鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

前から読みたかった本、やっとみつけた。

2006-06-21 07:50:08 | 直言!
涙ぐみながら笑いながら読んだ。
「がいば(すごい)ばあちゃん」はもうすぐ読み終える。
なんか人生悲喜交々を生き抜いたがいばばあちゃんの生活の知恵とかわいい孫だけれど自分のことは自分でしなさいと身を持ってしていくしつけの仕方、勉強だけでない。人間生涯生きていく工夫と知恵を教えている。
貧しいことは悪いのではない。世相がそういう時代ということを自覚している。しかし努力して工夫して節約して始末していくが将来明るい見通しを教えているような気がした。

こんな時代ははるか遠くになっていくがこの時代のことの「語り部」が必要だろう。
けっして恵まれてこうした暮らしになったのでない。
日本の敗戦後何もない時代に育った人たちが今や国会でも質疑応答に借り出されるほど不正が横行している。
みんな貧しかったが明るく生きていた。
私の子ども時代はまだまだ日本の国は物資がなかった。私は1951年に小学校に入学している。靴をはいている人はごくわずかだった。まだみんなそのころ下駄やわらぞうり、靴はほんの入学式のときゴム靴を履く程度だった。
下駄をはいてドッチボールをしていた。
寒風の中を下駄と何度も何度も編みなおしたセーター、糸が入った母親手作りのセーターを着て走り回っていた。
ようやく小学校の5年の終わり、もう下駄を履いて学校にこないようにと学校からの通達だった。母親は無理をして靴を買ってくれたのだろう。
それでもまだ靴の買えない家庭もあった。
寒風の中、素足で下駄を履いている人もいた。
スカートに足袋をはいて下駄を履いていた。
そんな時代の日本だった。今の若い人は他人事のようによその世界のように聞いているだろうがこんな時代を見てきた。
高校時代、弁当のおかず、百姓屋さんの子どもは玉子焼きも入っていた。普通はそんなものでなかった。夕べの残りとご飯の上に塩こぶと梅干があればよかった。塩鮭なんか1ヶ月に数えるほどだった。
私の弁当は豆腐屋が1軒おいてとなりだったので大方油揚げの煮たものだった。
そしてご飯の上は塩こぶに梅干だった。百姓屋の子どもは玉子焼きを毎日いれてきたのでうらやましかった。同級生の弁当もみんな似たりよったりだった。高野豆腐を煮たものだけ入っていた人もいた。
そんな中でもみんな明るかった。

もう1度、あのころ工夫した生活環境を知りたくて「がしばばあちゃん」を読んでいる。
日本の戦後の歴史をふりかえるのに貴重な資料にもなるだろう。
これは小説でもない。実話である。実際の話を書いたものである。
本を読みながらうっすら涙を浮かべながら笑いころげている。

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