私はこの番組は途中から見たので詳細は分からない。
ただ「妻の日記」という言葉に朝刊紙に掲載されている「あじさい日記」を思い出した。作家はうまく今の時代をうまく取らえたがこれはあくまで小説であると私は毎朝楽しみながら読みながらもそう考えている。
こんな冷静に夫を観察する女性がいるのだろうか。
現実にはほとんどいなくてこんな女性は理想像である。
もし、いたとしたらこんなふうに冷静に夫をみつめて毎夜、夫の浮気を分かっていながら夫の前ではそんな顔を見せないで普通の妻を装っていることができるのだうか。賢い女性でも感情の起伏はある。特に女性は感情の起伏を持って生まれている。男性との違いがここにあり男性は女性の感情にふりまわされても愛しいと思うのだろう。
ウフフ---なんてこんな表現している私はなんて格好いいなのだろうかと自己満足しているアホである。
こんな家庭がもしあったとしたら小説では子どももいる家庭なので子どもがどんなふうに成長していくのかそのほうが興味がある。
夫の浮気を知りながら夫にはそれらしきことを一言も言わないで日記でその探りを克明に記述している。
小説の夫はその日記を見て「そら恐ろしい女」としている。
なにか予告では妻もほかに男性がいると言うことらしいが最後はどうなるのか。
今風に年金が分割して受給される世代の風潮なら年金の仕組みを書いて離婚していくのか。
それとも夫が愛人の家で急死にするか救急車で運ばれて小説の妻は私が思っていたとおりという最後で女性の克明な知恵に軍配をあげるのだろうか。女性は夫の預貯金をチェックして自分名義にしてあるとか。
これは作家に反して勝手な私の想像ですのであしからず。
私はこんな終わりかたをしてほしくない。
息子が成長して大学院はアメリカに行く。
子どもに尽くす小説の奥さんは息子と一緒にアメリカに飛ぶ。
ニューヨークの町で1ヶ月もすると人恋しくなって浮気をしている夫の大切さがわかってくる。
やがて小説の妻の不倫相手は若い芸能人と婚約したところをニューヨークで日本の雑誌で知ることになる。
そんなときにアメリカ西海岸に旅にでた小説の妻は宿泊したホテルで夫の1人姿を見る。
ここは時間の葛藤があるが長年連れ添った夫婦の同居生活の情愛を舞台にしてもう1ど始めからやり直すことで結末を終える。とか--。私は作家の構想とはまったく違うことを想像しているがプロの作家は素人には分からない展開を見せてくれるのだろうと期待している。
「妻の日記」ね。
人は恋をするとあれこれ文字に書いてみるが何もないと手帳には仕事のスケジュールが書き込まれていくだけである。
本当に大事なことは心の中で書いておいて手帳や日記には書かない。
書いたとしても自分の気持ちを書いて心の消しゴムをしているだけ。
だから「あじさい日記」のタイトルがうまれたのだろうか。
現在の恋、電車の中や街中でも平気でべったりしている。
本当にすきだったらこんなことしない。
宝物のように大切な人だったら秘めて大事にしていくと思う。
なんて私の勝手な考えたかもしれない。
時代の変遷で現代の恋愛事情は分からない。
夫だけ尽くしている夫婦を街中で夫婦連れ添っていると分かる。
夫婦は血がつながっている親戚夫婦なのかと思うほど骨格も顔つきも似ている。夫婦寄り添って相思相愛になれば顔まで似てくるのかと不思議に思って見ている。
うちなんまったく正反対の性格の夫婦、似ても似つかない別のことを考えている夫婦に見えるだろう。
「妻の日記」ね。
またこのタイトルが今風----。
私なんかつけると「夕食日記」「おばはんの愚痴」または「どっちもどっち」さては「どうでもいい。でもなにかをしている」とか。
「妻の日記」ね。
そんなことを書いてみたい気持ちはもうとっくに吹っ飛んで行ってしまった。
