午後から換気扇の取り付けに来られる。病院行き4日だったが3日は東京での会議、もし日帰りできなかったら大変と考えて今日にのばした。換気扇の取り付けが今日と重なった。午後からにしたので間に合うと思いながら少しでも早い診察と10時半予約なのにいつもの10時予約の時間に病院に入った。
そしたら意外と待っている人が少なかったので早く診察してもらえて薬をもらって近鉄奈良駅に着いたのが11時5分、うどんでも食べたいが今日は奈良公園回りの市内循環にのったのでバス停前の喫茶店の前で降りたのでその喫茶でドライカレーを食べたが塩辛いドライカレーだった。あれだったら私が作るの方が美味しい。
さっさと食べて行きつけの喫茶店に行った。
その前に奈良公園周りの市内循環に乗った記憶が残っているので話してみよう。
今日は暖かで奈良公園の景色をバスの窓から見たいと思った。
そしたら春が来ていた。
飛火野の枯れ芝の中に緑の新芽が薄く色づいていた。春の訪れである。もう後1ヶ月もしない間に芝生は緑色になっていくだろう。そして道路を隔てた公園の中の梅林、梅が満開に咲いていた。
そんな景色を見ながら近鉄奈良駅に向かった。もうすぐ氷室神社のしだれ桜が咲く。奈良公園の中での桜の咲き始めはここが1番である。
行きつけの喫茶店にいくと5人連れが50代、60代、70代の女性がはいってきた。この中で1人話している人がいた。この会話はまた後日にしよう。
この人たちも「わあ。綺麗。綺麗な」と言うのが第一声だった。
店の隅にある生花のアートコーナーを見て言う。
昨日この店の経営者の奥さんが教えてくれました。
「糊こぼし」のこと。朝、糊こぼしのことを話したがまだ続きがあった。
この椿は伝香寺の「ちり椿」、白豪寺の「五色椿」そして東大寺の「糊こぼし」の三つを合わせて三名椿といわれている。
東大寺の開山堂は四月堂の北側に位置し良弁(ろうべん)僧正をおまつりするお堂だが苔庭がいたむということで非公開になっている。二月堂の舞台から西方に位置している。毎年12月16日のみ公開、おん祭りの前日に公開されているが何かこれと関連があるのだろうかと私は考えてしまう。
「糊こぼし」はお水取りで毎年2月20日より戒壇院庫裏を別火坊として練行衆が入り精進決斎して椿の花を作ります。その造花を形とったものである。お水取りは二月堂で観音菩薩の前で14日間、毎日6回の法要を行い天平勝宝4年(西暦752年)より現在まで途絶えることなく続けられています。
懐かしい名前の寺が出てきました。
やすらぎの道沿いにある伝香寺と白豪寺、今はとんとこの寺に行かなくなったが雑誌記者時代にはよくお邪魔した。伝香寺は筒井順慶のいわれのある寺だった。歴史は何も勉強していないのによくも図々しく行ったものだと今考えると恥ずかしい。白豪寺は萩寺としても有名だったし宿坊でもよく知られていたのでお邪魔したものだった。何もお寺の歴史は皆無だったのにあつかましく行ったものだとまた恥ずかしくて顔が上げられない。当時の住職さん。ものすごく歌の上手い人でした、たまにカラオケで一緒になることがあった。
そして東大寺はまたよく行った。
今は亡き清水公照長老の原稿をもらいにも行った。ユニークな人だった。そう簡単に会える人ではなかったがあるときは新年号の「巻頭絵」を飾ってもらうのに何度か秘書役の人に電話してやっと会えた。原稿を依頼するときまだ当時の地方紙のオーナーの名前を出して「よっしゃ。原稿は書こう。うん。○○社長が先に行くかわしが先に行くか。よし書こう」と原稿料はボランテイアで買いもらった。当時、長老は地方紙でも1週間に1度原稿を寄稿しておられた。
寄稿原稿を書いてもらったこともあったが冊子になったあと上司がそれを大事に保存された。それは今も保存されているのか分からない。
東大寺も散策でいくことはあっても仕事でもう今は行くことがない。用事もないので行かないが若き私の在りし日のころを思い出してしまう。こうして若いときを振り返ると大勢の人に助けられて今日まできたことをまた実感している。多くの人に感謝をしなければならない。
なにもしらない勉強不足の私をどこもよく受け入れてくれたということにあらためて感謝の心がわいてくる。
話は変るがうなぎ料理屋さんを取材に行ってそれからうなぎが食べられなくなった。今も強いて食べないが夏の時は1・2度口にする。夏バテの薬と思って口にする。
新米記者は辛いこともいっぱいあった。東大寺の手向神社前までよく歩いていった。そのときそのとき折にふれて見る季節の風景に励まされた。
どうしてか辛い時は東大寺の手向神社に足が向いた。
そのときは歴史は何もわからなかったが在日コリアンの中で仕事するようになって東大寺には渡来人のために建てた神社がある。辛国神社というが本来は韓国神社といういわれがあるという。こんな縁なのか辛い時や悲しい時は東大寺の山門をくぐり抜けて手向神社に行きこの上の坂道を登って行っては引き返していた。この坂道を登った左側に辛国神社がある。これも何かあったのだろうか。若いときの記憶がまたよみがえってきた。
