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朝、6時30分頃に目が覚めた。
2時前にトイレにいった。
ぐっすり寝たのかもう時計は5時前と思って扇風機から冷房に切り変えた。
エアコンがきいていたのでいつもより少し寝すぎたのか。
6時半に目が覚めると外で激しい雨が降る音がしている。
雷も激しく何度も轟きわたっている。
思わず起きてベランダの外を見ると叩きつけるような激しい雨と空は何度も光る。そして雷がなっている。
そのまま、また布団にもぐりこんだ。
じっと雷のなるのを聞いていた。
激しい雷に激しい雨、まさに雷雨である。
激しくなる雷と雨に今日は8月14日、お盆の入りにまた私は南山城村大水害のことを思い出している。8月14日の夕方から8月15日にかけて集中豪雨になった。昭和28年(1953年)のことです。
私は小学3年でした。
8月14日、夜遅く、母親と妹と一緒に家の近くの神社前に集った。
消防署員が町を歩いて避難命令を出していた。
木津川が氾濫しそうだ。そして大人の男性たちは木津川の増水の様子を見てきたのか泉大橋の上から木津川で手が洗えるという。
大人たちは神社の前で話していた。
木津駅が1番高いので木津駅に逃げればよい。
木津川の堤防が切れると水はいっぺんに押し寄せてくる。
鉄砲水や---など。
そんな大人の会話を聞きながら木津川はいつ堤防が切れるのか大人たちはヒヤヒヤしながら待っていた。子どもたちもたくさんの服を着せられて待った。
その時、父親は京都の勤務先から帰ることができなかった。
列車が大雨で動くことができなかった。
そして夜中の3時頃だっただろうか。
消防署員の人たちがまた町の中を歩いて「木津川の水がひいて行く。堤防を切れる心配はなくなったので家に戻って下さい」という。
そんな光景が走馬灯に浮かんできた。
そして一夜、明けると京都府相楽郡笠置町、南山城村大河原などが水害と山崩れで多くの人が亡くなったという話、下流の木津町の木津川は山崩れで流された家屋や樹木が山のようになって流れてくる。
私は見ていないが死んだ人も流れてきているという。
京都府綴喜郡井手町あたりも木津川が国道24号線を越えて集落や田んぼに流れ込んで水害となった。また天井川も氾濫して大きい被害をもたらした。
それから何年もたって高校に進学するとクラスの中には笠置や大河原から通学している人が大勢いた。この人たちから笠置や大河原の大水害の話を聞き身内が亡くなっていく悲しい現実を耳にすることになった。
大水害から59年というのに私の脳裏には木津川が氾濫する前のことをいまだに鮮明に記憶している。
クラスメイトが話してくれた大水害で親に連れられて逃げたことを話してくれたことも鮮明に覚えている。
そして相楽郡内の小学校生たちの文集は南山城大水害の様子や亡くなった人のことが多く書かれた文集だったことも記憶している。
今朝の雷雨にそういえば8月15日のお盆の日は南山城村大水害があったのだと思い出していた。あの日もこんな激しい雨だったのか。そのへんのことは覚えていないが避難したことは覚えている。
南山城大水害、南山城一帯は336人、流失・全壊家屋752戸、田畑は砂礫の河原とした。道路は寸断され未曾有の被害となった。
南山城村は山村で住民が散在して住んでいるがそんな人口密度の高いところではない。住民のほとんどが被害にあったと考えている。
クラスメイトの○○さん。2人の兄を山崩れで亡くした。
明日はお盆、兄を向かえるために今頃、忙しくしているだろう。
南山城村大河原や笠置町などの人たちはあの大水害は忘れることなく犠牲者の弔いで今日、明日は忙しくしていることだろう。
インターネットの検索資料によると全村が一丸となって復旧に邁進した。3年にしてその復旧を半ばにしたという。南山城村では災害の記念日である8月15日に災禍の惨状を記念して昭和31年8月15日(1956年)、南山城村は「南山城村大水害記念碑」が建立された。
