ようやく今日と明日は自宅である。しかし仕事はいっぱいたまっている。
昨日は全国から民族教育に関係する人たち総勢20数人が集まった。
内容の濃い話で現場を通しで私は勉強させてもらった。
奈良の過疎地では考えられない民族教育が大阪では多様化して行なわれている。
そして東京はやはり大都市、韓国から日本に駐在する子弟の子どもたちが多く在籍する韓国系の民族学校の様子も奈良から見ると考えられない。
在日同胞の多様に目を見張るものがあった。
懇親会では多少は心がリラックスをしたのか日本や韓国で受けた差別事象がでてくる。
在日韓国人の全部が多かれ少なかれ日本社会でも韓国社会でも排除されてきた人生が浮かび上がってくる。韓国の大学に留学して卒業して日本にもどってくるが1960年当時の韓国はまだ日本植民地支配から解放されて15年、そのあと動乱があって韓国社会は辛酸の歴史を歩んでいた。
そのとき日本から留学した在日韓国人たちが話す。「韓国人は日本と聞いただけで体が震える人が多かった。そして日本人とは決して言わなかった。差別事象で呼んでいた」と話してくれた。
そして「日本植民地時代、日本がどれほどのことをしたのかということです」と話した。
けれどたくましく在日韓国人はこの日本で生き延びた。
それはそうと私はタウンジャケットを忘れてきた。
会場で忘れたと思う。
夕方には自宅に戻れると考えて夕食の支度をしてこなかったので懇親会に参加しないで帰ろうとした。
しかしまわりの男性たちは一緒に行こうという。
私は「家に問題児がいるから帰る」というとみんな一瞬、ぎょっとする。
私はあわてて「何もしないだんなのことです」と言ったらみんなホットされる。
そして次の言葉が「だんななんかほって行こう」という。
それがまだ私は気乗りがしない。
者になったときに右も左も分からない私を道筋をつけるようにしてくださった大阪の婦人会の役員の人だった。
このとき心の中でこれはあかんと悟って「行きます」と行った。
あわてて飲食店の送迎バスに乗り込んだ。そしてまだタウンジャッケとのことか気がつかない。
懇親会が終わって帰ろうとすると気がついた。周りに「忘れた」と言って大事にしてはいけないと思ってそれ以上黙っていた。そしたら会場提供者の人が「この車で会場にもどろう」というがもう遅いので「会場にあれば着払いの宅急便で送って下さい」と言った。戻っていれば1時間遅くなる。夜の1時間はこたえる。京都8時の特急にのる気持ちはまだ気が楽である。
タウンジャッケットもそんなにいいものではない。7年も8年も着ている。着易いので他の物もあるのにこの汚いタウンジャケットを着ている。
1枚また買おうとおもいながらゆっくりと見ている時間がない。そして夫の車でいかないと大手スーパーが近所にないのでそのまま汚いタウンジャッケとを着ている。先日、大阪の鶴橋商店街の中を歩いていると手ごろの値段で大きい目のタウンジャケットがあったがあわてて衝動買いすると失敗する。ふと頭に浮かんでやめた。
それがまたこのタウンジャッケットが出てくると着易いのでまたこれを着てしまうだろう。
たまたま昨日はタウンジャッケとの下にジャケットを着てその下にトックリセーターを着ていた。暖冬なので助かった。
今日は晴れているけれど家で集中して仕事である。
さっき、ゲラの校正もかたづけて一仕事したので少し休憩。コーヒーをいっぱい飲もうと――――。
昨日は全国から民族教育に関係する人たち総勢20数人が集まった。
内容の濃い話で現場を通しで私は勉強させてもらった。
奈良の過疎地では考えられない民族教育が大阪では多様化して行なわれている。
そして東京はやはり大都市、韓国から日本に駐在する子弟の子どもたちが多く在籍する韓国系の民族学校の様子も奈良から見ると考えられない。
在日同胞の多様に目を見張るものがあった。
懇親会では多少は心がリラックスをしたのか日本や韓国で受けた差別事象がでてくる。
在日韓国人の全部が多かれ少なかれ日本社会でも韓国社会でも排除されてきた人生が浮かび上がってくる。韓国の大学に留学して卒業して日本にもどってくるが1960年当時の韓国はまだ日本植民地支配から解放されて15年、そのあと動乱があって韓国社会は辛酸の歴史を歩んでいた。
そのとき日本から留学した在日韓国人たちが話す。「韓国人は日本と聞いただけで体が震える人が多かった。そして日本人とは決して言わなかった。差別事象で呼んでいた」と話してくれた。
そして「日本植民地時代、日本がどれほどのことをしたのかということです」と話した。
けれどたくましく在日韓国人はこの日本で生き延びた。
それはそうと私はタウンジャケットを忘れてきた。
会場で忘れたと思う。
夕方には自宅に戻れると考えて夕食の支度をしてこなかったので懇親会に参加しないで帰ろうとした。
しかしまわりの男性たちは一緒に行こうという。
私は「家に問題児がいるから帰る」というとみんな一瞬、ぎょっとする。
私はあわてて「何もしないだんなのことです」と言ったらみんなホットされる。
そして次の言葉が「だんななんかほって行こう」という。
それがまだ私は気乗りがしない。
者になったときに右も左も分からない私を道筋をつけるようにしてくださった大阪の婦人会の役員の人だった。
このとき心の中でこれはあかんと悟って「行きます」と行った。
あわてて飲食店の送迎バスに乗り込んだ。そしてまだタウンジャッケとのことか気がつかない。
懇親会が終わって帰ろうとすると気がついた。周りに「忘れた」と言って大事にしてはいけないと思ってそれ以上黙っていた。そしたら会場提供者の人が「この車で会場にもどろう」というがもう遅いので「会場にあれば着払いの宅急便で送って下さい」と言った。戻っていれば1時間遅くなる。夜の1時間はこたえる。京都8時の特急にのる気持ちはまだ気が楽である。
タウンジャッケットもそんなにいいものではない。7年も8年も着ている。着易いので他の物もあるのにこの汚いタウンジャケットを着ている。
1枚また買おうとおもいながらゆっくりと見ている時間がない。そして夫の車でいかないと大手スーパーが近所にないのでそのまま汚いタウンジャッケとを着ている。先日、大阪の鶴橋商店街の中を歩いていると手ごろの値段で大きい目のタウンジャケットがあったがあわてて衝動買いすると失敗する。ふと頭に浮かんでやめた。
それがまたこのタウンジャッケットが出てくると着易いのでまたこれを着てしまうだろう。
たまたま昨日はタウンジャッケとの下にジャケットを着てその下にトックリセーターを着ていた。暖冬なので助かった。
今日は晴れているけれど家で集中して仕事である。
さっき、ゲラの校正もかたづけて一仕事したので少し休憩。コーヒーをいっぱい飲もうと――――。
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