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▼余白の春:金子文子 Ⅱ

2023-04-10 21:00:00 | 千思万考

 1920年7月末頃、本郷区湯島に間借り、粉石鹸の夜店を出す。同年末、浅草で女中奉公。本郷区追分町の社会主義者で印刷屋の堀清俊方に住み込み活字拾いの仕事を続け、その間に社会主義の書籍や雑誌を読む。1921年夏頃、留学などで東京に滞在していた朝鮮の社会主義者たちと知り合う。11月、有楽町の社会主義者の集まる「岩崎おでん屋」に女給として入る。 1922年3月、無資産無名の朝鮮人、朴烈と出会い、5月から同居を始める。

 映画『金子文子と朴烈(パクヨル)』
 〔2019年2月16日公開〕

 文子も当時朴烈が組織した朝鮮人の社会主義者の研究会である黒濤会に加入した。しかし、会は9月に共産主義派とアナキズム派に分裂。朴烈が中心となり洪鎮裕、朴興坤、申焔波、徐相一、張祥重らと黒友会を組織。金重漢、新山初代、栗原一男、文子も次いで加入。11月頃、文子と朴は運動紙『太い鮮人』を発行。 翌1923年4月、文子と朴はアナキズムにより関心を持たせるため不逞社を組織、3月から住んでいた東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474番地(現渋谷区)の借家を集りの場とする。5月27日頃に第一回例会を開く。文子は「不逞社は権力に対して叛逆する虚無主義や無政府主義を抱いて居る者の集まり」であったと供述。『太い鮮人』は『現社会』とタイトルを変えて刊行を続け、文子も執筆する。6月には当時の著名なアナキスト、望月桂や加藤一夫の講演会を開き、中西伊之助の出獄歓迎会も開催する。 朴烈は、以前から文子以外の同志には内密に進めていた爆弾の入手を巡り(数人に依頼をするが結局は入手できず)同志金重漢との関係がこの頃から悪くなる。8月の例会では喧嘩騒ぎになる。黒友会の解散も同時期に課題になり、新山と金は独自の雑誌を発行し、文子や朴烈と別の行動をとるようになる。 関東大震災後の9月3日、爆弾を使ったテロ計画など無政府主義活動に対する調査過程で居場所が露呈していた不逞社には過去の活動を踏まえて予防検束という名目で文子は朴烈と共に警察に連行される。続けて他の同志たちも検束。警察は「保護」から治安警察法違反に切り替え取り調べを続け、使用目的が具体化していなかったが爆弾入手をしようとしていたことが発覚していたため、文子は刑法73条(大逆罪)で朴烈とともに起訴、予審にまわされる。旦那の朴が大正天皇と皇太子の爆弾による殺害を計画していたとほのめかし、文子も朴に共感して天皇否定と爆殺・大日本帝国滅亡を必要だと論じたために、大逆罪で起訴され、有罪となった。「天皇は病人ですから……それで坊ちやんを狙つたのです」と文子は予審で当時の皇太子を攻撃目標と考えていたと供述している。 文子の天皇を中心とした国家権力を打倒したいとの意思は、大逆罪弾圧を受けさらに堅固となる。不逞社の仲間に弾圧を拡大させないことも配慮し、刑法73条の取り調べを受け入れた。
           〔続〕

    (ウィキペディアより引用〕