五十路男の失敗日記

生涯独身男の青春の挽歌

窓をあけてドアをあけて(鬱注意)

2014年06月06日 | 雑記
不安障害、まだまだ気が抜けない状況が続いております。

さっきも夕食後、「これは駄目かもしれない」と恐怖を感じ、急いで服薬。
大事には至りませんでしたが、ここ数日は小康状態を保っていたのでショックでした。

まあ、「ダメかもしれない」と思った時点で暗示にかかっているわけで。
気を逸らそう、紛らわせようとあがけばあがくほど、引きずり込まれる蟻地獄。

近々心療内科へ行くので、先生に相談してみよう。
もっとも主治医とてどうしようもないとは思いますが。

「ダメかも」と思ったところで、踏み止まれる力がほしい。
苦しいことではあるけれど、これはもう経験を積むしかない。
自分を甘やかせば甘やかすほど、自分のできる範囲が狭まってしまう…

ただ、現状自らに鞭を打っても逆効果だとも思う。
じっと我慢する時と、エンジンかける時、メリハリが大事。

理屈では、交感神経と副交感神経、セロトニンがどうとかわかっているけど、
そのような知識があってもコントロールできないのが「病」というものなのでしょう。

「気の持ちよう」と言われると、大抵の患者さんは怒ります。
しかし、気の持ちようで改善できるというのも、あながち間違いではありません。
「病気」でない人には、それが比較的容易にできるというだけの話。
訓練次第で、「病気」の人にもある程度は出来るようになると、私は信じています。

1994年、21歳~22歳の若者だった頃によく聴いた歌。
高校は出た、でも浪人して予備校通いをしていた頃でした。
吐き気に苦しめられながらも、前進することのみ考えていた若さは、かけがえのないものだった。
とにかく大学に入りたい、その一心でした。

当時の友人は、21世紀に入ってからほとんど私から縁を切った。
「病気」について、無理解な発言をされて立腹したことが多かったのです。

しかし、友人にしてみれば「こいつに何か言ってやれることは何だろう」と
悩んだ末の発言が多かったと、今ではわかる(勿論、そうでない人もいたけど)

精神的に参ってしまっている人には、何を言っても通じない。
ただ、自分の苦痛と戦っているわけで。
バスに酔って苦しんでいる人に「飴なめる?」と言っている弁当屋の娘さんのような(ぇ

いや、あの「飴なめる?」というのも、苦しんでいる人を特別扱いしない優しさの
あらわれであると思う。

かける言葉に困った末に、一般的なことを言わざるを得なかった元友人には
悪いことをしたものです。
せっかく手を差し伸べてくれたのに、「健常者の無理解」だと邪険に振り払ってしまった。
本当は、応えるだけの力も勇気も無かったのです。
(自分の弱点をはっきり指摘されれば、怒るのが人情でもあります)
友人を失ったことは、高い授業料であった…

一方で、あれはあれで仕方がなかった、という気持ちもあります。
自分なりに苦しんで、何かを掴もうとしていた時期でもあったし。
私はパニック発作で苦しんでいる様子を、友人たちに見せることはしなかったし。

発作に苦しむ患者を見れば、とても「気の持ちよう」とかそんなレベルでないことは
先日のオヤジの反応からもよくわかります。

その上で、薬の力を借りつつ対策を考える…容易な事ではありません。
とうぶん、苦痛は続くと覚悟しなければ。
いや、そんなことを忘れ去ってしまえば楽になるのですが、それが出来ないのが
「病気」なのだと思います。

大事なのは、人生を悲観しないこと。
無茶に前進しようとする、という意味でなく。
上手く病気を付き合っていく、というくらいのパワーを常に発揮できるようになりたい。


※ここに書いた考え方は、あくまで私個人についてのものです。
不安障害やその他の患者さん皆に当てはまるものではなく、病気の種類、病状によって
大きく状況が異なるということを、念のために書いておきます。