インターネット「南山城大水害」と検索すると当時の資料がたくさん検索できる。
日本の敗戦後も、ようやく復興の兆しを見えた頃の大水害だった。
相楽郡和束町・加茂町・精華町なども南山城大水害ではなくても豪雨の被害にあった。
あれから59年、数年前に木津町と加茂町と山城町が合併して木津川市になった。しかし私の故郷は京都府相楽郡のままです。
クラスメイトが話してくれたことをまた思い出している。
「川が氾濫して私の母親は私をおぶい紐で背中に括りつけて逃げたので私は流されなかった。子どもを抱っこして逃げた人は子どもが流された。私の家族、川の氾濫から逃げたのに高校生の兄2人は家を見に行くといって山津波の激流に流されて2人とも亡くなった」と----。
冬、ストーブを囲んでいて隣にいたクラスメイトが話してくれた。
私はこのとき何をいったか記憶がない。
ただあまり話さない子どもだったのでたぶん黙って聞いていたと思っている。
このとき言葉をもっともっと表現していけばもっと詳しく話してくれていたのかもしれないと思ったりする。
朝、7時半に雨は小降りになった。
今はやんでいる。時計は9時47分です。
6時50分、玄関から見える鳩の塒、マンションの広告塔を見ると鳩はとまっていなかった。7時15分に5羽、8時5分には22羽がとまっていた。
鳩の目覚めはどうやら7時半過ぎてからのようだ。
写真を2枚撮影してパソコンに取り込んだがフアイルを作って入れたつもりがない。そして撮影したカメラは1度取り込むと画像で残っていても取り込むことができない。このときに消えてしまったのかもしれない。
しかたがないです。
さてこれから身支度して夫と一緒に外出です。
以前にとった鳩が広告塔にとまっていた写真を入れておきます。
2011年10月5日午後3時の撮影。たぶんこの日は秋雨がふっていたのだろう。雨が降ると鳩は塒の上の広告塔に並んでとまっている。
2時前にトイレにいった。
ぐっすり寝たのかもう時計は5時前と思って扇風機から冷房に切り変えた。
エアコンがきいていたのでいつもより少し寝すぎたのか。
6時半に目が覚めると外で激しい雨が降る音がしている。
雷も激しく何度も轟きわたっている。
思わず起きてベランダの外を見ると叩きつけるような激しい雨と空は何度も光る。そして雷がなっている。
そのまま、また布団にもぐりこんだ。
じっと雷のなるのを聞いていた。
激しい雷に激しい雨、まさに雷雨である。
激しくなる雷と雨に今日は8月14日、お盆の入りにまた私は南山城村大水害のことを思い出している。8月14日の夕方から8月15日にかけて集中豪雨になった。昭和28年(1953年)のことです。
私は小学3年でした。
8月14日、夜遅く、母親と妹と一緒に家の近くの神社前に集った。
消防署員が町を歩いて避難命令を出していた。
木津川が氾濫しそうだ。そして大人の男性たちは木津川の増水の様子を見てきたのか泉大橋の上から木津川で手が洗えるという。
大人たちは神社の前で話していた。
木津駅が1番高いので木津駅に逃げればよい。
木津川の堤防が切れると水はいっぺんに押し寄せてくる。
鉄砲水や---など。
そんな大人の会話を聞きながら木津川はいつ堤防が切れるのか大人たちはヒヤヒヤしながら待っていた。子どもたちもたくさんの服を着せられて待った。
その時、父親は京都の勤務先から帰ることができなかった。
列車が大雨で動くことができなかった。
そして夜中の3時頃だっただろうか。
消防署員の人たちがまた町の中を歩いて「木津川の水がひいて行く。堤防を切れる心配はなくなったので家に戻って下さい」という。
そんな光景が走馬灯に浮かんできた。
そして一夜、明けると京都府相楽郡笠置町、南山城村大河原などが水害と山崩れで多くの人が亡くなったという話、下流の木津町の木津川は山崩れで流された家屋や樹木が山のようになって流れてくる。
