![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/a2/865cd7b8ce09e9ab0163b4ce32c37793.jpg)
昭和24年に公開された美空ひばり主演の「悲しき口笛」。この映画では昭和20年代前半の横浜が数多く写されている。 風景の特徴からロケ地がどこか、すぐ分かるところもあるが、まったく分からない場所もあり、最近はそれらを解明することを愉しんでいる。 ![]() 映画の冒頭のシーン。全体の構図および特徴的な親柱から、この橋が大岡川河口に架かる大江橋であることが分かる。 画像上左に写っている細長い塔は横浜税関で、右側の三角屋根の塔は神奈川県庁だ。その右に見える小さな塔は横浜市開港記念会館である。 ところで、大江橋の親柱には大鷹の彫刻が乗っていたはずなのだが、この映画を撮影した当時にはそれが写っていない。戦時中の金属供出で取り外されていたのだろうか。 ![]() 大鷹が取り付けられたのは大正11年6月のこと。これは、四つのうち最初の一つが設置された時の新聞記事である。 彫刻の作者は新海 竹太郎。 ![]() こんな姿だったのだ。 ![]() 戦後は大鷹がないまま親柱が残っていたのだが、昭和40年代に橋梁の架け替えが始まり…… ![]() 現在のような面白くない橋になってしまった……。 ![]() こちらは大江橋の上流側。川の向こうには「エビスビヤホール」が写っている。 ![]() これは昭和15年の地図。派大岡川に面している部分は倉庫になっているが、のちにこの部分もビヤホールになったのだろう。 ![]() 戦災孤児や労働者がたむろしている。映画では美空ひばりがここで歌をうたっていた。 背景に写っている橋は都橋だ。 ![]() 外国人墓地の横。写真ではよく分からないかもしれないが、左側に二人が登ってきた見尻坂がある。 元町商店街から外国人墓地に沿って登っていく坂で、横浜地方気象台の前を経て山手本通り、港の見える丘公園へと至る。 映画と同じシーンを現在の場所をストリートビューで見ると、こんな感じ。 映画のシーンで二人の後方に見えているのは、米軍の施設のようである。現在のアメリカ山公園だ。 ![]() 現在の「港の見える丘公園」。映画では、この土管の中に美空ひばりが住んでいることになっている。 この当時は公園になっていないので、何もない空き地だった。 後方に見える施設は横浜地方気象台だろうか? ![]() これは分からない。新港ふ頭かなぁ……。 ![]() 右後方に見えているのは赤レンガ倉庫だ。 男の向こう側に写っているのは何だろう……。まるで二代目税関のようにみえるが、庁舎は関東大震災で崩れているので、それではないようだ。 なんだろう……。 ![]() 美空ひばりの背景に写っているのは、小港にあった米軍のボイラーハウスだ。 ![]() 赤矢印で示したのボイラーハウス。煙突記号が描かれている。 青矢印が東泉橋。その欄干を美空ひばりが渡っていた。 ![]() 昭和50年代に撮影した米軍のボイラーハウス。煙突の形が違うのは、改修していたからなのかな。 ![]() 映像が暗いということもあるが、ここがどこなのか、さっぱり分からない。 ![]() 少し明るい場面。左側には海らしきものがある。映像の奥に写っているビルは、なんだろう……。 ![]() 新港ふ頭だろうか……。 ![]() これもどこで撮影していたのか不明。海の向こうに見えているのは山手なのかなぁ……。 ![]() う~~~~~~~~~~ん。 どこだろう……。 ![]() これは山下橋である。画面右側が新山下、小港方面で、左側が山下公園方面。 ![]() 小港の空き地で撮影したようだ。 背景に写っているこんもりした丘とタンクの様子から、これは本牧十二天だと分かる。 ![]() 本牧十二天(昭和50年代)。 ![]() のちに「港の見える丘公園」となる丘の上。背景に港が写っている。 ![]() 谷戸坂(?)を下っていく美空ひばり。 ![]() これも場所が分からない。 ![]() 広い道路に市電が走っているので、ここは本町通りかな? ![]() 新港ふ頭か、高島ふ頭か。映画はこの二つのふ頭で撮影していたようだから、このどちらかだろうね。 後方のクレーンから場所が特定できるのではないかな。 像の鼻パークが整備される前には、岸壁に近い所に小さなクレーンがあったのを記憶している。だが、当時の写真がないため、そこかどうかは不明だ。 ということで、とりあえず今回はここまでとしよう。 【参考j】 画像はこちらのYouTubeから引用させていただきました。 ![]() |
今年もよろしくお願いいたします。
どの場面も懐かしいのですが、この時代、
まだ私は日本海の港町で生まれたばかり。
横浜に住んでからいろいろ歴史を知り、
脳裏にその風景を形成していったのでしょうね。
小学生、中学生の頃は日活映画を観て、
怪しいけど妖しい横浜に憧れました。
実際、横浜に住むようになったのは大人に
なってからですが、脳と心のどこかで、この街は
生まれた時から自分の中にあったように思えるのです。
今年もよろしくお願いいたします。
私も横浜に来たのは1970年代で、
しかも関内、関外や本牧などには、
ほとんど足を踏み入れていなかったので、
映像を観ても思い出すことはありませんが、
のちにいろいろ読んだりした本や雑誌の記憶から懐かしく感じることが多々あります。