今は穏やかに健康で暮せることを考えて作りたくない夕食の献立のときに夫のことを考えている瞬間かもしれない。
「妻の日記」ね。
こんなことを書けるのは40代かもしれない。
子育てから解放されて自分の可能性に向って翼を広げたときである。
翼を広げたからと言って何もかも自由になれない。
自由には責任がかかってくる。
この責任を頭において社会勉強のために社会に出て行くが本当に男性が本気で考えてくれる人は何人いるだろうか。
男が妻以外に燃えている人がいたとしたらすべて仕事のためである。
仕事に燃える人は「英雄色を好む」とある新聞社の社長のキャッチフレーズだったことを思い出した。ずいぶん古い話だがまわりに女性がたくさんいた。しかしこれもすべて仕事の一旦だった。
けれどこんな中でその渦中になった女性は男性の力でどんどん支配していくになっていく。
これが果たしていいものだろうか。
と、私は遠くから斜めで構えて見ていた。
若い男女なら本気の恋もたくさんあるだろう。健全な恋としてあたりまえだろう。
しかし小説になるような恋も世間にたくさんあるだろうがそんな恋は双方が宝物の恋、一般の目には絶対に届いてこない。
と私の勝ってな想像である。
「妻の日記」ね。これから流行りそうな言葉になり日記を付け出す主婦がいるだろう。日記を付け出した妻を疑う夫、これも小説になりそうで面白い。
疑いの眼で見だした「妻の日記」、隠れて盗みするとそこには「同級生の昼ランチ」として女友達との昼ランチの様子が書かれている。
夫は女友達との昼ランチに安堵して日記を見なくなるがそれが本当は男性だったとか----。
または「妻の日記」は「献立」がびっしり書いてあってそれがやがて奥さんは栄養士として社会参加していくきっかけになったりしたとか-----。
「妻の日記」ね。
ちょっと考えさせられる番組に私の独断と偏見を書いてみた。
ただ「妻の日記」という言葉に朝刊紙に掲載されている「あじさい日記」を思い出した。作家はうまく今の時代をうまく取らえたがこれはあくまで小説であると私は毎朝楽しみながら読みながらもそう考えている。
こんな冷静に夫を観察する女性がいるのだろうか。
現実にはほとんどいなくてこんな女性は理想像である。
もし、いたとしたらこんなふうに冷静に夫をみつめて毎夜、夫の浮気を分かっていながら夫の前ではそんな顔を見せないで普通の妻を装っていることができるのだうか。賢い女性でも感情の起伏はある。特に女性は感情の起伏を持って生まれている。男性との違いがここにあり男性は女性の感情にふりまわされても愛しいと思うのだろう。
ウフフ---なんてこんな表現している私はなんて格好いいなのだろうかと自己満足しているアホである。
こんな家庭がもしあったとしたら小説では子どももいる家庭なので子どもがどんなふうに成長していくのかそのほうが興味がある。
夫の浮気を知りながら夫にはそれらしきことを一言も言わないで日記でその探りを克明に記述している。
小説の夫はその日記を見て「そら恐ろしい女」としている。
なにか予告では妻もほかに男性がいると言うことらしいが最後はどうなるのか。
今風に年金が分割して受給される世代の風潮なら年金の仕組みを書いて離婚していくのか。
それとも夫が愛人の家で急死にするか救急車で運ばれて小説の妻は私が思っていたとおりという最後で女性の克明な知恵に軍配をあげるのだろうか。女性は夫の預貯金をチェックして自分名義にしてあるとか。
これは作家に反して勝手な私の想像ですのであしからず。
私はこんな終わりかたをしてほしくない。
息子が成長して大学院はアメリカに行く。
子どもに尽くす小説の奥さんは息子と一緒にアメリカに飛ぶ。
ニューヨークの町で1ヶ月もすると人恋しくなって浮気をしている夫の大切さがわかってくる。
