アジア映画巡礼

アジア映画にのめり込んでン十年、まだまだ熱くアジア映画を語ります

豪華おみやげ付き「ウォン ハン ミン氏トーク」

2011-07-31 | 東南アジア映画

7月13日の記事でもご紹介した、原美術館で開催中の「ミン ウォン展」スペシャル・トーク、「カチャン・プテからポップコーンまで:シンガポールの初期映画館(1896~1945年)」に行ってきました。トークをして下さったのは、シンガポールの映画コレクター、ウォン ハン ミン(黄漢民)さん。ご本職はシンガポール政府環境庁のお役人です。

定員30名の会場はぎっしりで満員御礼。最初に座席に座ろうとすると、椅子の上に何やら置いてあります。それが何と、昔のシンガポールの映画館のポストカード5枚組。今日のトークのために、ウォンさんがわざわざ人数分、シンガポールから持ってきて下さったそうです。トーク終了後にウォンさんから個人的にいただいたタイトルカードも入れて、5枚をちょっとディスプレイしてみました。映画館は左上から、キャセイ、キャピトル、マジェスティック、クイーンズ、そしてレックスです。

ウォンさんのパワー・ポイントを使ったトークは、まず自己紹介から始まりました。シンガポールで25年以上にわたって映画グッズのコレクションを続けてきたこと、きっかけは切手のコレクションを始めたことで、その後映画関係のものに移ったこと、近年多くの映画館が閉館し始め、取り壊されたりするので、映画館の写真を撮り始めたことなどが紹介されました。そのあと、タイトルに使われている”カチャン・プテ”が写真付きで説明されたのですが、やはり7月13日の記事の写真がまさしくカチャン・プテでした。

あの豆売りのおじさんの写真をもう一度付けておきます。これは前に使った写真とは別ヴァージョンなのですが、このおじさん、ウォンさんの写真の人とそっくりなのです。もしかしたら同一人物かしら? あと、キャピトルという映画館の脇に出ていたカチャン・プテの屋台の写真も紹介されました。

そしていよいよ本論です。映画の誕生から始まって、1896年のシンガポールでの初上映、1902年の初興行、1904年にできた初の映画館などの紹介があり、2館目の映画館は日本人の松尾という人が始め、のちに播磨勝太郎という人の手に渡ってハリマ・ホールと呼ばれたことなどが説明されていきます。その後は各映画館の紹介で、次のような映画館が取り上げられました。

   アルハンブラ Alhambra (1907-1967) @Beach Road
   ローヤル Royal (1908-1977) @North Bridge Road
   マールボロ Marlborough (1909-1969) @Beach Road
   パビリオン Pavilion (1914-1971) @Orchard Road
   エンパイア Empire (1915-1942) @Tanjong Pagar Road
   スリナ Surina (1920-1933) @North Bridge Road
   オリエンタル Oriental (1921-2000) @New Bridge Road
   マジェスティック Majestic (1928-1998) @Eu Tong Sen Street
   クイーンズ Queens (1920-1983) @Geylang Road
   ガリック Garrick (1929-1981) @Geylang Road
   ロキシー Roxy (1931-1978) @East Coast Road
   スルタン Sultan (1939-1980) @Chong Pang Road
   キャピトル Capitol (1930-1998) @North Bridge Road
   キャセイ Cathay (1939-) @Hardy Road

それぞれに中国語名もついているのですが、驚いたのはどの劇場もよく名前が変更されていること。たとえば、小出英男著「南方演藝記」(新紀元社、1943)にも名前が出てくるアルハンブラ劇場などは、グランド→アルハンブラ→ニューアルハンブラ→(建て直し)→ガラ、と、名前がいろいろ変わっています。英語名は変わらなくても中国語名が変わったりと、所有者の変更があったりするとすぐ新しい名前になったようです。それぞれにハリウッド映画専門館、インド映画専門館やマレー語映画専門館、中国映画専門館などに分かれていたらしく、観客にはきっと行きつけの映画館というものがあって、名前が変わっても「没問題」だったのに違いありません。

