語られた食べ物に関する歴史から横浜の話題、そしてホテルに関する謎など、どれも思わず引き込まれるものでした。氏の記憶力の良さ、造詣の深さを改めて感じさせていただいた次第です。 この席上で、私は7月末に横浜郷土研究会の講演会があることをお話ししました。会長の生出恵哉氏が「横浜にあった古いホテル」について講演をなさるというのです。 たぶんメインはホテル・ニューグランドなのでしょうが、ほかにも昔あったホテルが話題になりそうな感じです。ホテルと洋食について調べておられるいその爺さんにはもってこいの講演会で、ぜひ、行ってみたいということになり7月31日、会場の野毛地区センターに向かいました。 お話しの内容は…… 明治6年(1873)9月、居留地の20番地にグランドホテルが開業しました。横浜随一の外国人向けホテルで、広いホールではバンドが日本の音楽やクラシック音楽などを演奏し、西洋人にオリエンタルムードを味あわせていたそうです。 午後のティータイムには日本人女性たちが和服で控え、サービスに務めました。また、人力車の車夫たちが入口にたむろしており、横浜はもとより、鎌倉・江ノ島方面へのリキシャ・ツアーもありました。 しかし大正12年、関東大震災でグランドホテルは倒壊し50年の歴史を閉じたのです。 てなことを、「グランドホテル」のパンフレットを参考にお話をされました。海の見える大ホールや和服を来たティーガールなどの写真は初めて見るものばかりでした。会長ともなると、いいものをお持ちなんですねぇ。 さて震災後、外国人のためのホテルが必要となり、大正13年3月頃、旧グランドホテルの裏に5~6か所、テントホテルが設置されました。かなり大がかりなテント張りの急造ホテルです。(まるで大きなサーカス小屋のようなテント張りがいくつも並んでいる写真を見せていただきました) そんな応急のホテルでしたが、4月には舞踏会が開かれたり、6月からは在留外国人のための映画会も開かれたりするようになりました。 大正14年9月に来日したイギリスのジョージ親王の歓迎会も、このテントホテルで開催されたそうです。 震災後も来日する外国人は多く、大正12年12月には早くもアメリカから観光団が来港。それ以来、次第に本格的な外国人ホテル建設の機運が高まってきました。 大正14年7月、外国人ホテル建設発起人会が開かれ、10月には新ホテルの名称を「ホテル・ニューグランド」と決定。 大正15年7月、株式会社ホテルニューグランドが資本金100万円で山下町に設立されました。横浜市が建物の建設費を負担し、(株)ホテル、ニューグランドに貸与することで、昭和2年10月1日に開業したのです。 ここで生出会長から参加者にクイズ問題がでました。 「ニューグランドが家主である横浜市に支払う家賃はいくらか?」 答えを考える前に、いまだに家賃を支払っていることにビックリです。開業から間もなく90年になるというのに…… 正解は「73,776,000円」でした! お話しの最後は、「横浜の古いホテルあれこれ」ということで、いくつかのホテルの紹介がありました。 ◎横浜ホテル 万延元年(1860)2月24日付けの上海英字新聞「ノース・チャイナ・ヘラルド」の広告に横浜ホテルの開業広告が出ているそうです。 「ワーグマンらもこのホテルに宿泊したらしい」と生出さん。 慶応2年(1866)の大火で焼失し再建されなかったといいます。 ◎ロイヤル・ブリティッシュ・ホテルとインターナショナル・ホテル 文久2年(1862)、横浜ホテルのボーイでジャマイカ生まれ英国籍の通称マコーリー男爵が86番で創業。 元治元年(1864)、カーティスがこれを買収し、コマーシャル・ホテルと改称。さらにカーティスはそのホテルをトンプソンに譲り、自分は18番にインターナショナル・ホテルを開業。 ◎アングロ・サクソン・ホテル 文久3年(1863)11月頃、英国の蒸気船リームーン号の元主任料理係、ジョン・トーマスが71番で開業。翌年倒産したらしい。 ◎クラブ・ホテル 居留民のための横浜ユーナイテッド・クラブのスチュワードをしていたハーンが明治17年頃、クラブの建物を借りて営業。 ◎センター・ホテル ホテル・ニューグランドのS・ワイルが水町通りで開業。開業・廃業年は不明。 ざっとまぁ、こんなお話しでした。私がいちばん聴きたかったオリエンタルホテルについてはお話がありませんでした。そこで質問をさせていただいたのですが、これについてはあまり情報が多くないようです。 講演会終了後、どこかで打ち上げをしましょうということで、ご案内いただいたのは「ぴおシティ」地下にある「かぐら」。 お店の存在は知っていましたが、私は初入店。ここでもまたホテル、洋食、横浜の歴史などで話が盛り上がりました。 いろいろなことを教えていただいたのですが、記憶力の悪い私のこと、内容はうろ覚えです……(涙) とりあえず、ありがとうございました。 さて、いま手元に横浜市が発行した『横濱 開港の舞臺』というすごい本があります。本文は1枚の紙で蛇腹折りになっています。明治時代の関内を通り別に詳細な絵で復元しているのです。 その中にホテルがいくつか掲載されていますので、以下にご紹介しておこうと思います。 87番 ロイヤルホテル 現在の本町通りで住所は山下町87番地。1990年代までちょっとユニークなアスターホテルがあった場所。現在はマンションになっています。 84番 旧 HOTEL PEYRE FRERES なんと読むのかは分かりません。現在、ここにはマンションが建っていますが、何年か前まではホテル・サンポートがありました。 80番 ベルモントホテル 本町通りで住所は山下町80番地。中華街東門の近く。現在はマンション。 66番 クローゼンホテル これも本町通りで山下町66番地。現在はマンションが建っています。 18番、19番 グランドホテル新館 20番 グランドホテル旧館 このグランドホテルの跡地には現在、人形の家が建っています。 11番 オリエンタルパレスホテル 現在、ここにはスターホテル横浜があります。山下公園の目の前、ホテルニューグランドの横という立地。 5B クラブホテル 5A 4B 横浜ユナイテッドクラブ この場所には現在、神奈川県民ホールが建っています。 『横浜 開港の舞臺』をパラパラと眺めてみて、ホテルの表示があったのはこれだけです。 求めているオリエンタルホテルは出てきません。しかし、ネットで調べていたらこんな情報が出ていました。 日本の西洋料理の歴史を掲載しておられる青二才という方が、西洋料理のメッカ・横浜という項目の中でオリエンタルホテルについて言及されています。 また、ヒサダさんという方がブログの中で横浜居留地84番(オリエンタル・ホテル)について書かれています。 居留地84番といえば、『横濱 開港の舞臺』にに出てきた「旧 HOTEL PEYRE FRERES」の場所です。この前後の時代にオリエンタルホテルがあったのでしょうか。 そうそう、もう一つ忘れてはいけない本がありました。「横浜の時を旅する ホテル・ニューグランドの魔法」です。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
思うのですが、いかんせん資料が少ないですね。
残念です。個人的に思い出を持っておられる方は
たくさんいるのでしょうが……。
興味深いお話が沢山伺え有意義な時間を過ごさせて頂きました。
震災前の資料って少ないですよね。ほんと困ってしまいます。貴重な資料はどこかの蔵の奥に眠っているのでしょうかね。
今 江戸末期の古地図?を見ながら首をひねり、次回お会いできたらお知恵を貸して頂きたいと思っていたところです。
助けて下さい~(笑
バンドホテルを忘れてはいけませんね。
あの日もほとんど話題になりませんでした。
仰るように資料が少ないのでしょうかね。
横浜は関東大震災と戦災で多くの資料を失いましたからね。
でも、ある所にはあるんでしょう。
生出さんのアラカルトの話は、聞きに行った甲斐がありましたね。
ここの地下街はいい店が多いですね。
とくに立ち飲み。
スーパーもお勧めです。