昨日、深夜に神戸からの取材情報が入った。また今朝はその打ち合わせでバタバタしながら「電車の中----」の原稿を1本作った。
それからメールで打ち合わせ、電話の打ち合わせをしているともう11時が過ぎた。明日、明後日と連日、神戸の現場になる。
神戸までの電車の乗り物の使い安さを覚えた。
阪神電車が楽であることわかった。
地下鉄御堂筋線梅田駅の前は阪神電車の改札に入る。阪急は梅田でおりて駅構内のコンコースを大分あるいて駅ホームに着く。
阪急三宮駅は阪急も阪神もJRも一緒のところにあるので三宮にでて動くことの便利さが分かった。
今までは阪急線ばかりで不便なところもあって時間を多少無駄なことをしていたかもしれない。
神戸は奈良から少し遠い。若いときは神戸にもよく行ったものだった。
夜遅くなると急いで切符を買っている。1度は5000円札で切符を買ってその千円札何枚かを取らないで電車にのった。鶴橋の駅で気がついた。
気がついたものの後のまつりだった。
そんな苦い経験もした神戸だった。
それ以上に辛かったのは阪神大震災だった。
現地の人はもっと大変だった。
しかし現場にはいるものも大変だった。震災後10日目から現場に何度も行った。早朝、天保山から神戸港行の船にのった。
そして今度は帰る船や乗り物を心配した。
また三宮からバスにのるにしても並んで待って乗ってのったと思ってもパスはなかなか進まない。途中、阪神電車が動いているということで途中バスから降りて阪神電車の駅から乗ったが駅までまた半壊や全壊した家屋の間を縫って歩いた。そのとき1番頼りになったのが当時、韓国系の新聞大阪支社の記者だった人だった。皆一緒に行動した。在日韓国人の記者を誘導してくれた。ある者はバイクで走り回っている人もいた。リーダーシップをとってくれたこの記者は記者をやめて違うところで就職をしている。
顔を見ると一緒に歩いた震災の町のことを思い出してしまう。
あんなことも乗り越えてきたと神戸の町を歩くと当時を思い出す。しかし現地の人は半壊・全壊した被災者たちはたくましく乗り越えて今、一生懸命に働いておられる。そんな光景を見ると私の大変さは問題外である。
何が辛かったといえば5時台の電車を近鉄奈良駅から乗ることだった。暗闇の中を夫の車で駅まで送ってもらった。
また帰りも辛かった。船のでる時間を事前に調べてその時間に合わせての取材、大変だったなと今ふりかえったてもそう思う。
交通が寸断された町、神戸だった。歩いた。本当によく歩いた。
鞄の中にパンが入っていても被災者の前で食べることもできなくて空腹のまま現場を走り回った。
その町、神戸が今は綺麗な町になっている。
しかし裏には震災を境にして悲喜交々の人生のドラマが動いていた。
死亡者の名前は在日コリアンも通名で掲載されている。
その名前と在日コリアンの確認、民団中央本部の関係者、若い職員は民団兵庫県で3ヶ月寝泊りしながら警察と往来してその確認作業したという。
このこともけっして忘れることができない。
多くの外国人が住んでいる神戸市、一時は多文化・多民族共生が地域でめばえていたが年月が立つとまた問題が浮上しているのが現実である。
きれいごとではすまされない問題が浮上している。
日本列島に散在する在日コリアン、日本列島隅々まで散在する在日コリアンの歴史、根の深さをまた改めて認識してしまう。
日本植民地支配の歴史はまだ日本でいきつづけている。
こんなことをまた認識してしまう神戸の町である。
それからメールで打ち合わせ、電話の打ち合わせをしているともう11時が過ぎた。明日、明後日と連日、神戸の現場になる。
神戸までの電車の乗り物の使い安さを覚えた。
阪神電車が楽であることわかった。
地下鉄御堂筋線梅田駅の前は阪神電車の改札に入る。阪急は梅田でおりて駅構内のコンコースを大分あるいて駅ホームに着く。
阪急三宮駅は阪急も阪神もJRも一緒のところにあるので三宮にでて動くことの便利さが分かった。
今までは阪急線ばかりで不便なところもあって時間を多少無駄なことをしていたかもしれない。
神戸は奈良から少し遠い。若いときは神戸にもよく行ったものだった。
夜遅くなると急いで切符を買っている。1度は5000円札で切符を買ってその千円札何枚かを取らないで電車にのった。鶴橋の駅で気がついた。
気がついたものの後のまつりだった。
そんな苦い経験もした神戸だった。
それ以上に辛かったのは阪神大震災だった。
現地の人はもっと大変だった。
しかし現場にはいるものも大変だった。震災後10日目から現場に何度も行った。早朝、天保山から神戸港行の船にのった。
そして今度は帰る船や乗り物を心配した。
また三宮からバスにのるにしても並んで待って乗ってのったと思ってもパスはなかなか進まない。途中、阪神電車が動いているということで途中バスから降りて阪神電車の駅から乗ったが駅までまた半壊や全壊した家屋の間を縫って歩いた。そのとき1番頼りになったのが当時、韓国系の新聞大阪支社の記者だった人だった。皆一緒に行動した。在日韓国人の記者を誘導してくれた。ある者はバイクで走り回っている人もいた。リーダーシップをとってくれたこの記者は記者をやめて違うところで就職をしている。
顔を見ると一緒に歩いた震災の町のことを思い出してしまう。
あんなことも乗り越えてきたと神戸の町を歩くと当時を思い出す。しかし現地の人は半壊・全壊した被災者たちはたくましく乗り越えて今、一生懸命に働いておられる。そんな光景を見ると私の大変さは問題外である。
何が辛かったといえば5時台の電車を近鉄奈良駅から乗ることだった。暗闇の中を夫の車で駅まで送ってもらった。
また帰りも辛かった。船のでる時間を事前に調べてその時間に合わせての取材、大変だったなと今ふりかえったてもそう思う。
交通が寸断された町、神戸だった。歩いた。本当によく歩いた。
鞄の中にパンが入っていても被災者の前で食べることもできなくて空腹のまま現場を走り回った。
その町、神戸が今は綺麗な町になっている。
しかし裏には震災を境にして悲喜交々の人生のドラマが動いていた。
死亡者の名前は在日コリアンも通名で掲載されている。
その名前と在日コリアンの確認、民団中央本部の関係者、若い職員は民団兵庫県で3ヶ月寝泊りしながら警察と往来してその確認作業したという。
このこともけっして忘れることができない。
多くの外国人が住んでいる神戸市、一時は多文化・多民族共生が地域でめばえていたが年月が立つとまた問題が浮上しているのが現実である。
きれいごとではすまされない問題が浮上している。
日本列島に散在する在日コリアン、日本列島隅々まで散在する在日コリアンの歴史、根の深さをまた改めて認識してしまう。
日本植民地支配の歴史はまだ日本でいきつづけている。
こんなことをまた認識してしまう神戸の町である。
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