荷物を両手に持って肩に鞄をかけて歩いていた。
市内循環バスが気になるのでつい上ばかり見ていて足元を見ていなかった。
少しの段差に躓いてこけてしまった。
両手は思いきりコンクリートについた。
その時は手の平が痛かったが今は左の肩のあたりが痛い。
ふんばったのでその後遺症なのかもしれない。
「大丈夫ですか」と声をかけて駆け寄ってくれた人は40代の男性、世間にはこうして声をかけてくれる人がいたのでほっと安心した。
「男性は気をつけて下さい」ともいって下さった。
私は起き上がりながら「年をとって67歳になるとこんな小さい段差に躓いています。バスのほうばかり見て歩いていたものですから」といった。
また男性は「大丈夫ですか。気をつけて下さい」といって下さった。
私は「大丈夫です。これから気をつけます。ありがとうございます」と頭を下げてバス乗場に行った。
こけたことは恥ずかしかったがもっと心に染みたのが声をかけて下さった男性の言葉だった。「大丈夫ですか。気をつけて下さい」と。
その男性の年齢、私の息子とそう変わらない年齢、男性の親も私と同じくらいかもしれない。親と同居しておられるのだろうか。
私のような年齢の老いを知っておられたのだろうか。
心に染みる温かい言葉だった。
バスがすぐに来たのでバスに乗った。
バスに乗っているとJR奈良駅に来た。
かつて以前はこの近くに奈良新聞社があった。
午後1時頃の時間、このへんを昼食などでよく歩いていた当時の職員たちの光景が目に浮かんできた。そして皆若かった頃の様子が浮かんでくる。
私も当時はまだまだ若かった。
30代の終りから40代の初めだった。
少しの段差でひっくりかえることはなかった。
中ヒールでせわしく歩いていたのに-----。
なぜか過ぎた日々に懐かしく胸がキュンとしていた。
本当に気をつけないといけない。
声をかけて下さった男性に感謝しながら息子のことも思い出していた。
息子は何を思っているだろうか。
私は息子に心の中で話していた。
「おかんはもう在りし日のおかんと違う。中ヒールを履いて走り回っていたおかんはもうはるかかなたになった。ペッタン靴で3センチ程度の段差でひっくりかえっているおかんがいまのおかんや。おかんのことを心配しているのやろか」と。そして夫の声も聞こえてくる。
「息子みたいな親のことなんか何も考えてへん。息子のことなんて思い出すな」と。------。遠く、沖縄の大学に行かした。親もまだまだ若かった。
お金はなかった。息子の教育費で家の中は火の車だった。
けれど夢もあったし若さではちきれていた。
老いがくるとは想像していなかった。
私の父親が「子どもは大学卒業したら奈良に戻さんとあかん」と、何度もいっていた。私は父親に女の子は嫌いといつも言われて育ったので父親の言葉を真剣にとることができなかったが自分が老いに入ってやっと父親の言葉の意味が分かった。
人生の先輩として人生の生き方、親子のあり方を遠まわしだったが私に教えてくれていた。そしてなによりも私という娘に対する老後を1番心配していたのは父親だったということが今になってやっと分かった。それも父親の愛情だとやっとわかった。
ずっと父親を嫌っていた私、女の子は嫌いといわれたことはずっとずっと心の傷になっていた。そしてクラスでもトップクラスだった妹の成績と比べて私はできそこないの子どもと言われていたことも心の傷になっていた。
父親は小学校をトップクラスで卒業したこともあって私の成績にいつも揶揄して妹と比べては批判していた父親が憎らしくてしょうがなかった。
私はそのたびに心の中で反発していた。
私は弟の子守して家族の夕ご飯を作って勉強する時間なんかあらへん。いつも朝5時に起きて勉強しているのに。妹は体が弱くていつも寝ていて寝ながら本を読んで勉強ばかりしていたのにそんなものと比べられるとはたまったものではないと。
しかし老後のことを1番心配しはてくれたのは父親だった。
そんなことを今日はひっくりかえって父親と息子を思い出した。声をかけて下さった人がきっかけだった。
朝から病院、9時に自宅をでて9時10分に病院について9時45分に診察、会計を済ませて薬局に昨日、入れておいた処方箋、今日取りに行って病院の送迎バスでバス乗場に出た。近鉄奈良駅にでると10時30分、行きつけの喫茶店で新聞と本を読んで出たのが12時前、本屋によって文庫本2冊買ってスーパーで昨日買い忘れたものを買って自宅に戻ろうとしたときに段差につまずいてひっくりかえった。
しかしこの程度で終わったことに感謝しておこう。
そして声をかけて下さったまだ若い男性に日本の世の中、まだまだ心の温かい人がいっぱいおられるということに気づかされた。
今日の日に感謝して今日はこのへんで。
