朝からメールの送受信をしていると海外出張から戻ってきて北海道に滞在しているK氏から携帯にメールで連絡事項を入れた。このやりとりをした後、月曜日連載をもう1度見直してホームページにセットアップした。
そしてホームページ用の原稿を1本作ったがまだ見直さないといけない。
その後、電話で取材交渉が取れた。
よかった。
年末からの取材情報だったのでやっと取材ができるようになった。
今日は夕方からPTAのOB会の懇親会がある。
昼に大根と豚肉の煮付けをしておこう。
夫は大根も豚肉も好きである。
懇親会に行く前に済ませる用事がある。
いつも仕事で出かけたときに銀行などの振込みをしたりするので今日もそうした所用がある。
外は昨日4時ごろからまた雨が降り出した。
朝もまだ降っている。午後からやむと天気予報では言っている。
作夜は激しく降っていた。
しかし夜の雨はほとんどしらない。
私はテレビのニュース番組を見たり漢字のバライテイー番組を見たりまた1960年代のアメリカなどで流行ったポビュラー音楽を見ていたりした。
中華料理店の経営者が思い出の歌にシルビーバルタンの「アイドルを探せ」を話していた。
私も懐かしい。
この歌は本当に懐かしい。
初めてこの歌を聞くとなんとも言えないメロデイーで体の中に電流が走ったものだった。
そう何度も行かない梅田の喫茶店、年に1・2度しか行かない喫茶店、「田園」という喫茶店があった。円形舞台を囲んで喫茶店のテーブルと椅子が置いてあった。
ここで歌っているのは歌を生業にした無名の歌手である。
当時、流行していた歌を歌っていた。
ここで聞いたのも「アイドルを探せ」である。
なんともいえないメロデイーだった。
ここである男性とコーヒーを飲みながらこの歌を聞いたがこの人とは結婚できなかった。
日本人の男性で私が身を引くしかなかった。そんなせつない気持になっていた歌だった。
何年も前に1度、大阪環状線の中で見たことがあった。
お互いに年を重ねていて顔はすっかり忘れてしまったが私が鶴橋で降りるとき、彼は鶴橋から乗るときに目があった。一瞬だったが彼と思った。一瞬だったがじっと見ていたが彼は電車に乗り込むとドアは閉まった。
降りてからあの人は---と思ったが何も声をかけないでこれでよかったと思った。彼も結婚して家庭を築いているのでこれでよかったと思った。
そんなことを思いながら「田園」の喫茶店で一緒に聞いた「アイドルを探せ」の歌を当時の私を思い出していた。
昨日もアグネスチャンが英語で歌っていた。
いつ聞いてもこの歌はいいがシルビーバルタンはもっと声量があった。
あの力強い歌声で若いとき、どんなに励まされたことか。
アグネスチャン、歌は上手いけれど少し声量が物足りなかった。
そしてもう1度、シルビーバルタンの歌で聞きたいと思った。
1950年代の終わりから1960年代の初め、外国からたくさんの音楽が入ってきた。それを日本語訳して多くの歌手が歌っていた。
「砂に書いたラブレター」「バケーション」「悲しき雨音」などなどたくさんあった。迫力のある歌声をもう1度聞きたい。
なつかしい青春がよみがえってくる。
さてこれから夕食の支度をしながら昼食をしながら新聞を詠もう。
そしてホームページ用の原稿を1本作ったがまだ見直さないといけない。
その後、電話で取材交渉が取れた。
よかった。
年末からの取材情報だったのでやっと取材ができるようになった。
今日は夕方からPTAのOB会の懇親会がある。
昼に大根と豚肉の煮付けをしておこう。
夫は大根も豚肉も好きである。
懇親会に行く前に済ませる用事がある。
いつも仕事で出かけたときに銀行などの振込みをしたりするので今日もそうした所用がある。
外は昨日4時ごろからまた雨が降り出した。
朝もまだ降っている。午後からやむと天気予報では言っている。
作夜は激しく降っていた。
しかし夜の雨はほとんどしらない。
私はテレビのニュース番組を見たり漢字のバライテイー番組を見たりまた1960年代のアメリカなどで流行ったポビュラー音楽を見ていたりした。
中華料理店の経営者が思い出の歌にシルビーバルタンの「アイドルを探せ」を話していた。
私も懐かしい。
この歌は本当に懐かしい。
初めてこの歌を聞くとなんとも言えないメロデイーで体の中に電流が走ったものだった。
そう何度も行かない梅田の喫茶店、年に1・2度しか行かない喫茶店、「田園」という喫茶店があった。円形舞台を囲んで喫茶店のテーブルと椅子が置いてあった。
ここで歌っているのは歌を生業にした無名の歌手である。
当時、流行していた歌を歌っていた。
ここで聞いたのも「アイドルを探せ」である。
なんともいえないメロデイーだった。
ここである男性とコーヒーを飲みながらこの歌を聞いたがこの人とは結婚できなかった。
日本人の男性で私が身を引くしかなかった。そんなせつない気持になっていた歌だった。
何年も前に1度、大阪環状線の中で見たことがあった。
お互いに年を重ねていて顔はすっかり忘れてしまったが私が鶴橋で降りるとき、彼は鶴橋から乗るときに目があった。一瞬だったが彼と思った。一瞬だったがじっと見ていたが彼は電車に乗り込むとドアは閉まった。
降りてからあの人は---と思ったが何も声をかけないでこれでよかったと思った。彼も結婚して家庭を築いているのでこれでよかったと思った。
そんなことを思いながら「田園」の喫茶店で一緒に聞いた「アイドルを探せ」の歌を当時の私を思い出していた。
昨日もアグネスチャンが英語で歌っていた。
いつ聞いてもこの歌はいいがシルビーバルタンはもっと声量があった。
あの力強い歌声で若いとき、どんなに励まされたことか。
アグネスチャン、歌は上手いけれど少し声量が物足りなかった。
そしてもう1度、シルビーバルタンの歌で聞きたいと思った。
1950年代の終わりから1960年代の初め、外国からたくさんの音楽が入ってきた。それを日本語訳して多くの歌手が歌っていた。
「砂に書いたラブレター」「バケーション」「悲しき雨音」などなどたくさんあった。迫力のある歌声をもう1度聞きたい。
なつかしい青春がよみがえってくる。
さてこれから夕食の支度をしながら昼食をしながら新聞を詠もう。
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