今日は三連休の真ん中、2日目です。
パソコンは10時半に閉めないといけない。
身支度をして近鉄奈良駅に行かないといけない。
笑福亭銀瓶さんが奈良に「銀瓶人語」の著書の販売とサイン会が午後2時から奈良ビブレの地下で行われる。
主催は近鉄奈良駅近くの書店「啓林堂」です。
フアンの方はぜひ顔を出してあげて下さい。
私はどうしても購入をしないといけないので顔を出してきます。
先日、取材でお会いしているもののどうしても2冊がまた必要で顔を出して購入してきます。それで早く出かけて行きつけの喫茶店に行って新聞を読んで時間を見計らって顔を出して自宅に戻ってきます。
仕事のない休日はぼんやり過ごしたいので自分の好きなことして過ごす。
行きつけの喫茶店に行って新聞や本を読むのは私の至福の時間です。
ぼんやりと好きなことをして過ごします。
本当は宝塚の現場があったがせっかくの休日の三連休、夫の体調もよくないのでずっと家にいるので今回は若い記者にしてもらってと編集局に要請をした。
こんなとも若いときは家のことをほったらかしにして現場にいったのにと思う。
しかしそんなバイタイリテイーがどんどん失せていく。
現場取材をして30年、悔いのあることも多々あるがこれも私の人生と思っている。あとはただ私が必要とされる間は同胞の中での恩返し、1人でも多くの人を取材しても同胞の機関紙で記事にして紹介すること。裏方になるのが私の人生と思っている。
現場から手が離れた時に記者生活を振り返ってと----。雑誌記者生活になるまでの専業主婦の1コマ、PTA活動を通して心ある教師と心ない教師のことなどなど書いてそこから始まった地方紙・奈良新聞の投稿から始まった私の奈良県での書くことの生活そして雑誌記者時代のこと。当時の日本と在日コリアンの歴史を織り交ぜて体験した人間関係を書いていけたらと思っている。
今は頭の中でやっと自分の記者生活を書く気持ちの「めりはり」が見えてきた。
これまでは自分のことは書いても誰も読んでくれないと思って敬遠していた。
しかし近年、小学校の同級生たちとよく会うようになって私の気持ちに変化が出てきていることに気がつきはじめてきた。
このごろ小学校や高校の同級生によく言われる。
「無口のヒラカワがなんで6つも口があるのか」
「よくしゃべるようになった。うるさいほどしゃべるようになった」という。
子どものころから高校に行っても会話のできない子どもだった。
小学校は会話ができなくて友達もつくれないという子どもだった。
こんな話をすると皆「信じられない」と口を揃えていう。
しかしここに在日コリアン特有の家庭環境があった。
父親の家庭に対する思いは家長のいうことを聞く。そして女はしゃべってはいけないという厳しい家庭環境で育ったので子どもらしい生活環境ではなかった。
そんなことがいつのまにか会話のできない子どもになって高校からは言葉にできないことを大学ノートに書いては心のストレス解消にしてきた。
そんなことがいつのまにか書くことが好きになった生活になった。
振り返っての記者生活、雑誌記者時代になりたてのころは新米記者の訪問になかなか心を開いて話をしてくれなかった。初めて会うのでそれは当然のことである。名刺を出していてもなかなか心を開いてもらえなかった。
結局自分から気候の話や時事を話して自分のことを少し話していく中で少しずつ心を開いてくれるようになった。
いつのまにか私はよく話すようになっていた。
たぶん仕事を通して私の性格、もともと明るくておしゃべり、そんな隠れていたところを記者をするようになって私を引き出してくれたと思っている。
自分の半生を書いているうちに私の生き方がどこかで見えてくるかもしれない。
しかし今はもう少し、現場を歩き回って小遣いぐらいは稼ぎたい。
そして育ててくれた先輩たちに少しでも役立つことができればせめてもの恩返しで私の人生の帳尻があってくる。
同胞の1人が私にいった。
「チョンさん。まだやめたらあかん。自分の居場所は作っておかなあかん」と。
なるほど「居場所」かと、やっと自分の「居場所」に心が響いた。
「居場所」の言葉を大切にして現場歩きができる体力がある間、必要とされる間は「居場所」を大切にしたいと思っている。
パソコンは10時半に閉めないといけない。
