外は太陽が真上に昇って暑い。けれど起きたところでまだ体力が消耗していない。起きてすぐに掃除機をかけた。
この間から気になるところがたくさんなあるが毎日忙しくてそのままにしていた。夕方に掃除機かけようと思ったらもう疲れて何もできない。今日は隅々かけたので気持がすっとした。
約50分近くかけていた。
終わった後で朝食、8時30分ごろから1本の原稿を仕上げた。写真を送る作業してやっと今終わった。
それにしても頂く受信のメール、皆暑い、暑い、思うことは一緒である。
真夏の太陽、朝顔が清清しいと思ったのは何年前だろうか。
子どもの頃は朝顔が軒下に咲いてすぐ乾くが打ち水をすると涼しかった。そんなとき朝顔の花に清清しくて綺麗と思ったのに今は朝顔をみることも少なくなったが道端に咲く草花も温暖化の猛暑でしおれている。
そりゃ、人間が熱中症になるなと思った。
私は熱中症になった。1つ間違ったら死ぬところだった。
3年前の夏のことである。
3時間炎天下の大阪城公園にいた、11月に行う四天王寺ワッソの前宣伝のためにオオサカキングのイベントに出演した。いつもは若い記者がいくのに前に懲りたのかほかに取材があったのか8月の初め私が現場に入った。
お茶を飲み店でソフトクリームを食べて水分を取っているのに仕事していると水分をそんなに補給していなかったのだろう。
仕事しているとき気がつかない。
3時間の現場の後、大阪城公園を出て行こうとするとき、もう歩くのが嫌でそこに横になりたいぐらいだった。
いつもだったら鶴橋にでて近鉄線で奈良に向かうがもうそこまでいけない。
1番近い地下鉄中央線の森ノ宮駅にでて地下鉄に乗った。なんとか座れた。
そして今度は生駒から近鉄線で奈良行にのったがもう息をハアハアしてつり革にぶら下っているのに誰も席を変わってくれない。
学生たちの前に立っているのに誰も変わろうとない。やっと学園前で座れた。
奈良について急いで自宅に戻ってシャワーを浴びた。
このとき水をかけないといけないのに湯をかけた。これはいけない。そのまえに炎天下の現場は塩を持参して塩をなめることを後日談で教わった。
そんなことで夕食の準備もできなかった。
幸い盆が近づいて現場取材がなかったので1週間寝て体力回復に努めた。
9月半ばにやっと普通に現場に行ける体力に戻った。
それからは必ず水を鞄の中に入れている。怖い。熱中症は。こんなことは昔なかったのに温暖化で人間の体まで異変が起きている。
そして関係者には「来年のイベントにはいかない」と言い張っていた。
そしたら出演した人も大変だったが衣装が汗で台無しになった。
新しく新調するのに経費がかかる。
そんなことを考えて翌年から参加を中止した。
これでホット安心した。
あの現場は屋根もない炎天下、体を壊してしまう。
何か方法を考えないといけないだろう。
昔は日射病というのはあったが熱中症はなかった。
真夏は日射病になるから長い時間いるといけないとよく言われた。
日射病と熱中症、どうちがうのかまた調べないといけない。
こんなことを考えると真夏もリヤカーを押して廃品回収業していた母親の体力の強さと精神的な強さに感心している。
畑で作業する人も強かった。
なぜこんなやわな体になったのだろうか。
私はそんなに丈夫ではない。顔は母親に似てきたが体質は父親似である。
父親も年をとってから辛い料理を食べると胃腸障害がおきるからと母親によく文句を言っていた。
京都で味わった京料理に味を知っていたのか母親の魚1つにもすぐ文句を言っていた。この魚は天然物、これは養殖物ともうこだわった。こんな父親にずっと付き合ってきた母親、近所の魚屋さんは父の好物を知っていて高い魚を仕入れていた。どんなふうにして母親は生活してきたのだろうか。
そんな生前の父親をみているのでつい父親の悪口を言ってしまう。
さてもう12時、昼食の支度をしよう。
