「インド通信」123号(1989.1.1発行)より、故元吉仁志さんの文を引用します。掲載時は写真はなかったのですが、今回の再録にあたり、適宜写真を加えました。なお、ボンベイは現在ムンバイと名を変えていますが、文中ではそのままの表記にしてあります。
「インド映画をめぐる旅」元吉仁志
大インド映画祭」パンフレットの表紙
今年('88年)、日本で開かれた日印両国の文化交流イベント・インド祭の一部門として、25本のインド映画を上映する「大インド映画祭」という催しがあった。
25本の映画の日本語字幕は、ボンベイの字幕ラボで打ち込まれた。翻訳は主に日本で、インドの様々な言語の専門家によってなされ、その素材を元にインドでフィルムの上に字幕が焼き込まれた。このボンベイでの作業を助けるために、3ヶ月あまりインドに滞在した。
日本語の上下、左右も知らぬラボの作業者たちと試行錯誤をくり返して、25本の映画に日本語字幕が鮮明に打ち込まれた。作業を始める前に予想された困難は、インドにとって初めての日本語字幕作製のラボ作業と思っていたのだが、実際に直面した困難は、それ以前の問題だった。
ボンベイで最初に始めた仕事は、ラボに渡す素材の確認だった。インド映画開発公社にある編集室で毎日夜遅くまで、公社職員がとっくに帰った後も残って働いた。
仕事を始めて10日ほどもした夕方、24時間居る守衛が、「今日は早めに切り上げて欲しい」と言って来た。訳を聞けば、普段は職員が帰った後、戸締まりをして家に帰り、朝もどってくるのだという。通常昼夜二交代で守衛が二人いるのだが、人手不足で一人で24時間やっているから仕方がないらしい。それは気の毒だと、その日は早めにホテルに帰った。
だが、そんな日が続けばスケジュールに支障が出るので上司に訴えた。
「僕等に鍵を預らせて欲しい」
「日本から仕事に来られたあなた方に、そんな心配はかけられません」
婉曲にことわられた。しかし、事態は一向に改善されず、若い守衛に無理が積もった。ある朝定時に編集室に行くと、公社の職員が玄関前にたむろしていた。守衛がいなくて入れないのだ。
段々わかってきたのは、その守衛は本来12時間の契約なのだが、24時間働いても超過の手当が何ヶ月も未払いになっているらしい。そればかりか基本給さえ先月分をまだもらっていないという。このプロジェクトを円滑に進めるために僕等を支えてくれたインド側のアシスタントは、守衛のために給料と残業手当を経理部に請求する書類を作ってやることまでしなければならなかった。
具体的な作業上の問題以前のトラブルである。人間関係の基本的約束事がシステムとして機能していないのだ。独立以来インドの社会派映画がとりあげてきたテーマと同質の、滑稽な程悲しい出来事だった。
パンフレットの付録に付けたインド映画ポスター集
「独立以来インドは変わっていないのか?」
そんなことを考えると、ため息が出た。
これに類したトラブルは続出し、大半の映画は上映予定日の直前に字幕が完成して、日本に届けられた。タイトロープを渡る思いだった。
最後の作業が終わってから、日本への送り出しを確認するために、ボンベイからデリーに行った。肉体的にも精神的にも厳しかった仕事を終えて帰国する直前のことだった。
責任を無事終えた安堵感から疲れがドッと流れだし、デリーのホテルに入ったら発熱した。デリーでは、最後の3本の映画が日本に向けて送り出されたかどうかを確認するだけだったので、ほとんど僕は遊び気分で、「高級ホテルのプールで泳ごうかな」などとウキウキしていたのだが、発熱でダメになった。
丸一日眠り続けて熱も下がり、発送の責任者に会いに出かけた。とっくにデリーに届いているはずの映画が、まだ着いていなかった。映画と同時に出した速達の送り状もなかった。あわてて、僕はニューデリー駅へ飛んでいった。ポーター達のごった返す鉄道荷物の置き場の中を、汗まみれ、ほこりまみれになって探し、黒塗りのボックスに入った映画を見つけ出した。
しかし、受け取るために肝腎の送り状が無いのだ。焦りまくって、また担当者のいるオフィスに引き返し、送り状無しで荷物を引き出す書類を作ってくれるよう頼んだ。担当者は休みを取って避暑に出かける直前で、めいわくそうな顔を露骨に示していた。渋々ながらも納得してくれたところに、送り状が届いた。
いつもは宅急便で送っていたのが、どういう手違いか普通郵便で送られていたため、僕より先にデリーに届いているはずのものが今届いたのだった。
担当者が鬼の首でもとったように、「そら見ろ。ボンベイのお前さんたちがキチンと仕事をしないから、オレが大変なのだ」と言った。彼とは、電話で何回か、日本への送り出し方法をめぐって激しいやり取りをしていたのだ。ボンベイに居るころ常に不安だったのは、僕とインドのラボ技術者が必死になって仕上げた映画が、デリーで滞ってスムーズに日本に届かないことだった。
