夕べ、インターネットで韓国の新聞を検索した時は「プリガナッタ(火がでた)という写真記事だった。そして朝検索すると焼け落ちている。
ショックを受けた。驚いた。
韓国ソウルの町を黙ってみているかのようにロータリーのところに鎮座していた。私はタクシーに乗ってソウルの町を走り回るのでタクシーからソウルの町を走ると必ず見ていたが歩いて見ることはなかった。だから写真に撮ることがなかった。いつもあると思っていた。それが火事で無残な姿をさらけ出した。
とても残念である。
韓国の古代史を語るときやはり在日韓国人は韓国の古代史を抜きにしては日本の古代史は語れない。在日韓国人の私は古代朝鮮半島からきたものだと自負していた。もちろん朝鮮王朝の時代はいろいろあったものの朝鮮通信使という日本との関係の歴史があった。その象徴ともいえる南大門「崇礼門」が焼け落ちた。放火ともいわれている。文化財保護法と言うのがあったのだろうか。
楼閣にスプリンクラーを設置するのはむずかしかったのだろうか。
それも旧正月の連休明の火災である。
なんていうこと-----。
私は韓国にいくとソウル市庁近くのニュー国際ホテルに宿泊をする。そんなに宿泊料金は安くないが在日韓国人が経営しているということでここにとまっている。そして便利である。ソウル駅にも近い。地下鉄も近い。明洞の繁華街も近い。近年、奥深い階段を利用しての地下鉄は利用しなくてタクシーで移動している。タクシーで移動すると必ずこのロータリーのところを通っている。
昨年5月に訪韓したてときも知人の車の世話になったがこのロータリーをくるくるまわっていた。
徳寿宮からソウル駅に向かって歩くと南大門がある。徳寿宮から大統領府が見える大通りを歩いていくと光化門がある。ここもロータリーになっていて車がよく通っている。ここで1度知人と待ち合わせたことがあった。そしてこの近くで食事をしたことがあった。
徳寿宮からソウル市庁を越えていくとソウルの新名所になっている清渓川(チョンゲッチョン)がある。
大通りは12車線、車がひっきりなしに往来している。
近年この大通りに横断歩道ができたので徳寿宮にいきやすくなった。明洞の繁華街もいきやすくなった。
若いときはソウル駅から慶州にも釜山にも1人でセマウルに乗ってでかけた。近年はソウルですることが多くなったので利用することがなくなった。
そんなソウルの町、何があったのだろうか。国宝第1号の出火、いったい何があったのだろうか。文化財保護というものをきちんとしなければならない。
1960年から1980年代、軍事政権と民主化運動、多くの苛酷な歴史があった。しかし1990年代に入って韓国も先進国に近づいた。イデオロギー戦略も大切だが今ある韓国の歴史遺産を最も大切にしてもらいたい。
先人が作った遺産は世界に誇れる物である。
日本に対してもっとも誇れる文化遺産の宝庫である。在日韓国人の私は切に大事にしてもらいたいと願うばかりである。
私が中学校3年のときに担任になった数学と美術専攻の担任教師は授業中に話した。また朝鮮ということばに下を向いていると担任教師は黒板を拳骨でドンドンと 叩いた。その音の大きさに思わず顔を上げた。
担任教師の視線は私に注がれていた。そして担任教師は言った。
「日本にあるお寺や美術は中国から来ていません、朝鮮半島からきたのです。中国から朝鮮に入って朝鮮で独自の文化を作って日本に来たのです。中国から来ていません。京都の広隆寺の弥勒菩薩も朝鮮からきたものです。弥勒菩薩と同じものが韓国の中央博物館にあります」と声をさらに大きくして話していました。今もその光景が私の目に焼きついている。担任教師は私を韓国のことを嫌いにならないで自負心を持って生きて欲しいとい願いだったと大人になってわかった。この恩返し、私は書くことでしかできない。そんな思いも私の中に入っている。私を力強く生きる糧になった朝鮮との日本との関係、そこから近現代史が抜け落ちている。抜け落ちた教育のカリキュラムは日本の学校教育の意図的なものだった。抜け落ちたところをなぜか私はしつこく書き込んでいる。
しつこく書き込んでも日本社会のなかで理解できない人もいるだろう。それでも書き込んでそして古代史を知って古代朝鮮の豊富な宝物も知って自負心をやしなってもらいたいと思っている。
自負心の1つ、南大門が焼け落ちた。なんとも残念である。
