不安障害、まだまだ気が抜けない状況が続いております。
さっきも夕食後、「これは駄目かもしれない」と恐怖を感じ、急いで服薬。
大事には至りませんでしたが、ここ数日は小康状態を保っていたのでショックでした。
まあ、「ダメかもしれない」と思った時点で暗示にかかっているわけで。
気を逸らそう、紛らわせようとあがけばあがくほど、引きずり込まれる蟻地獄。
近々心療内科へ行くので、先生に相談してみよう。
もっとも主治医とてどうしようもないとは思いますが。
「ダメかも」と思ったところで、踏み止まれる力がほしい。
苦しいことではあるけれど、これはもう経験を積むしかない。
自分を甘やかせば甘やかすほど、自分のできる範囲が狭まってしまう…
ただ、現状自らに鞭を打っても逆効果だとも思う。
じっと我慢する時と、エンジンかける時、メリハリが大事。
理屈では、交感神経と副交感神経、セロトニンがどうとかわかっているけど、
そのような知識があってもコントロールできないのが「病」というものなのでしょう。
「気の持ちよう」と言われると、大抵の患者さんは怒ります。
しかし、気の持ちようで改善できるというのも、あながち間違いではありません。
「病気」でない人には、それが比較的容易にできるというだけの話。
訓練次第で、「病気」の人にもある程度は出来るようになると、私は信じています。
1994年、21歳~22歳の若者だった頃によく聴いた歌。
高校は出た、でも浪人して予備校通いをしていた頃でした。
吐き気に苦しめられながらも、前進することのみ考えていた若さは、かけがえのないものだった。
とにかく大学に入りたい、その一心でした。
当時の友人は、21世紀に入ってからほとんど私から縁を切った。
「病気」について、無理解な発言をされて立腹したことが多かったのです。
しかし、友人にしてみれば「こいつに何か言ってやれることは何だろう」と
悩んだ末の発言が多かったと、今ではわかる(勿論、そうでない人もいたけど)
精神的に参ってしまっている人には、何を言っても通じない。
ただ、自分の苦痛と戦っているわけで。
バスに酔って苦しんでいる人に「飴なめる?」と言っている弁当屋の娘さんのような(ぇ
いや、あの「飴なめる?」というのも、苦しんでいる人を特別扱いしない優しさの
あらわれであると思う。
かける言葉に困った末に、一般的なことを言わざるを得なかった元友人には
悪いことをしたものです。
せっかく手を差し伸べてくれたのに、「健常者の無理解」だと邪険に振り払ってしまった。
本当は、応えるだけの力も勇気も無かったのです。
(自分の弱点をはっきり指摘されれば、怒るのが人情でもあります)
友人を失ったことは、高い授業料であった…
一方で、あれはあれで仕方がなかった、という気持ちもあります。
自分なりに苦しんで、何かを掴もうとしていた時期でもあったし。
私はパニック発作で苦しんでいる様子を、友人たちに見せることはしなかったし。
発作に苦しむ患者を見れば、とても「気の持ちよう」とかそんなレベルでないことは
先日のオヤジの反応からもよくわかります。
その上で、薬の力を借りつつ対策を考える…容易な事ではありません。
とうぶん、苦痛は続くと覚悟しなければ。
いや、そんなことを忘れ去ってしまえば楽になるのですが、それが出来ないのが
「病気」なのだと思います。
大事なのは、人生を悲観しないこと。
無茶に前進しようとする、という意味でなく。
上手く病気を付き合っていく、というくらいのパワーを常に発揮できるようになりたい。
※ここに書いた考え方は、あくまで私個人についてのものです。
不安障害やその他の患者さん皆に当てはまるものではなく、病気の種類、病状によって
大きく状況が異なるということを、念のために書いておきます。
さっきも夕食後、「これは駄目かもしれない」と恐怖を感じ、急いで服薬。
大事には至りませんでしたが、ここ数日は小康状態を保っていたのでショックでした。
まあ、「ダメかもしれない」と思った時点で暗示にかかっているわけで。
気を逸らそう、紛らわせようとあがけばあがくほど、引きずり込まれる蟻地獄。
近々心療内科へ行くので、先生に相談してみよう。
もっとも主治医とてどうしようもないとは思いますが。
「ダメかも」と思ったところで、踏み止まれる力がほしい。
苦しいことではあるけれど、これはもう経験を積むしかない。
自分を甘やかせば甘やかすほど、自分のできる範囲が狭まってしまう…
ただ、現状自らに鞭を打っても逆効果だとも思う。
じっと我慢する時と、エンジンかける時、メリハリが大事。
理屈では、交感神経と副交感神経、セロトニンがどうとかわかっているけど、
そのような知識があってもコントロールできないのが「病」というものなのでしょう。
「気の持ちよう」と言われると、大抵の患者さんは怒ります。
しかし、気の持ちようで改善できるというのも、あながち間違いではありません。
「病気」でない人には、それが比較的容易にできるというだけの話。
訓練次第で、「病気」の人にもある程度は出来るようになると、私は信じています。
1994年、21歳~22歳の若者だった頃によく聴いた歌。
高校は出た、でも浪人して予備校通いをしていた頃でした。
吐き気に苦しめられながらも、前進することのみ考えていた若さは、かけがえのないものだった。
とにかく大学に入りたい、その一心でした。
当時の友人は、21世紀に入ってからほとんど私から縁を切った。
「病気」について、無理解な発言をされて立腹したことが多かったのです。
しかし、友人にしてみれば「こいつに何か言ってやれることは何だろう」と
悩んだ末の発言が多かったと、今ではわかる(勿論、そうでない人もいたけど)
精神的に参ってしまっている人には、何を言っても通じない。
ただ、自分の苦痛と戦っているわけで。
バスに酔って苦しんでいる人に「飴なめる?」と言っている弁当屋の娘さんのような(ぇ
いや、あの「飴なめる?」というのも、苦しんでいる人を特別扱いしない優しさの
あらわれであると思う。
かける言葉に困った末に、一般的なことを言わざるを得なかった元友人には
悪いことをしたものです。
せっかく手を差し伸べてくれたのに、「健常者の無理解」だと邪険に振り払ってしまった。
本当は、応えるだけの力も勇気も無かったのです。
(自分の弱点をはっきり指摘されれば、怒るのが人情でもあります)
友人を失ったことは、高い授業料であった…
一方で、あれはあれで仕方がなかった、という気持ちもあります。
自分なりに苦しんで、何かを掴もうとしていた時期でもあったし。
私はパニック発作で苦しんでいる様子を、友人たちに見せることはしなかったし。
発作に苦しむ患者を見れば、とても「気の持ちよう」とかそんなレベルでないことは
先日のオヤジの反応からもよくわかります。
その上で、薬の力を借りつつ対策を考える…容易な事ではありません。
とうぶん、苦痛は続くと覚悟しなければ。
いや、そんなことを忘れ去ってしまえば楽になるのですが、それが出来ないのが
「病気」なのだと思います。
大事なのは、人生を悲観しないこと。
無茶に前進しようとする、という意味でなく。
上手く病気を付き合っていく、というくらいのパワーを常に発揮できるようになりたい。
※ここに書いた考え方は、あくまで私個人についてのものです。
不安障害やその他の患者さん皆に当てはまるものではなく、病気の種類、病状によって
大きく状況が異なるということを、念のために書いておきます。