いっしょに顔つきあわせながら仕事できれば、いい友人になれたであろうハンサムで頭の切れるビューロクラットの彼と、電話や手紙ではうまくコミュニケートできず、どなり合わねばならないのが辛かった。
ボンベイでも似たようなトラブルは多発した。つまらない手抜きやリレーションの悪いシステムの問題、そして現場を管理することしか知らず、現場のかかえる問題をくみ取れない管理者たちと現場の不信感に満ちた断絶が原因だった。
僕はインドの悪口を言いたいわけではない。
僕の大好きな国だ。大好きな人々がいる。
政治的、経済的に多くの困難を抱える発展途上国インドが貴重な予算から大規模な文化交流イベントを行なうことは、インドの高い理想だ。25本の映画の多くはインドの社会自身を批判するものも多い。一方で援助大国の日本政府はこのインド祭に対して実に冷淡だった。インドの高い理想と、それを実現する現場での混乱と沈滞。それはインドばかりでなく日本の中でもしょっ中のことだ。リクルート疑惑、教育の問題、家庭の崩壊等々。僕のこのインド体験も、日本で起きている数多い問題とおなじことなのだ。
文化の交流という正論の元に行われる「大インド映画祭」の準備の中で、共通の目的のために働く者同士がどなり合わねばならないのは、悲しい喜劇だ。理想は現実の厳しさの前に屈して、実現しないタテマエだけの飾り物に堕ちそうだった。
NFDC(インド映画開発公社)ラボのスタッフに囲まれる元吉さん(立っている人の左から4人目)
そんなインドでの渇いた仕事の中で、常に僕を勇気づけてくれたのは字幕ラボだった。上下もわからぬ日本語の字幕を打つ技術者たちは、壁に貼ったアイウエオ表をながめて、逆さまになっていないかどうかを確認した。ラボの工程の一番最後である打ち込みの前に、日本語を読めるインドの人もふくめた日本側のスタッフが、台本どおり打ち込むセリフが並んでいるかどうか、上下反対になっているセリフが無いかを確認してパンチャーに渡す。僕等がルーペをのぞいて左右反対になった小さな凸版の文字を読んで確認するのだが、1本の映画の1,000近くあるセリフの中で間違いを発見するのは10個も無かった。僕等が訂正した後、まだ見落としがひとつやふたつはあった。それを発見して、僕等に確認を求めてくるのは、一秒4コマのスピードで流れるフィルムの上に、セリフの始まりと終わりの尺数を示した表を見つつ、忙しく機械を操作してセリフを一個ずつ凸版のブロックを交換しながら打ち込んでゆく、デザインとして日本語を判断する技術者たちだった。
それは楽しい職場だった。所長から守衛にいたるまで明るい顔で徹夜の作業もこなした。みんなに、いいモノを作ろうという姿勢があった。いい字幕を作るために、具体的な提案もあったし、ラボの能力の限界を説明して、僕にスケジュールを変更するするように言われたこともあった。僕の仕事がおくれると、キチンと要求もされた。緊張感に溢れ、力がみなぎるのをおぼえた。
ワリンベーさんと共に元吉さんを助けたスレーシュさんと
そんな彼等に支えられて25本の日本語字幕は完成されたのだった。インドの理想は彼等の努力によって目に見える形となり、将来より高い理想に向かうことのできる一歩を踏み出せたのだ。
このボンベイの字幕作業を通して、僕は多くのことを学んだ。それは今後の僕のインドでの活動ばかりでなく、日本での生活にも生かされるはずだ。
旅というのが人と人の出会いであるなら、仕事や家庭といった日常生活もまた旅である。映画がひとつのアイディアであり続ける限り、それを観ることも観せることも、撮ることも、それぞれに旅なのだろう。
この仕事を終えて、そんなことを考えた。そして、これからも、インドと日本の人と人をつなぐ仕事を通して、世界のいろいろな人と出会いたいと願っている。
<プロフィールにかえて>
翻訳、監修等をお願いしたみな様には、台本等の素材の不備から大変ごめいわくをかけました。具体的に、精神的に、この「大インド映画祭」を支えて下さったすべての方々に、そして見て下さった方々に、厚く御礼申し上げます。
元吉さんの文章を書き写していて、そうそう、私にはとても書けない、硬い文章を書く人だった、と思い出しました。インド映画のアート系作品の映画評もいくつか書いていて、ミーラー・ナーイル監督作『サラーム・ボンベイ!』(1988)の映画評を、シネマ・アジアが出していた小冊子に書いてもらったこともあります。本当に得がたい「同志」でした。श्रद्धांजलि।