そしたら意外と待っている人が少なかったので早く診察してもらえて薬をもらって近鉄奈良駅に着いたのが11時5分、うどんでも食べたいが今日は奈良公園回りの市内循環にのったのでバス停前の喫茶店の前で降りたのでその喫茶でドライカレーを食べたが塩辛いドライカレーだった。あれだったら私が作るの方が美味しい。
さっさと食べて行きつけの喫茶店に行った。
その前に奈良公園周りの市内循環に乗った記憶が残っているので話してみよう。
今日は暖かで奈良公園の景色をバスの窓から見たいと思った。
そしたら春が来ていた。
飛火野の枯れ芝の中に緑の新芽が薄く色づいていた。春の訪れである。もう後1ヶ月もしない間に芝生は緑色になっていくだろう。そして道路を隔てた公園の中の梅林、梅が満開に咲いていた。
そんな景色を見ながら近鉄奈良駅に向かった。もうすぐ氷室神社のしだれ桜が咲く。奈良公園の中での桜の咲き始めはここが1番である。
行きつけの喫茶店にいくと5人連れが50代、60代、70代の女性がはいってきた。この中で1人話している人がいた。この会話はまた後日にしよう。
この人たちも「わあ。綺麗。綺麗な」と言うのが第一声だった。
店の隅にある生花のアートコーナーを見て言う。
昨日この店の経営者の奥さんが教えてくれました。
「糊こぼし」のこと。朝、糊こぼしのことを話したがまだ続きがあった。
この椿は伝香寺の「ちり椿」、白豪寺の「五色椿」そして東大寺の「糊こぼし」の三つを合わせて三名椿といわれている。
東大寺の開山堂は四月堂の北側に位置し良弁(ろうべん)僧正をおまつりするお堂だが苔庭がいたむということで非公開になっている。二月堂の舞台から西方に位置している。毎年12月16日のみ公開、おん祭りの前日に公開されているが何かこれと関連があるのだろうかと私は考えてしまう。
「糊こぼし」はお水取りで毎年2月20日より戒壇院庫裏を別火坊として練行衆が入り精進決斎して椿の花を作ります。その造花を形とったものである。お水取りは二月堂で観音菩薩の前で14日間、毎日6回の法要を行い天平勝宝4年(西暦752年)より現在まで途絶えることなく続けられています。
懐かしい名前の寺が出てきました。
やすらぎの道沿いにある伝香寺と白豪寺、今はとんとこの寺に行かなくなったが雑誌記者時代にはよくお邪魔した。伝香寺は筒井順慶のいわれのある寺だった。歴史は何も勉強していないのによくも図々しく行ったものだと今考えると恥ずかしい。白豪寺は萩寺としても有名だったし宿坊でもよく知られていたのでお邪魔したものだった。何もお寺の歴史は皆無だったのにあつかましく行ったものだとまた恥ずかしくて顔が上げられない。当時の住職さん。ものすごく歌の上手い人でした、たまにカラオケで一緒になることがあった。
そして東大寺はまたよく行った。
今は亡き清水公照長老の原稿をもらいにも行った。ユニークな人だった。そう簡単に会える人ではなかったがあるときは新年号の「巻頭絵」を飾ってもらうのに何度か秘書役の人に電話してやっと会えた。原稿を依頼するときまだ当時の地方紙のオーナーの名前を出して「よっしゃ。原稿は書こう。うん。○○社長が先に行くかわしが先に行くか。よし書こう」と原稿料はボランテイアで買いもらった。当時、長老は地方紙でも1週間に1度原稿を寄稿しておられた。
寄稿原稿を書いてもらったこともあったが冊子になったあと上司がそれを大事に保存された。それは今も保存されているのか分からない。
東大寺も散策でいくことはあっても仕事でもう今は行くことがない。用事もないので行かないが若き私の在りし日のころを思い出してしまう。こうして若いときを振り返ると大勢の人に助けられて今日まできたことをまた実感している。多くの人に感謝をしなければならない。
なにもしらない勉強不足の私をどこもよく受け入れてくれたということにあらためて感謝の心がわいてくる。
話は変るがうなぎ料理屋さんを取材に行ってそれからうなぎが食べられなくなった。今も強いて食べないが夏の時は1・2度口にする。夏バテの薬と思って口にする。
新米記者は辛いこともいっぱいあった。東大寺の手向神社前までよく歩いていった。そのときそのとき折にふれて見る季節の風景に励まされた。
どうしてか辛い時は東大寺の手向神社に足が向いた。
そのときは歴史は何もわからなかったが在日コリアンの中で仕事するようになって東大寺には渡来人のために建てた神社がある。辛国神社というが本来は韓国神社といういわれがあるという。こんな縁なのか辛い時や悲しい時は東大寺の山門をくぐり抜けて手向神社に行きこの上の坂道を登って行っては引き返していた。この坂道を登った左側に辛国神社がある。これも何かあったのだろうか。若いときの記憶がまたよみがえってきた。
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