仮説を立ててみた。
彼らは理解しようとしていないのではなく、理解できる者が言うところの 「理解する」 という機能が欠損あるいは損傷している状態なのである、と。
彼らは覚えることができないわけではないから、. . . .
例えば対象の特徴を自分の辞書の単語を列挙することによって表そうとする行為を 「理解」 だと思ってたりする、というふうに、「理解」 の概念が根本的に異なる、わけだ。
仮にそれを 「代替理解」 と呼び、前者のは 「理解」 と呼ぼう。機能が無くて他のもので代替しているわけだから、場合によっては近似の性能というか近似の結果を出すこともあるけれど、
基本的には、. . . .
何かを理解することは無理なのである。
機能が欠損している者に機能を果たせと言っても不可能なわけだから、違う生き物だくらいに思わないとお互いが不幸になる。
でも、ニンゲンは、是非をつけて区別することを旨とする生き物だからねえ、. . . .
彼らは理解しようとしていないのではなく、理解できる者が言うところの 「理解する」 という機能が欠損あるいは損傷している状態なのである、と。
彼らは覚えることができないわけではないから、. . . .
例えば対象の特徴を自分の辞書の単語を列挙することによって表そうとする行為を 「理解」 だと思ってたりする、というふうに、「理解」 の概念が根本的に異なる、わけだ。
仮にそれを 「代替理解」 と呼び、前者のは 「理解」 と呼ぼう。機能が無くて他のもので代替しているわけだから、場合によっては近似の性能というか近似の結果を出すこともあるけれど、
基本的には、. . . .
何かを理解することは無理なのである。
機能が欠損している者に機能を果たせと言っても不可能なわけだから、違う生き物だくらいに思わないとお互いが不幸になる。
でも、ニンゲンは、是非をつけて区別することを旨とする生き物だからねえ、. . . .
言ってどうにかなるワケでなし
自分で気づけるワケでなし
結局は ”1に1を足すと 2になるんだよ”と 暗記させないとダメなのか
ふむふむふむ ‥
で、「あるいは損傷」 て書いたのは、所謂後天の認知障害は 「損傷」 に該当するんじゃないかな、と。 つまりは誰にでも起こり得る話だよ、と。
私の関心は、是非とか優劣とかには無く、そうなった時のために何かしておくこと(反射的条件づけとか思考そのものの作り変えとかの意) はあるのか、というところにありまして、そこがこの記事の落としどころ。