やがて小説の妻の不倫相手は若い芸能人と婚約したところをニューヨークで日本の雑誌で知ることになる。
そんなときにアメリカ西海岸に旅にでた小説の妻は宿泊したホテルで夫の1人姿を見る。
ここは時間の葛藤があるが長年連れ添った夫婦の同居生活の情愛を舞台にしてもう1ど始めからやり直すことで結末を終える。とか--。私は作家の構想とはまったく違うことを想像しているがプロの作家は素人には分からない展開を見せてくれるのだろうと期待している。
「妻の日記」ね。
人は恋をするとあれこれ文字に書いてみるが何もないと手帳には仕事のスケジュールが書き込まれていくだけである。
本当に大事なことは心の中で書いておいて手帳や日記には書かない。
書いたとしても自分の気持ちを書いて心の消しゴムをしているだけ。
だから「あじさい日記」のタイトルがうまれたのだろうか。
現在の恋、電車の中や街中でも平気でべったりしている。
本当にすきだったらこんなことしない。
宝物のように大切な人だったら秘めて大事にしていくと思う。
なんて私の勝手な考えたかもしれない。
時代の変遷で現代の恋愛事情は分からない。
夫だけ尽くしている夫婦を街中で夫婦連れ添っていると分かる。
夫婦は血がつながっている親戚夫婦なのかと思うほど骨格も顔つきも似ている。夫婦寄り添って相思相愛になれば顔まで似てくるのかと不思議に思って見ている。
うちなんまったく正反対の性格の夫婦、似ても似つかない別のことを考えている夫婦に見えるだろう。
「妻の日記」ね。
またこのタイトルが今風----。
私なんかつけると「夕食日記」「おばはんの愚痴」または「どっちもどっち」さては「どうでもいい。でもなにかをしている」とか。
「妻の日記」ね。
そんなことを書いてみたい気持ちはもうとっくに吹っ飛んで行ってしまった。
今は穏やかに健康で暮せることを考えて作りたくない夕食の献立のときに夫のことを考えている瞬間かもしれない。
「妻の日記」ね。
こんなことを書けるのは40代かもしれない。
子育てから解放されて自分の可能性に向って翼を広げたときである。
翼を広げたからと言って何もかも自由になれない。
自由には責任がかかってくる。
この責任を頭において社会勉強のために社会に出て行くが本当に男性が本気で考えてくれる人は何人いるだろうか。
男が妻以外に燃えている人がいたとしたらすべて仕事のためである。
仕事に燃える人は「英雄色を好む」とある新聞社の社長のキャッチフレーズだったことを思い出した。ずいぶん古い話だがまわりに女性がたくさんいた。しかしこれもすべて仕事の一旦だった。
けれどこんな中でその渦中になった女性は男性の力でどんどん支配していくになっていく。
これが果たしていいものだろうか。
と、私は遠くから斜めで構えて見ていた。
若い男女なら本気の恋もたくさんあるだろう。健全な恋としてあたりまえだろう。
しかし小説になるような恋も世間にたくさんあるだろうがそんな恋は双方が宝物の恋、一般の目には絶対に届いてこない。
と私の勝ってな想像である。
「妻の日記」ね。これから流行りそうな言葉になり日記を付け出す主婦がいるだろう。日記を付け出した妻を疑う夫、これも小説になりそうで面白い。
疑いの眼で見だした「妻の日記」、隠れて盗みするとそこには「同級生の昼ランチ」として女友達との昼ランチの様子が書かれている。
夫は女友達との昼ランチに安堵して日記を見なくなるがそれが本当は男性だったとか----。
または「妻の日記」は「献立」がびっしり書いてあってそれがやがて奥さんは栄養士として社会参加していくきっかけになったりしたとか-----。
「妻の日記」ね。
ちょっと考えさせられる番組に私の独断と偏見を書いてみた。
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