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鼓曲萬来

です・ます です

はっぴいえんどのゆでめんを聞いたのはいつだったろうか
サウンドはバッファローやモービーグレイプを意識した音で
そして何より真っ先に飛び込んできたのは
印象にのこる独特の歌詞
です・ます」調の歌詞は当時の歌謡曲や演歌には無い
独特の世界観を醸し出しておりました

長い日本語の歴史を遡ります
江戸時代あたりまでは「です・ます」は
閉ざされた空間のみの使用言語でありました

まあ、はっきり申せば遊郭、廓の女性達の公用語
つまり世間一般の町人、武士、商人達の間では
使用されなかった過去がございます

それが明治に掛けての頃
いわゆる地方の武士達も江戸にやって来て 遊興の際
「旦那いやですよ~」等と廓の女性達の使う言語を聞いて
これが都会の標準語かと錯覚して以来
急速に巷に広がっていったというそういう過去を持っているのです
これが花魁とかになりますと「ざます」になる訳です

一時ロックは日本語か英語かなんて論争もありましたけれど
裕也さんにしてみますと、日本語がとかサウンドがとかいう前に
この「です・ます」が本来持つ閉塞感 悲想感とかが
無意識的に何か受け入れられず駄目な一つだったんだろうなと
今になると そう思えて来るのです.

Happy End - Kaze wo Atsumete


という事で、

最近知り合いから
「どういういきさつでアマチュアの19歳の人間が富士夫と演奏出来たのか?」
という質問がございまして

まあ、それに至るには当然伏線がありまして
これを語るには当時のバンドシーンを語らねばならないのですが
今のようにミュージシャンが沢山いた訳でもなし
特にそういった当時の新しいうねりに対応できる人材も少なかった

つまり、今よりもそういったチャンスに巡り合う事も
狭い東京のバンドシーンの中での僅かな縁があったから
そう言わざるを得ない訳であります

まあ、そこに至るきっかけという事で
まあ、なんと申しますか
あの時、よしんば、よしんば
細野さんにやってみない?、なんて言われていたら
(まあ100%無いですけど)
又、その後の自分の歴史も変わったんじゃないかな~
とも思う訳です

まあ、今振り返るに
村八分方面でやはり、よかったとも思います
「通って道」という有名な例えもありますな

やはり縁あっての今だなと
齢70になって振り返ってみると
縁の大切さを改めて感じる次第であります

つまり、はっぴいえんど方面には縁が無かったという訳ですが
何故縁が薄くなったのかというのには理由もありましてw

ご承知の如く
事象というものは
因があって縁に結んで果となるわけですが
いや、それに至るにはもっともっと昔のプライマルな因でありまして

小学生の時、赤坂、青山って界隈に住んでまして
家の裏手の坂を上りますと
近くに霊南坂教会ってのがあって
そこのカブスカウト東京第4団に所属してたんですわ

で、学校こそ違いましたが同学年の松本って奴がいて
青島って奴と黒崎って奴と四人で
仲が良かったんですけどね

そのボーイスカウトの我々の班の班長ってのがね
その松本の兄貴だったんですわ

「そなえよつねに」なんて言って
我々の行動を冷たい目で監視しておりましたな
何度かいたずらを注意された記憶もございます

なんか醒めた感じの真面目な班長でしたが
確か名前が
松本隆って言っておりましたw

後にはっぴいえんどのアルバムを見たとき
あっと声をあげましたわ、流石に
「これ松本の兄貴じゃん!」って

もう、原点あたりでその息吹はあったんでしょうね

だから僕も風を集めて~♪ですか
多分同じ時代の東京の風景を見てた頃だとは思いますが
路面電車が海を渡る想像力も無く
そんなものは見た事はありませんでしたw

やっぱどう考えても、あの界隈は私には無理ですわw 

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