ラッキーな日程に海外旅行に向かう人たちがいる。
韓国に行く若者もいる。
冬の韓国行きは恐い。風邪を引いて高熱になってしまう。
日本と違って空気が乾燥しているのですぐに喉にきてしまう。
たえず水で喉を湿らさないといけない。
飛行機の中がもっとも乾燥している。
11月の末から12月にかけて韓国によく行っていたのに60歳を越えてから体力が落ちたのか1度、この時期に行って日本に戻ってくると高熱で1週間苦しんだ。それから冬の韓国旅行はやめることになった。
今頃の韓国はイルミネーションで町は華やかになっているだろう。
ふと懐かしくも思うが------。
食べる物がないので向こうで知人たちに迷惑をかけるので行くことをやめた。
2008年の夏に行ってから後は行っていない。
また高齢の夫に留守番を長くさせるわけにもいかないので韓国行きはやめている。1泊2日程度ならいいが韓国行きになると3泊4日が最低の日程になる。
それと旅行の準備をすることも大儀になった。
韓国に行くとなると鞄の中に風邪薬も忘れてはいけない。胃腸薬も。1度、韓国で風邪を引いて在日韓国人出身でソウルの二村洞に住んでいる人の家にまで行ってまで頂いたことがあった。韓国にも薬局がたくさんあるが日本の風邪薬しか効かないように思ってしまう。
それから風邪薬も忘れないようにしている。
何かとこまごま入れていくものが多い。
昨日は23日、朝、8時に起きた。
家事をして朝食、朝食が終わると沖縄に住む息子の家に送るものをダンボールに入れて荷造りをした。沖縄は今も暑いので食品はクール便になる。
夫の車で所用を済ませることにした。
そして今回、宅急便にもっていくと食品だけでの記帳は駄目だと言われた。
細かく中のものを書かないといけないらしい。沖縄便だけそうしているという
沖縄は亜熱帯、今も暑い気候で食品によっていたんでしまうらしい。
宅急便屋さんによって送るようにして今度はJR奈良駅近くに住んでいる女友だちの自宅に行くことにした。車の中で電話すると携帯はでない。
木曜日はテニスに行っているかもしれない。
それで自宅のポストに入れておくことにした。
少しだがお餅のおすそわけ、私が感謝を込めてわずかだが寄進するところから送ってきた餅のおすそ分け、1年間の感謝を込めたお餅、心を込めてつかれたお餅、心をこめて丸められたお餅のおすそ分けを持っていった。
後で携帯にポストにお餅を入れておきましたからとメールを入れた。
この後は郵便局に行く。
先日、夫の身内に送る写真を整理したのでそれを送るために奈良郵便局の本局に行った。まあ並んでいる、私の前に10数人が並んでいる。
年内に片付けないといけないので辛抱強く待った。
待っていて初めて私が見た光景に驚いた。
今年なのか、昨年なのか。頂いた年賀状を持ってきて新しい年賀ハガキと交換していた。切手も少し入っていた。
若い女性のようだった。
この方は合理的に活用しているつもりだが私のような年代から見ていると人の心を断ち切っているようでこの人の人生が末恐ろしく思えた。
増えてくる年賀状、何年間は取っておく。そこから古い物は処分していくがまさか年賀ハガキに変えるとは-----。びっくりした。古い年賀状でも処分する時は忍びないが狭い家は片付かないといけないので心を鬼にして処分していく。
頂いた年賀状を新しい年賀状に交換していく。現在の世相がそうなのか。不景気がそうさせているのか。苦学をしている大学生なのか。
親と一緒に暮している学生だったら親がなんらかで話もしているのでこんなことはないと思うが----。今時の40代、50代の親はこんな考え方なのだろうか。
年賀状も印刷したものであっても消息や安否の確認のコミニユケーションである。
年賀状の後始末は安易に考えて郵便局で新しい年賀状に変えている。
郵便局の人はこんなご時世に慣れているのか淡々と作業をしておられた。
遠くから見ている私の方が恥ずかしい思いで見ているのに若い女性は普通になにくわない顔をして新しい年賀状を受け取っていた。
