現実の宗教には、 ― 私はそれが本来だと思っている ― 哲学に属する、自身に効果のある、言わば死生観に関するもの、と、
意図的に加えられた ― と、私は思ってますが ― ヒトの集団に効果のある、言わば扇動術に関するもの、が、
あるわけですが、. . . .
どちらも無いみたいですね、今の日本には。
特定に偏れということではなく、. . . .
意味するところ、意図するところ、というものは、親が子に、あるいは広く年長者が次の世代と、話し合うべき要件だと、先般、ふと思いました。
そう言えば、自分の親とはそんな会話をしたことが無かったなと思い返してみて、. . . . でも、私の親の世代は多感な時期を先の大戦後の復興期に取られていましたから、時間にも心にもそんな余裕は無いままだったハズです。 親に関しては、今は、悲しみがあるだけで、哀れみはありません。 怒りも憎しみもありません。 ただ、それらは次の世代への伝達に対する責任に転化されるべき事、と。
生きるという基本的な部分、さまざまな社会単位での他者との関係づけ、そんな中での、表と裏、虚と実、. . . .
いつも言ってますが、それがわかれば、世は必然でしかありません。
ただ、. . . .
実を言うのは簡単ですが、虚は、それを受け止められない相手に一度に最後まで言ってはなりません。
まあ、こんなものを最後まで読むような方には周知でしょうけれどね。