身支度をして近鉄奈良駅に行かないといけない。
笑福亭銀瓶さんが奈良に「銀瓶人語」の著書の販売とサイン会が午後2時から奈良ビブレの地下で行われる。
主催は近鉄奈良駅近くの書店「啓林堂」です。
フアンの方はぜひ顔を出してあげて下さい。
私はどうしても購入をしないといけないので顔を出してきます。
先日、取材でお会いしているもののどうしても2冊がまた必要で顔を出して購入してきます。それで早く出かけて行きつけの喫茶店に行って新聞を読んで時間を見計らって顔を出して自宅に戻ってきます。
仕事のない休日はぼんやり過ごしたいので自分の好きなことして過ごす。
行きつけの喫茶店に行って新聞や本を読むのは私の至福の時間です。
ぼんやりと好きなことをして過ごします。
本当は宝塚の現場があったがせっかくの休日の三連休、夫の体調もよくないのでずっと家にいるので今回は若い記者にしてもらってと編集局に要請をした。
こんなとも若いときは家のことをほったらかしにして現場にいったのにと思う。
しかしそんなバイタイリテイーがどんどん失せていく。
現場取材をして30年、悔いのあることも多々あるがこれも私の人生と思っている。あとはただ私が必要とされる間は同胞の中での恩返し、1人でも多くの人を取材しても同胞の機関紙で記事にして紹介すること。裏方になるのが私の人生と思っている。
現場から手が離れた時に記者生活を振り返ってと----。雑誌記者生活になるまでの専業主婦の1コマ、PTA活動を通して心ある教師と心ない教師のことなどなど書いてそこから始まった地方紙・奈良新聞の投稿から始まった私の奈良県での書くことの生活そして雑誌記者時代のこと。当時の日本と在日コリアンの歴史を織り交ぜて体験した人間関係を書いていけたらと思っている。
今は頭の中でやっと自分の記者生活を書く気持ちの「めりはり」が見えてきた。
これまでは自分のことは書いても誰も読んでくれないと思って敬遠していた。
しかし近年、小学校の同級生たちとよく会うようになって私の気持ちに変化が出てきていることに気がつきはじめてきた。
このごろ小学校や高校の同級生によく言われる。
「無口のヒラカワがなんで6つも口があるのか」
「よくしゃべるようになった。うるさいほどしゃべるようになった」という。
子どものころから高校に行っても会話のできない子どもだった。
小学校は会話ができなくて友達もつくれないという子どもだった。
こんな話をすると皆「信じられない」と口を揃えていう。
しかしここに在日コリアン特有の家庭環境があった。
父親の家庭に対する思いは家長のいうことを聞く。そして女はしゃべってはいけないという厳しい家庭環境で育ったので子どもらしい生活環境ではなかった。
そんなことがいつのまにか会話のできない子どもになって高校からは言葉にできないことを大学ノートに書いては心のストレス解消にしてきた。
そんなことがいつのまにか書くことが好きになった生活になった。
振り返っての記者生活、雑誌記者時代になりたてのころは新米記者の訪問になかなか心を開いて話をしてくれなかった。初めて会うのでそれは当然のことである。名刺を出していてもなかなか心を開いてもらえなかった。
結局自分から気候の話や時事を話して自分のことを少し話していく中で少しずつ心を開いてくれるようになった。
いつのまにか私はよく話すようになっていた。
たぶん仕事を通して私の性格、もともと明るくておしゃべり、そんな隠れていたところを記者をするようになって私を引き出してくれたと思っている。
自分の半生を書いているうちに私の生き方がどこかで見えてくるかもしれない。
しかし今はもう少し、現場を歩き回って小遣いぐらいは稼ぎたい。
そして育ててくれた先輩たちに少しでも役立つことができればせめてもの恩返しで私の人生の帳尻があってくる。
同胞の1人が私にいった。
「チョンさん。まだやめたらあかん。自分の居場所は作っておかなあかん」と。
なるほど「居場所」かと、やっと自分の「居場所」に心が響いた。
「居場所」の言葉を大切にして現場歩きができる体力がある間、必要とされる間は「居場所」を大切にしたいと思っている。
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