市内循環バスが気になるのでつい上ばかり見ていて足元を見ていなかった。
少しの段差に躓いてこけてしまった。
両手は思いきりコンクリートについた。
その時は手の平が痛かったが今は左の肩のあたりが痛い。
ふんばったのでその後遺症なのかもしれない。
「大丈夫ですか」と声をかけて駆け寄ってくれた人は40代の男性、世間にはこうして声をかけてくれる人がいたのでほっと安心した。
「男性は気をつけて下さい」ともいって下さった。
私は起き上がりながら「年をとって67歳になるとこんな小さい段差に躓いています。バスのほうばかり見て歩いていたものですから」といった。
また男性は「大丈夫ですか。気をつけて下さい」といって下さった。
私は「大丈夫です。これから気をつけます。ありがとうございます」と頭を下げてバス乗場に行った。
こけたことは恥ずかしかったがもっと心に染みたのが声をかけて下さった男性の言葉だった。「大丈夫ですか。気をつけて下さい」と。
その男性の年齢、私の息子とそう変わらない年齢、男性の親も私と同じくらいかもしれない。親と同居しておられるのだろうか。
私のような年齢の老いを知っておられたのだろうか。
心に染みる温かい言葉だった。
バスがすぐに来たのでバスに乗った。
バスに乗っているとJR奈良駅に来た。
かつて以前はこの近くに奈良新聞社があった。
午後1時頃の時間、このへんを昼食などでよく歩いていた当時の職員たちの光景が目に浮かんできた。そして皆若かった頃の様子が浮かんでくる。
私も当時はまだまだ若かった。
30代の終りから40代の初めだった。
少しの段差でひっくりかえることはなかった。
中ヒールでせわしく歩いていたのに-----。
なぜか過ぎた日々に懐かしく胸がキュンとしていた。
本当に気をつけないといけない。
声をかけて下さった男性に感謝しながら息子のことも思い出していた。
息子は何を思っているだろうか。
私は息子に心の中で話していた。
「おかんはもう在りし日のおかんと違う。中ヒールを履いて走り回っていたおかんはもうはるかかなたになった。ペッタン靴で3センチ程度の段差でひっくりかえっているおかんがいまのおかんや。おかんのことを心配しているのやろか」と。そして夫の声も聞こえてくる。
「息子みたいな親のことなんか何も考えてへん。息子のことなんて思い出すな」と。------。遠く、沖縄の大学に行かした。親もまだまだ若かった。
お金はなかった。息子の教育費で家の中は火の車だった。
けれど夢もあったし若さではちきれていた。
老いがくるとは想像していなかった。
私の父親が「子どもは大学卒業したら奈良に戻さんとあかん」と、何度もいっていた。私は父親に女の子は嫌いといつも言われて育ったので父親の言葉を真剣にとることができなかったが自分が老いに入ってやっと父親の言葉の意味が分かった。
人生の先輩として人生の生き方、親子のあり方を遠まわしだったが私に教えてくれていた。そしてなによりも私という娘に対する老後を1番心配していたのは父親だったということが今になってやっと分かった。それも父親の愛情だとやっとわかった。
ずっと父親を嫌っていた私、女の子は嫌いといわれたことはずっとずっと心の傷になっていた。そしてクラスでもトップクラスだった妹の成績と比べて私はできそこないの子どもと言われていたことも心の傷になっていた。
父親は小学校をトップクラスで卒業したこともあって私の成績にいつも揶揄して妹と比べては批判していた父親が憎らしくてしょうがなかった。
私はそのたびに心の中で反発していた。
私は弟の子守して家族の夕ご飯を作って勉強する時間なんかあらへん。いつも朝5時に起きて勉強しているのに。妹は体が弱くていつも寝ていて寝ながら本を読んで勉強ばかりしていたのにそんなものと比べられるとはたまったものではないと。
しかし老後のことを1番心配しはてくれたのは父親だった。
そんなことを今日はひっくりかえって父親と息子を思い出した。声をかけて下さった人がきっかけだった。
朝から病院、9時に自宅をでて9時10分に病院について9時45分に診察、会計を済ませて薬局に昨日、入れておいた処方箋、今日取りに行って病院の送迎バスでバス乗場に出た。近鉄奈良駅にでると10時30分、行きつけの喫茶店で新聞と本を読んで出たのが12時前、本屋によって文庫本2冊買ってスーパーで昨日買い忘れたものを買って自宅に戻ろうとしたときに段差につまずいてひっくりかえった。
しかしこの程度で終わったことに感謝しておこう。
そして声をかけて下さったまだ若い男性に日本の世の中、まだまだ心の温かい人がいっぱいおられるということに気づかされた。
今日の日に感謝して今日はこのへんで。
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