ショックを受けた。驚いた。
韓国ソウルの町を黙ってみているかのようにロータリーのところに鎮座していた。私はタクシーに乗ってソウルの町を走り回るのでタクシーからソウルの町を走ると必ず見ていたが歩いて見ることはなかった。だから写真に撮ることがなかった。いつもあると思っていた。それが火事で無残な姿をさらけ出した。
とても残念である。
韓国の古代史を語るときやはり在日韓国人は韓国の古代史を抜きにしては日本の古代史は語れない。在日韓国人の私は古代朝鮮半島からきたものだと自負していた。もちろん朝鮮王朝の時代はいろいろあったものの朝鮮通信使という日本との関係の歴史があった。その象徴ともいえる南大門「崇礼門」が焼け落ちた。放火ともいわれている。文化財保護法と言うのがあったのだろうか。
楼閣にスプリンクラーを設置するのはむずかしかったのだろうか。
それも旧正月の連休明の火災である。
なんていうこと-----。
私は韓国にいくとソウル市庁近くのニュー国際ホテルに宿泊をする。そんなに宿泊料金は安くないが在日韓国人が経営しているということでここにとまっている。そして便利である。ソウル駅にも近い。地下鉄も近い。明洞の繁華街も近い。近年、奥深い階段を利用しての地下鉄は利用しなくてタクシーで移動している。タクシーで移動すると必ずこのロータリーのところを通っている。
昨年5月に訪韓したてときも知人の車の世話になったがこのロータリーをくるくるまわっていた。
徳寿宮からソウル駅に向かって歩くと南大門がある。徳寿宮から大統領府が見える大通りを歩いていくと光化門がある。ここもロータリーになっていて車がよく通っている。ここで1度知人と待ち合わせたことがあった。そしてこの近くで食事をしたことがあった。
徳寿宮からソウル市庁を越えていくとソウルの新名所になっている清渓川(チョンゲッチョン)がある。
大通りは12車線、車がひっきりなしに往来している。
近年この大通りに横断歩道ができたので徳寿宮にいきやすくなった。明洞の繁華街もいきやすくなった。
若いときはソウル駅から慶州にも釜山にも1人でセマウルに乗ってでかけた。近年はソウルですることが多くなったので利用することがなくなった。
そんなソウルの町、何があったのだろうか。国宝第1号の出火、いったい何があったのだろうか。文化財保護というものをきちんとしなければならない。
1960年から1980年代、軍事政権と民主化運動、多くの苛酷な歴史があった。しかし1990年代に入って韓国も先進国に近づいた。イデオロギー戦略も大切だが今ある韓国の歴史遺産を最も大切にしてもらいたい。
先人が作った遺産は世界に誇れる物である。
日本に対してもっとも誇れる文化遺産の宝庫である。在日韓国人の私は切に大事にしてもらいたいと願うばかりである。
私が中学校3年のときに担任になった数学と美術専攻の担任教師は授業中に話した。また朝鮮ということばに下を向いていると担任教師は黒板を拳骨でドンドンと 叩いた。その音の大きさに思わず顔を上げた。
担任教師の視線は私に注がれていた。そして担任教師は言った。
「日本にあるお寺や美術は中国から来ていません、朝鮮半島からきたのです。中国から朝鮮に入って朝鮮で独自の文化を作って日本に来たのです。中国から来ていません。京都の広隆寺の弥勒菩薩も朝鮮からきたものです。弥勒菩薩と同じものが韓国の中央博物館にあります」と声をさらに大きくして話していました。今もその光景が私の目に焼きついている。担任教師は私を韓国のことを嫌いにならないで自負心を持って生きて欲しいとい願いだったと大人になってわかった。この恩返し、私は書くことでしかできない。そんな思いも私の中に入っている。私を力強く生きる糧になった朝鮮との日本との関係、そこから近現代史が抜け落ちている。抜け落ちた教育のカリキュラムは日本の学校教育の意図的なものだった。抜け落ちたところをなぜか私はしつこく書き込んでいる。
しつこく書き込んでも日本社会のなかで理解できない人もいるだろう。それでも書き込んでそして古代史を知って古代朝鮮の豊富な宝物も知って自負心をやしなってもらいたいと思っている。
自負心の1つ、南大門が焼け落ちた。なんとも残念である。
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