郵便局で用事を済ませると通り道にある吉野家で牛鍋丼を食べて家路に向かった。夫は自宅近くのスーパーによってビールの肴を買った。
私はまだ体調が回復しないのかしんどい。
車の中で待った。
家に帰ると風呂を入れながら家事をした。
私が風呂に入ったのが1時半ごろ。出ると湯冷めが恐いのですぐ布団の中に入った。暖房のエアコンを入れて新聞を読んだ。そのうちウトウトと寝た。
起きると3時40分、パソコンを開いたが編集局から何も受信が入っていないのですぐ閉めた。
夫と一緒にテレビで放映されていた「沈まぬ太陽」を見た。
私は映画を見ていないが本で読んでいたので興味があったので見ていた。
テレビを見ていると当時の奈良県内のことを思い出していた。
事故の犠牲者に奈良県内の人たちがいた。
当時の奈良新聞、社員がてんやわんやとなっていた。記者たちは何日間、寝ないでの取材をしていた。男性たちはひげがうっすらと伸びていた。
明石やさんまもこの飛行機に乗る所だったが乗らなかったことで難をまぬがれた。親は奈良市役所近くに住んでいるので記者たちは親の家にも取材に行っている。そんな話を当時、よく聞いた。写真撮影に記事撮りに奔走していた報道デスクたち、若い記者だけでは手が回らない。奔走していた1人はこの世にいない。皆、熱く燃えたバブルの頃、今は新聞も出版社も不景気のあおりを受けている。それでも皆、奔走している。明日になれば必ずいいことがあると信じて奔走している。
亡くなったMさんは今のご時世、空の上からどう思って見ているだろうか。
夫は6時半になると寝床に行った。
私はテレビを見ながら棚の拭き掃除をまた少しした。
少し気がらくになっていく。
23日、天皇陛下の誕生日の祝日が暮れていった。
今日はパソコンでプリントした年賀ハガキを確認してポストに入れるようにしよう。また気が向いたら拭き掃除を少ししたいが体調がまだすっきりしていないので休養もしないといけない。
韓国に行く若者もいる。
冬の韓国行きは恐い。風邪を引いて高熱になってしまう。
日本と違って空気が乾燥しているのですぐに喉にきてしまう。
たえず水で喉を湿らさないといけない。
飛行機の中がもっとも乾燥している。
11月の末から12月にかけて韓国によく行っていたのに60歳を越えてから体力が落ちたのか1度、この時期に行って日本に戻ってくると高熱で1週間苦しんだ。それから冬の韓国旅行はやめることになった。
今頃の韓国はイルミネーションで町は華やかになっているだろう。
ふと懐かしくも思うが------。
食べる物がないので向こうで知人たちに迷惑をかけるので行くことをやめた。
2008年の夏に行ってから後は行っていない。
また高齢の夫に留守番を長くさせるわけにもいかないので韓国行きはやめている。1泊2日程度ならいいが韓国行きになると3泊4日が最低の日程になる。
それと旅行の準備をすることも大儀になった。
韓国に行くとなると鞄の中に風邪薬も忘れてはいけない。胃腸薬も。1度、韓国で風邪を引いて在日韓国人出身でソウルの二村洞に住んでいる人の家にまで行ってまで頂いたことがあった。韓国にも薬局がたくさんあるが日本の風邪薬しか効かないように思ってしまう。
それから風邪薬も忘れないようにしている。
何かとこまごま入れていくものが多い。
昨日は23日、朝、8時に起きた。
家事をして朝食、朝食が終わると沖縄に住む息子の家に送るものをダンボールに入れて荷造りをした。沖縄は今も暑いので食品はクール便になる。
夫の車で所用を済ませることにした。
そして今回、宅急便にもっていくと食品だけでの記帳は駄目だと言われた。
細かく中のものを書かないといけないらしい。沖縄便だけそうしているという
沖縄は亜熱帯、今も暑い気候で食品によっていたんでしまうらしい。
宅急便屋さんによって送るようにして今度はJR奈良駅近くに住んでいる女友だちの自宅に行くことにした。車の中で電話すると携帯はでない。
木曜日はテニスに行っているかもしれない。