この間から気になるところがたくさんなあるが毎日忙しくてそのままにしていた。夕方に掃除機かけようと思ったらもう疲れて何もできない。今日は隅々かけたので気持がすっとした。
約50分近くかけていた。
終わった後で朝食、8時30分ごろから1本の原稿を仕上げた。写真を送る作業してやっと今終わった。
それにしても頂く受信のメール、皆暑い、暑い、思うことは一緒である。
真夏の太陽、朝顔が清清しいと思ったのは何年前だろうか。
子どもの頃は朝顔が軒下に咲いてすぐ乾くが打ち水をすると涼しかった。そんなとき朝顔の花に清清しくて綺麗と思ったのに今は朝顔をみることも少なくなったが道端に咲く草花も温暖化の猛暑でしおれている。
そりゃ、人間が熱中症になるなと思った。
私は熱中症になった。1つ間違ったら死ぬところだった。
3年前の夏のことである。
3時間炎天下の大阪城公園にいた、11月に行う四天王寺ワッソの前宣伝のためにオオサカキングのイベントに出演した。いつもは若い記者がいくのに前に懲りたのかほかに取材があったのか8月の初め私が現場に入った。
お茶を飲み店でソフトクリームを食べて水分を取っているのに仕事していると水分をそんなに補給していなかったのだろう。
仕事しているとき気がつかない。
3時間の現場の後、大阪城公園を出て行こうとするとき、もう歩くのが嫌でそこに横になりたいぐらいだった。
いつもだったら鶴橋にでて近鉄線で奈良に向かうがもうそこまでいけない。
1番近い地下鉄中央線の森ノ宮駅にでて地下鉄に乗った。なんとか座れた。
そして今度は生駒から近鉄線で奈良行にのったがもう息をハアハアしてつり革にぶら下っているのに誰も席を変わってくれない。
学生たちの前に立っているのに誰も変わろうとない。やっと学園前で座れた。
奈良について急いで自宅に戻ってシャワーを浴びた。
このとき水をかけないといけないのに湯をかけた。これはいけない。そのまえに炎天下の現場は塩を持参して塩をなめることを後日談で教わった。
そんなことで夕食の準備もできなかった。
幸い盆が近づいて現場取材がなかったので1週間寝て体力回復に努めた。
9月半ばにやっと普通に現場に行ける体力に戻った。
それからは必ず水を鞄の中に入れている。怖い。熱中症は。こんなことは昔なかったのに温暖化で人間の体まで異変が起きている。
そして関係者には「来年のイベントにはいかない」と言い張っていた。
そしたら出演した人も大変だったが衣装が汗で台無しになった。
新しく新調するのに経費がかかる。
そんなことを考えて翌年から参加を中止した。
これでホット安心した。
あの現場は屋根もない炎天下、体を壊してしまう。
何か方法を考えないといけないだろう。
昔は日射病というのはあったが熱中症はなかった。
真夏は日射病になるから長い時間いるといけないとよく言われた。
日射病と熱中症、どうちがうのかまた調べないといけない。
こんなことを考えると真夏もリヤカーを押して廃品回収業していた母親の体力の強さと精神的な強さに感心している。
畑で作業する人も強かった。
なぜこんなやわな体になったのだろうか。
私はそんなに丈夫ではない。顔は母親に似てきたが体質は父親似である。
父親も年をとってから辛い料理を食べると胃腸障害がおきるからと母親によく文句を言っていた。
京都で味わった京料理に味を知っていたのか母親の魚1つにもすぐ文句を言っていた。この魚は天然物、これは養殖物ともうこだわった。こんな父親にずっと付き合ってきた母親、近所の魚屋さんは父の好物を知っていて高い魚を仕入れていた。どんなふうにして母親は生活してきたのだろうか。
そんな生前の父親をみているのでつい父親の悪口を言ってしまう。
さてもう12時、昼食の支度をしよう。
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