鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

1月5日(木)朝の空は曇っている。

2012-01-05 08:45:54 | 直言!
駐大阪韓国総領事館の新年会です。
夕方4時から---。これはいろいろと事情があるが---。
韓国の公館は今日から始務式、午前中は年の初めの会議があって---。
それから幹部役員は挨拶まわりなど----。
そして4時からおよそ1時間、5時35分の特急に乗れるように出ないといけない。
その前の3時からある領事に会って選挙対策を聞かないといけない。
昨年末に取材要請があったものの風邪をひいて寝込んでしまった。
治ったと思ったら新年特集のためにまた毎日が追われていくことになった。
最後の仕事、電話などのやり取りで26日の午前中に終わった。
そして家の掃除、合間を見て少しずつしたので今年はいつもより楽にできた。

正月、孫から電話が入った。
「おめでとう」の挨拶。
上の男の子はもう4月には6年になるので話す言葉も男の子らしくはっきりと話すが昔みたいにもうあれこれと話さなくなってきたのでもう少年の域、思春期に入りかけているのだろう。
下の女の子は今度2年になる最初は福岡の嫁さんの母親と間違っていたが私が「奈良のおばあちゃん」というと奈良のおばあちゃんになると沖縄県の子どもは関西弁が分からないらしい。早口でしゃべってはいけないと気がついてゆっくりと話していた。
嫁さんの母親とはよく話しているのだろう。しかし私はそんなにたえず電話をしないので何を話していいのか戸惑っているらしい。
昨年はあれこれと話して、なかなか電話を離さなかったが半年過ぎるとやはり成長しているらしい。適当なところで「お兄ちゃんに代わります」といっている。
こうして孫たちも成長していく。
上の子どもが沖縄から出たいといえば出してやると息子は以前、いっていたが。関西だったら私の家になるか近くが住みかになるかもしれない。しかしそんな時はもう私はこの世にいないだろう。

自分も子育てをしてきたのにあっという間に歳月が過ぎている。
私は息子に「お母さんは68歳になる。お父さんは73歳になる」といった。
息子は私をまだ若いと思っていた息子だったのか。
「もう、年やんか」という。
それやったら親をもっと大事にせえ----。と、心の中でいっているが面と向かってはいえない。
ただ私は息子に「お父さん、元気な間に新しい家を見せたいので暖かくなったら沖縄県に行くわ」といった。
この言葉で親がいかに年をとったということを少しは実感するだろう。

親不幸の息子にまた私はやはり関西に戻さないといけなかったのかと----。
亡くなった父親の顔を思い出している。
「大学卒業したら息子は奈良に戻さないとあかん」と。
父親は私の老後を心配してくれていたことを今になってわかってきている。
女の子が嫌いといっていた父親、いつもあのクソ親父と思っていた。
心の襞をノートに書いていた。
それが書く仕事につながった。
また草葉の陰から声が聞こえてくる。
「厳しい親で話さないことをノートに書いたのはお前の才能ではない。祖母の弟が韓国で文学学者だったのでその血筋を少しもらったみたいなもの。人間は努力せんとあかん。努力せんと血筋も才能も花が咲かへん。息子の教育は失敗やった。親の近くで暮らさない親不孝の息子に育てたのはお前の失敗や。失敗は自分で尻を拭かなあかん」と----。そんな声が聞こえてきそうだ。

戦前・戦中・戦後の日韓の歴史をよく知っていた親父、弟は「もっと長生きして教えてもらうことがまだまだあった」という言葉に、弟もやっと親父の存在の大切さに気付いたのだろうか。
私は23年間、親と一緒に暮らした。
弟はおよそ40数年間一緒に暮らした。
それでも「親父に教えてもらうことがまだまだあった」と、いう言葉に一瞬、私は絶句した。
父親の弟、2人はまだ健在、親父の生き方、民族団体に所属しないで日本社会で生きた親父なりの悲しい切ない人生に今は理解しているのだろうか-----。と。
裕福に暮らしている1人の弟のことを死ぬ間際に私にいった。
「○○は1度くらい、韓国に連れてくれてもよかったのに」といった。1度は生まれ故郷を見たかったのが人生の最後の目的だったのかとまた今、私は気がついている。
私が「韓国に一緒に行こう」といっても首を縦にふらなかった。
嫁に出した娘は嫁ぎ先の家族で親が介入できるものではないと、そのへんのケジメはきちんとしていた
けれど1度、私は父親を韓国のふるさとに連れていきたかった。
そして親父はいった。
「俺が故郷に行く時は風呂敷程度のお金ではすまないから」と。
本家の長男として生まれた。
ずっと日本に留まって故郷に帰ることは戦後なかった。
故郷のことは財閥になった分家筋に任せていたが本家の長男としての「自責の念」があったのだろうか。
私にもらした言葉が「○○は1度くらい、韓国に連れていってくれてもよかったのに」という言葉になったのだろう。本当に他界する前の1ヶ月前ほどたった。
叔父はパソコンしないのでこのブログを見ないだろう。
従兄弟・従姉妹たちはみているだろう。
どう思うのだろうかと思いながらこのへんで----。

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