鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

5月17日(月)晴れているが蒸し暑い。

2010-05-17 11:36:05 | 直言!
11時になったらパソコンを閉めて昼食の支度そして昼食して外出の支度をしないといけない。今日は生活費を引き出して振込みするところに振り分けて振り込まないといけない。
今日は生駒市の現場だが生駒から登美ガ丘に行く電車に乗換えないといけない。夕方からの現場なので今日は少し遅くなりそうだ。
夕食は何もしないで出かけていく。
久しぶりに刺身を買ってこよう。
後のおかずはその時に考えよう。
疲れていたら惣菜を買ってくる。
気分がよかったら何か野菜のおかずを作ることにする。
朝からネットの原稿を読み直した。
字数がオーバーしすぎていた。
昨日、きちんと要点を読めばよかったのにあわてて原稿作成に取りかかってそのまま原稿を作っていた。
字数が倍になっていたので削って削って1300字にした。
緊張したのかパソコンにしがみついていたのか少し血圧が上ったようだ。
朝も血圧が上っていた。腰痛の薬を飲みかけて血圧が高くなったような気がするので今日はやめた。今度、内科検診に行った時に医師に話そう。
腰痛はもうほとんど痛みがなかったので飲むことをやめて様子を見ることにした。
様子を見るということで思い出した。
歯科医院は3回の通院で終った。虫歯を金具でかぶせた。様子をみましょうになった。
痛くない歯科医院なのでもう大方20数年、この歯科医院にお世話になっている。最後の日、歯の黄色いのが気になるので聞いた。
加齢があるという。
白くする治療もあると言って下さった。
保健は聞かないがそんなに高くなかった。
「65歳になってするのも恥ずかしい」と言ったが「そんなことはない」と言っていたが-----。年を重ねた女優たちの歯の白さはここにあったのかと納得した。

韓日サロン・・リビングルームで書いている小説の中にモデルのことが出てくる。これは本当にある話。名前は変えているが東京から来たことも本当、彼との出会いはまったく嘘物語、モデルをしていたことは実話、今も奈良市内で暮らしている。私は最初見たときに彼女に言った。
「少女漫画にでてくるような人、目の上に漫画のように星がキラリと光っている」と言った。初めて奈良の町でみたが少女漫画に出てくるような人だった。
モデルの仕事の内容は聞いていないがまったく想像で書いた。
私の従姉妹、叔父の娘は皆、美人系、その中の1人は京都で着物のモデルの話があった。着物コンテストに推薦されていた。
しかし従姉妹はいさぎよくモデルの仕事をやめてすぐに結婚した。
他の姉妹は皆、日本人に見初められて日本人と結婚している。1番上の子の時は家庭騒動が起きて叔父の反対は壮絶なものだった。もちろん相手の男性の家族も反対だった。しかし叔父が折れたのは本人に死なれたらと思うのが脳裏にあった。叔父の兄弟の子どもで始めて日本人と結婚した国際結婚である。1983年の頃だった。
今は国際結婚というと家族の反対があっても明るい結婚式になった。
しかし従姉妹が結婚するときは涙で心の中は皆「別れて帰ってこないで。出戻り娘にならないでほしい」と願って皆、心の中が晴れなかった。
しかし日本人と結婚した従姉妹たち皆、幸せに暮らしている。
叔父の厳しい家庭教育は辛抱することを教えた。
これはヒラカワの家庭教育にもあった。
ヒラカワの娘さんをもらったらたいていのことは辛抱できると周りの同胞はよく言っていた。そんな言葉を聞きながら私は「本当にそうかな。親が見ていないところで私はけっこうきままにやってきたのに」と内心いつも思っていた。
従姉妹がなぜモデルの仕事をやめたのか。
「じっとしていてあっち向いてと言われるとじっとあっちに向かないといけない。黙ってじっとしているのがたえられない。微笑みだけしているのがたえられない」と言っていた。
そんな従姉妹の話を思い出して小説に盛り込んだ。
この従姉妹は同胞と結婚している。
今も幸せに暮らしている。
叔父はやはり血なのか、この同胞の娘婿を大事にしている。
従姉妹は年を重ねているが今も美人である。
今、アメリカに暮らしている従姉妹も、すごい美人である。
叔母は何とか同胞と結婚してほしいと願い同胞と何度も見合いをさせたがどの話しもまとまらなかった。そして世話をする人が見抜いたらしい。日本人の彼氏がいることを見抜いた。
これで叔母はあきらめてその彼と結婚させた。
今、アメリカで暮らしている。
年賀状は来ていたが返事を書いていなかったことを今思い出した。
日本ならいつも出していたが-----。
なぜかこの叔父の娘さん、何人もいるのに全部美人、叔母が美人、今は年をとってしまったが若い時は同胞の間でも飛び切りの美人だった。
こんな美人に叔父が一目ぼれした。
恋愛結婚したのは叔父だけである。
後は全部、祖父が決めた。祖父がいなくなると叔父たちが決めていった。
そんなことで私の時代、1960年代の前半に結婚適齢期を迎えていたが日本人との結婚は絶対に駄目だった。
日本人との結婚に家柄が汚れると父親は言った。
そして日本人と結婚すると必ず差別にあって娘は絶対に離婚して帰ってくると思っていた。これが親にたえられなかった。
こんな時世を生きてきた。現在の在日コリアンの日本人との国際結婚、10人に8人と言われているが皆、割り切って祝福して結婚させている。
もちろん日本人からの反対はある。中には在日コリアンの家族の反対もある。
しかしおよそ最後には国際結婚している。
モデルのことを書いていていろんなことを思い出した。
ちなみに私は子どもの頃から叔母たちに「不細工」「器量が悪い」と言われて育った。しかし祖父母だけは決してそれをいわなかった。
人間としてどう生きるのか、そんな話を韓国語で祖母はよく話していた。
祖父は1度だけ韓国語を作った学者の話をしたことがあった。
祖父ともっと話しをしておけばよかったが残念ながら私の高校1年の9月に他界した。そのお墓が桜井市朝倉慈恩寺の村墓地にある。直系の父親はここに入っている。分家、祖父の弟の代は天理市内の霊園に墓地が建てられている。
家族関係を知っているの代も少なくなってきた。年輩である2世の私が話して従姉妹や従兄弟たちに伝わればと思っている。ここから自分たちのルーツの関係が分かってくる。
先人たちが汗を書き差別も克服して一生懸命に働いて財をなしたこともわかってくる。とにかくよく働いた。本家は叔父たちが会社員で生涯を送った人が多いので普通の生活をしているが大成功して財を作った人はいない。しかし財を成した分家も本家と共通することがある。私が側面から見ていて感じた。けっして表に出てこないが目立たないように仕事して活動している。
この姿に父親の姿勢と重なる。真面目で正直人間だったところも重なる。
血筋だと年を重ねてようやくわかってきた。
従兄弟たちや従姉妹たち、甥や姪が私のブログを読んでいたらルーツを同じくする人たちが関西で財閥として知られていることも知らないより知っておいたほうがよいと思ってここに書いた。
11時過ぎた。
これから昼食して外出の支度をします。
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