以前お知らせしたように、来年1月に国立映画アーカイブで1948年のインド映画『カルプナー』が上映されます。「蘇ったフィルムたち チネマ・リトロバート映画祭」という催しの中で1月13日(土)と30日(火)に上映されるもので、詳しくはこちらをご覧下さい。私は今回、字幕を担当させていただいたのですが、最初にこの映画を見たのは40年ぐらい前、インド国際映画祭でレトロスペクティブ上映があった時でした。その時は、インド舞踊の数々がバリ舞踊などと共に出てくるので、それに圧倒されて見ていただけ、という感じだったのですが、今回じっくりと見てみて、実にユニークな作品だとわかりました。皆さんがご覧になる前にそのユニークさを言ってしまうと面白くないので、それはご覧になってのお楽しみとして、この作品を監督し、主演したウダイ・シャンカルのことと、登場する舞踊の基本的な知識、さらに今回字幕を作るにあたっての苦労話などを3回ほどにまとめてアップしてみたいと思います。画像は特に断らない限り、映画『カルプナー』の画像です。
©National Film Archive of India(以下、NFAI)
ウダイ・シャンカル(1900.12.8-1977.9.26/上写真)、フルネームはウダイ・シャンカル・チョゥドリーは、現在のラージャスターン州ウダイプルで、弁護士シャーム・シャンカル・チョゥドリーの長男として誕生します。ベンガル人バラモンの家系で、ウダイの下には4人の弟がおり、末弟はのちに有名なシタール奏者ラヴィ・シャンカルとなります。父はウダイの誕生当時はラージャスターンのラージャーワール藩王に雇われていたようですが、サンスクリット学者でオックスフォード大で哲学博士号も取得した父はその後ロンドンに移住、アマチュアながら興行主となって、インドの舞踊と音楽をイギリスに紹介していきます。母や弟たちと母方の伯父(叔父?)の家に身を寄せていたウダイは、父を頼ってロンドンに渡り、1920年に王立芸術大に入学して絵画を専攻、その傍ら、父の主催する慈善公演に出演します。彼はインド舞踊を正式に習ったことはなかったのですが、幼い頃からインドの古典舞踊と民族舞踊に親しみ、さらには西洋のバレーにも触れていたので、独創的な振り付けを編み出し、ヨーロッパの様々な芸術家たちと交流したようです。その中にはロシアの著名なバレリーナであるアンナ・パヴロワ(1881-1931)もおり、2人はインドをテーマにした創作舞踊で1年半ほど共に仕事をしたと言われています。
©NFAI
ウダイ・シャンカルは自身の舞踊を当初「ハイ・ダンス」と呼び、後には「クリエイティブ・ダンス(創作舞踊)」と呼びましたが、これはインドにおけるモダンダンス誕生の萌芽となりました。1929年、ウダイ・シャンカルは舞踊団を組織するためインドに戻り、1930年から1960年まで自身の舞踊団を率いて欧米諸国を巡演して回ります。また1939年には、北インド、ウッタラーカンド(ウッタラーンチャル)州の避暑地アルモーラーに舞踊学校を作り、インド各地から舞踊手を教師として招きました。『カルプナー』の冒頭には、「故グル(師、師匠)・シャンカラン・ナンブーディリに捧ぐ」という献辞が出てくるのですが、名前からカタカリ舞踊の師ではないかと思われるものの経歴等がよくわからず、字幕には出していませんが、この時招いた指導者の1人ではないかと思われます。また、ウダイ・シャンカルがインドに帰国した折、文学者であり、教育者でもあったラビンドラナート・タゴールが彼に舞踊学校を作るよう提案し、彼を勇気付けたとも伝えられています。このウダイ・シャンカルの舞踊学校には、のちに映画監督・俳優となるグル・ダットも1942年から2年ほど在籍しました。また、後年老女役で『ディル・セ 心から』(1998)や『ミモラ 心のままに』(1999)等で活躍した女優ゾーフラー・サへガルは、ウダイ・シャンカルから声を掛けられて1935年から公演に参加したあと、1940年からはこの学校の教師として教えたりもしています。
©NFAI
そういった活動を背景に、1948年に完成した意欲的な作品がこの『カルプナー』なのですが、主演はウダイ・シャンカルとその妻アムラー・シャンカル(1919.6.27-2020.7.24)です。アムラーは現在はバングラデシュとなっているマグラに生まれ、十代でウダイ・シャンカルの舞踊団に加わります。1939年にウダイ・シャンカルからプロポーズされたとのことですが、2人が結婚したのは1942年。同年の12月に息子アーナンド・シャンカルが生まれていますので、できちゃった婚となったのかも知れません。下はWiki「Amala Shankar」に付けられていたウダイ&アムラー・シャンカル夫妻の写真です。
『カルプナー』の中でもアムラー演じるウシャーとラクシュミー・カーンターが演じるカーミニが、ウダイ・シャンカル演じるウダヤンをめぐって恋のさや当てをするように、結婚後のウダイ・シャンカルも舞踊団の女性たちといろいろあったようです。でも、息子アーナンドに続いて1955年には娘マムターも生まれ、2人の子供たちも舞踊手として育つほか、マムター・シャンカルはやがて女優として、ベンガル語映画の人気者になっていきます。ウダイ・シャンカルが亡くなる前年の1976年、ムリナール・セーン監督作『Mrigayaa(貴人の狩り)』でデビューし、ミトゥン・チャクラボルティーと共演したマムターは、以後、ムリナール・セーン監督、ゴータム・ゴース監督、サタジット・レイ監督らベンガル語映画の大物芸術映画監督の作品には欠かせぬ女優となり、彼らの作品が日本で映画祭上映された時に来日もしています。下は、1987年のぴあフィルム フェスティバルでゴータム・ゴース監督作『占拠』(1981)が上映された時来日したマムター・シャンカルと、彼女をインタビューした「クロワッサン」1987年6月25日号の記事です。
マムターの兄アーナンド・シャンカルは舞踊団を率いて公演を行ったりしていましたが、1999年に心臓発作で早世してしまいます。その後はマムターが引き継ぎ、舞踊団の指導に当たっているほか、ヒンディー語映画『ピンク』(2016)のアミターブ・バッチャン演じる弁護士の妻役等、ベンガル語映画を中心に多くの作品に出演もしています。そんな彼女の両親が全力を挙げて取り組んだユニークな舞踊映画『カルプナー』、ぜひご覧になってみて下さいね。なお、YouTubeに、マムターが劇団メンバーの舞踊指導に当たっている動画がありましたので、その一つを付けておきます。
Mamatashankar Dance Class-2