daddy-kのいきあたりばったりⅡ

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五球スーパーの時代

2024-01-11 | 故郷の話

田舎のティーンだった頃、ラジオを聞きながら勉強をしたっけ、五球スーパーラジオで。五球とは整流管に増幅管に…忘れましたが、ともかく5本の真空管を使ったラジオ。

勉強か?ラジオか?どちらに重きがあったかはさて置き、あの頃はそんな同世代が多く、世間では「ながら族」と呼ばれたのも今は死語。それが通じるのは同世代から上かな?

その頃はポップスの情報をいち早く知るのが目的で、月1枚のシングル盤(330円位)など到底無理の中学生にとり、ラジオは最大の情報源だったし、毎週ヒット・パレードのランキングをノートに書き留めたり、リクエスト葉書を出した覚えがある人もいるのでは?

いち早く(と思う)アメリカやヨーロッパのポップスが紹介され、忌野清志郎さんの「トランジスタ・ラジオ」の歌詞ではないけれど、それこそニューヨークから、リバプールから発信された聞いた事の無いヒット曲が流れ、多くのティーンがときめいた。

きっと世界中で似たような状況だったのでは?大袈裟に言えば、当時のラジオは世界のポップス愛好家と音楽情報共有する外に開かれた窓口だった。今はそう思えるのです。

そんな風に夢中になったティーンズ・ポップスでしたが、フォーク・ソング(アメリカの)が台頭したり、ポップスが多様化して来るのと同時に、こちらも高校生になって夜更かし型の生活に移り、リクエスト・ベスト10などが減り、パーソナリティが語りかける深夜放送を聞くのが主となって、音楽の中身もあるけれど、誰が話すかも大事になって来た。

そうした中で出会った番組「パンチ・パンチ・パンチ」から、人気のパーソナリティ達による「わすれたいのに」のヒットが生まれ、他の番組からもヒットが生まれていました。

荒木一郎がパーソナリティの「星に唄おう」は、星空のポエムなどメルヘンなコーナーの好みは別れましたが、全体的には彼の語り口が活きていて親しみやすく、その番組テーマ曲が彼の自作曲「空に星があるように」で、これはかなりのヒットになり、この年のレコード大賞新人賞をとったそうです。

またテーマ曲を♪ルゥ~とハミングでやっていたある番組、メロディは無論、イントロからして「サウンド・オブ・サイレンス」そっくり。ま、鼻歌みたいなものだからご愛嬌と思っていたら、詩が付き題に"スキャット"と謳い発売されてヒットとラジオの影響は大きく、またハミングとスキャットの区別もされないおおらかな時代でした。

ともあれ、いろいろな形でラジオからヒットが生まれた楽しい時代ではありました。

太平洋岸の海辺の小さな町で育った私、日高山脈が邪魔してか、札幌の放送の受信状態が悪く、かえって海を隔てた本州の放送が入ってきて、東海放送や大阪朝日放送などは良く聞きました。こちらの方が直線距離は長いのに受信できたのは電離層のお陰でしょう。

特に電離層の状態が良くなる冬の今時期は多くの放送が聞け、チューニング回して色々探すのは楽しかったな。フェージング混ざりで中国の放送も飛び込んできたけれど。

話が逸れますが、NHKがラジオ第1と第2を使い、2台のラジオでステレオ放送をやっていた時期もあったなぁ、FM放送が始まる前ですが。それがあと数年後には全国のAM放送の大半がFM放送に切り替わるそうで、隔世の感がありますね。

と、またまたジジィの思い出話で失礼しました。



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