私は見ていないが死んだ人も流れてきているという。
京都府綴喜郡井手町あたりも木津川が国道24号線を越えて集落や田んぼに流れ込んで水害となった。また天井川も氾濫して大きい被害をもたらした。
それから何年もたって高校に進学するとクラスの中には笠置や大河原から通学している人が大勢いた。この人たちから笠置や大河原の大水害の話を聞き身内が亡くなっていく悲しい現実を耳にすることになった。
大水害から59年というのに私の脳裏には木津川が氾濫する前のことをいまだに鮮明に記憶している。
クラスメイトが話してくれた大水害で親に連れられて逃げたことを話してくれたことも鮮明に覚えている。
そして相楽郡内の小学校生たちの文集は南山城大水害の様子や亡くなった人のことが多く書かれた文集だったことも記憶している。
今朝の雷雨にそういえば8月15日のお盆の日は南山城村大水害があったのだと思い出していた。あの日もこんな激しい雨だったのか。そのへんのことは覚えていないが避難したことは覚えている。
南山城大水害、南山城一帯は336人、流失・全壊家屋752戸、田畑は砂礫の河原とした。道路は寸断され未曾有の被害となった。
南山城村は山村で住民が散在して住んでいるがそんな人口密度の高いところではない。住民のほとんどが被害にあったと考えている。
クラスメイトの○○さん。2人の兄を山崩れで亡くした。
明日はお盆、兄を向かえるために今頃、忙しくしているだろう。
南山城村大河原や笠置町などの人たちはあの大水害は忘れることなく犠牲者の弔いで今日、明日は忙しくしていることだろう。
インターネットの検索資料によると全村が一丸となって復旧に邁進した。3年にしてその復旧を半ばにしたという。南山城村では災害の記念日である8月15日に災禍の惨状を記念して昭和31年8月15日(1956年)、南山城村は「南山城村大水害記念碑」が建立された。
インターネット「南山城大水害」と検索すると当時の資料がたくさん検索できる。
日本の敗戦後も、ようやく復興の兆しを見えた頃の大水害だった。
相楽郡和束町・加茂町・精華町なども南山城大水害ではなくても豪雨の被害にあった。
あれから59年、数年前に木津町と加茂町と山城町が合併して木津川市になった。しかし私の故郷は京都府相楽郡のままです。
クラスメイトが話してくれたことをまた思い出している。
「川が氾濫して私の母親は私をおぶい紐で背中に括りつけて逃げたので私は流されなかった。子どもを抱っこして逃げた人は子どもが流された。私の家族、川の氾濫から逃げたのに高校生の兄2人は家を見に行くといって山津波の激流に流されて2人とも亡くなった」と----。
冬、ストーブを囲んでいて隣にいたクラスメイトが話してくれた。
私はこのとき何をいったか記憶がない。
ただあまり話さない子どもだったのでたぶん黙って聞いていたと思っている。
このとき言葉をもっともっと表現していけばもっと詳しく話してくれていたのかもしれないと思ったりする。
朝、7時半に雨は小降りになった。
今はやんでいる。時計は9時47分です。
6時50分、玄関から見える鳩の塒、マンションの広告塔を見ると鳩はとまっていなかった。7時15分に5羽、8時5分には22羽がとまっていた。
鳩の目覚めはどうやら7時半過ぎてからのようだ。
写真を2枚撮影してパソコンに取り込んだがフアイルを作って入れたつもりがない。そして撮影したカメラは1度取り込むと画像で残っていても取り込むことができない。このときに消えてしまったのかもしれない。
しかたがないです。
さてこれから身支度して夫と一緒に外出です。
以前にとった鳩が広告塔にとまっていた写真を入れておきます。
2011年10月5日午後3時の撮影。たぶんこの日は秋雨がふっていたのだろう。雨が降ると鳩は塒の上の広告塔に並んでとまっている。
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