その後、お話は日本の占領時代、1942~1945年のことに。17あった劇場は全部日本語名が付けられ、すべて日本映画配給社の管轄に置かれて、『マレー戦記』 (1942)、『シンガポール総攻撃』 (1943)、和製中国映画『阿片戦争』 (1943)、成瀬已喜男監督作品『勝利の日まで』 (1945)、上原謙、李香蘭主演の『戦ひの街』 (1943)など、日本映画も数多く上映されたのでした。これらの映画のシンガポール版チラシが紹介されましたが、『勝利の日まで』は『勝利前奏曲』に、『戦ひの街』は英語タイトル『Flowers at the Front』となっていました。下は『マレー戦記』の上海国際劇場版チラシです。

こちらは、『阿片戦争』のビデオカバー。原節子と高峰秀子の姑娘姿に、市川猿之助の林則徐です。

最後に、ウォンさんの観点からシンガポールにおける映画を4時代に分け、それぞれの時代での映画館増加数が示されました。一番右の数字が増加した映画館の数です。「+」は最低でもこの数、それ以上あるかも、という印です。

   初期(Early Years)                    1904-1945   36+
   黄金期(Golden Era)                  1946-1969   70+
   公共住宅発展期(Heart-landers Era)  1970-1991   68
   シネコン期 (Multiplex Era)           1992-2011   27 (スクリーン数では188)

そして最後の画面には「劇終」と出て、みんな大笑い。その後英語とマレー語でも「終わり」と出ましたが、本当によくまとまったご報告でした。終了後に聞いたお話では、まだまだ紹介したい映画館がたくさんあったそうで、1時間というトーク時間は短かすぎたようです。今回のお話は、上で言えば「初期」のみだったため、できればその続きを聞いてみたいところ。P.ラムリーの映画を中心に盛んな映画製作がなされた「黄金期」、シンガポールがマレーシアから分離し、映画製作がストップする一方で、中心街から離れたあちこちの地区にHDB(Housing and Development Board/住宅開発局)の団地が林立し、マーケットから商店街、フードコートや映画館まで揃ったそういう団地で人々が暮らし始めた「公共住宅発展期」、そしてシネコンが主流となった「シネコン期」のお話、ぜひいつかうかがえる機会があることを願っています。

そして最後にもう一つサプライズが。実はウォンさん、今回の来日の主目的は、現在パシフィコ横浜で開催中の「日本国際切手展2011」に参加すること。8月2日まで開かれているこのイベントの公式サイトはこちらですが、それにお友達2人と参加するためにいらしたのだそうです。ちょうど展覧会と重なって私たちにはラッキーでしたが、何とこのお友達の方が、シンガポールで2009年に発行された映画館切手のファーストデー・カヴァーを参加者全員にプレゼントして下さったのです! そして、原美術館のご配慮で、この封筒にウォンさんのサインがいただけることに。

というわけで、実に貴重なお話をうかがったうえ、記念品までいろいろいただいてしまうという、招き猫が10匹ぐらい幸運を招いてくれたような1日でした。最初にいただいたポストカードは、この切手の発行を記念して作られたものだそうです。

実はこの切手、上のキャセイ劇場のほか、マジェスティック、キャピトル、クイーンズ、レックスと5種類発行されています。私は2009年8月にシンガポールに行った時、たまたまこの切手を空港の郵便局で見つけ、購入していたのでした。本当は未使用切手なので斜線を入れないといけないのですが、こんなに小さな画像ならまあ大丈夫でしょう。そのかわり見にくくてすみません。5枚セットの「Cinema Theatres of Yesteryear」です。

あれやこれやでシンガポール映画の歴史にひたった1日でしたが、この拙文で興味を持たれた方は、ぜひ原美術館の「ミン ウォン:ライフ オブ イミテーション」展へ。ウォン ハン ミンさんのコレクションの一部(と言っても相当な量です)がつぶさに見られます。こちらをご参照の上、夏休み中に一度足をお運び下さい。

 


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