それで自宅のポストに入れておくことにした。
少しだがお餅のおすそわけ、私が感謝を込めてわずかだが寄進するところから送ってきた餅のおすそ分け、1年間の感謝を込めたお餅、心を込めてつかれたお餅、心をこめて丸められたお餅のおすそ分けを持っていった。
後で携帯にポストにお餅を入れておきましたからとメールを入れた。
この後は郵便局に行く。
先日、夫の身内に送る写真を整理したのでそれを送るために奈良郵便局の本局に行った。まあ並んでいる、私の前に10数人が並んでいる。
年内に片付けないといけないので辛抱強く待った。
待っていて初めて私が見た光景に驚いた。
今年なのか、昨年なのか。頂いた年賀状を持ってきて新しい年賀ハガキと交換していた。切手も少し入っていた。
若い女性のようだった。
この方は合理的に活用しているつもりだが私のような年代から見ていると人の心を断ち切っているようでこの人の人生が末恐ろしく思えた。
増えてくる年賀状、何年間は取っておく。そこから古い物は処分していくがまさか年賀ハガキに変えるとは-----。びっくりした。古い年賀状でも処分する時は忍びないが狭い家は片付かないといけないので心を鬼にして処分していく。
頂いた年賀状を新しい年賀状に交換していく。現在の世相がそうなのか。不景気がそうさせているのか。苦学をしている大学生なのか。
親と一緒に暮している学生だったら親がなんらかで話もしているのでこんなことはないと思うが----。今時の40代、50代の親はこんな考え方なのだろうか。
年賀状も印刷したものであっても消息や安否の確認のコミニユケーションである。
年賀状の後始末は安易に考えて郵便局で新しい年賀状に変えている。
郵便局の人はこんなご時世に慣れているのか淡々と作業をしておられた。
遠くから見ている私の方が恥ずかしい思いで見ているのに若い女性は普通になにくわない顔をして新しい年賀状を受け取っていた。
郵便局で用事を済ませると通り道にある吉野家で牛鍋丼を食べて家路に向かった。夫は自宅近くのスーパーによってビールの肴を買った。
私はまだ体調が回復しないのかしんどい。
車の中で待った。
家に帰ると風呂を入れながら家事をした。
私が風呂に入ったのが1時半ごろ。出ると湯冷めが恐いのですぐ布団の中に入った。暖房のエアコンを入れて新聞を読んだ。そのうちウトウトと寝た。
起きると3時40分、パソコンを開いたが編集局から何も受信が入っていないのですぐ閉めた。
夫と一緒にテレビで放映されていた「沈まぬ太陽」を見た。
私は映画を見ていないが本で読んでいたので興味があったので見ていた。
テレビを見ていると当時の奈良県内のことを思い出していた。
事故の犠牲者に奈良県内の人たちがいた。
当時の奈良新聞、社員がてんやわんやとなっていた。記者たちは何日間、寝ないでの取材をしていた。男性たちはひげがうっすらと伸びていた。
明石やさんまもこの飛行機に乗る所だったが乗らなかったことで難をまぬがれた。親は奈良市役所近くに住んでいるので記者たちは親の家にも取材に行っている。そんな話を当時、よく聞いた。写真撮影に記事撮りに奔走していた報道デスクたち、若い記者だけでは手が回らない。奔走していた1人はこの世にいない。皆、熱く燃えたバブルの頃、今は新聞も出版社も不景気のあおりを受けている。それでも皆、奔走している。明日になれば必ずいいことがあると信じて奔走している。
亡くなったMさんは今のご時世、空の上からどう思って見ているだろうか。
夫は6時半になると寝床に行った。
私はテレビを見ながら棚の拭き掃除をまた少しした。
少し気がらくになっていく。
23日、天皇陛下の誕生日の祝日が暮れていった。
今日はパソコンでプリントした年賀ハガキを確認してポストに入れるようにしよう。また気が向いたら拭き掃除を少ししたいが体調がまだすっきりしていないので休養もしないといけない。
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