祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

調和

2013-03-15 20:13:15 | 資料ー書籍・動画、その他

本能を学ぶ

  投稿者:うさぎ  投稿日:2012年10月22日(月)23時58分22秒
返信・引用
 
  人が「本能が壊れた動物である」なら、動物たちが本能として持っていることをひとはまなぶことによってしかえることはできない。「人是学而知之、不是生而自知」(人は学ぶから知るのであってもともと知っているわではない。)し、学んで本能を得ていくからこそ、(「人是万物之霊」)人は万物の霊長なのであろう。戴氏は、動物の本能的な動きから、武術の動きを学ぶ。学ぶことによって人は自由になり、自然になっていく。  
 

Re: 心意

  投稿者:k  投稿日:2012年10月20日(土)21時32分30秒
返信・引用 編集済
 
  うさぎさんへ

> ローレンツが「人間は本能の壊れた動物だ」といったそうです

ウィキペディアに「ローレンツの最も大きな功績は、動物行動の観察という当時は軽視されていた古典的な手法を厳密に用い、科学の名に値するものに仕立てたことである。」と言う記述があります。

記憶違いかもしれませんが、狼の決闘で片方が瀕死の状態になると、勝った方は留めをささない という事実を観察し、「牙を持っているために本能的に同種の相手を殺すことができない」と結論付け、「自身の牙を放棄し、武器を選んだ動物がこの地球上に一種類だけいる。それは、人間である。これが人間が他の人間を殺すことができる唯一の動物である理由である」と推論した学者でしょうか

> 武術を学ぶのは、言語や身体を使って脳の深層の部分を開拓して行く営みなのかもしれません。

「本能的に同種の相手を殺すことができない」という狼の崇高さに少しでも近づけるといいのですが。まぁ、私の場合は夢のまた夢 なのですが(^_^;)。
 
 

調和

  投稿者:うさぎ  投稿日:2012年10月20日(土)18時43分37秒
返信・引用
 
  水晶さん。3日間の講習、お疲れ様でした。戴氏心意が目指しているものは、「調和」であると思います。私たちが生きている社会は、とかく発展とか発達だとかといった、より高く、より強く、より速くという右肩上がりのものがよいという価値が組み込まれている社会だと思うのです。知らないうちに、効率的に無駄のないように生きるとが良いことなんだと焦っている自分に気づかされたりします。
「調和」というのは陰陽や五行の調和です。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」といわれる、ように陰陽はバランスを保つように練拳する。根性主義とは違いますし、怠けとも違います。王老師が「休まなければならない」という話をされたのは、調和の中で伸びて行くということなのです。五行の話をすれば、木が伸びて行くのは土や水、土、金(この場合は栄養そ)がバランス良くあるからこそ伸びて行く。そんな考え方の中に戴氏心意拳の練拳もあると思うのです。
 
 

心意

  投稿者:うさぎ  投稿日:2012年10月20日(土)18時21分59秒
返信・引用
 
  kさん   心意の心は日本の「こころ」とは、少し違います。むしろ、想いとかイメージとかいった静的なものですね。意はその想いにこうしよう、ああしようといった方向性が加わる。私なりの表現ですが。そういう意味では、心が右脳的で、意は言語との関連が強いですから、左脳的だと言えるかもしれません。脳の話をすると、人間の脳の奥の部分は原始脳ですよね。生きるための最低限の呼吸をするとか、心臓を動かすとか。人間的な高度な思考をするのは、むしろ脳の外側の部分です。本を読むとか、武術をするというのは、脳の外側の部分でしょうけれども、武術で身につけたものというのは、脳の奥の部分に記録されると思うんです。だから、忘れない。武術の動作が自然になっていくのは、頭で覚えたものでやっているうちは、不自然なものです。息をする、歩くと行った。自然にできるもの、忘れても自然にできるものって脳の奥深くにあるものだと思うのです。私の年になると、人の名前が、あれ?出てこないってことがよくある。しばらく良く考えると出てくるんですけど、しばらくあってない人だったりするとちょっと出てこないことってよくある。しばらくあっていない人は、脳のちょっと奥にしまいこんでいるんだろうなって思うんです。その引き出しがどかなあなんて探しているのに時間がかかったりします。息するのは、心意とはほとんど関係ない。もちろん不安になったら、息が浅くなったり、リラックスすると、呼吸が豊かになったりという関連性はある。歩くって、生まれて一年ぐらいかけてやっと身につけて行くわけですが、ぼけても、歩くことは忘れない。脳のかなり奥まで記録された行動だと思うのです。ローレンツが「人間は本能の壊れた動物だ」といったそうですが、人間が本能を獲得していくためには、多くの時間や努力、言語といったものが必要なのだと思います。心意拳が動物の形を真似て学んで行くものは、その動物が持っている本能を、人間が再構築して行く営みといっていいのかもしれません。おっとまた話がずれてしまってまた戻れなくなってしまいました。。。。。。。
武術を学ぶのは、言語や身体を使って脳の深層の部分を開拓して行く営みなのかもしれません。
 
 

Re: 鍛錬知・身体知

  投稿者:k  投稿日:2012年10月20日(土)08時55分22秒
返信・引用 編集済
 
  うさぎさんへ

大分前にも同じ趣旨の投稿をしたのですが(^_^;)。

>  「鍛錬知」という勝手な造語をしてしまいましたが、インターネットや書籍、人伝えで聞いた知識というのは、
>ただそれだけであれば、とても浅はかな表面的な知識です。

確かにその通りだと思います。インターネット発達する遥か以前、まだ本の流通すら発展していたかった時代から、「一知半解」は戒められていたので、「浅はかな表面的な知識」で解ったつもりになってしまうのは凡人の本質かもしれません。

前の投稿にも書きましたが、練拳の「感覚」を拳譜(や拳譜が解らない人は書籍(^_^;))で「理解」していくことが大切でしょう。

今風に言えば右脳で練拳をイメージを通して捉え、そのイメージを左脳で言語を通して再認識する と言った感じでしょうか。
私の場合は理解したことを練拳に生かして、より良い練拳ができると更にイメージが膨らみます。

その意味でもこの書籍からの恩恵は大きいです。改めて本の著者には感謝です。

あまり自信はないのですが右脳が戴氏で言う「心」、左脳が「意」と関係しているかもしれません
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明勁から暗勁へ

2013-03-15 20:06:50 | 理論―陰陽五行、名言集

明勁から暗勁へ

  投稿者:うさぎ  投稿日:2012年10月28日(日)12時57分49秒
返信・引用
 
  明勁から暗勁へと戴氏心意拳ではよくいわれる。
よく暗勁を短勁と同じ意味に誤解し、寸勁を単独で練習する人がいるが、暗勁は明勁の結果であり、明勁の修練のもとに生まれてくるものである。
寸勁は単独で練習しても力技の延長にしかすぎない。
明勁は、身体内部では、丹田から梢に達する勁を練り、外には前後に進む、相手に達する途切れのない勁力を形作る。
暗勁は、よく狭義に見えないところから繰り出される技と理解されてしまいがちだが、暗勁は、明勁が内在化されたものである。「起落は水の中の波浪がうねる」(戴氏心意六合拳 技撃精要P107)ように内は動いても外からは見えないものになっていく。
    暗勁は、明勁を基礎に成り立ったもので、明勁の鍛錬なしには養成されない。
明勁は、伸びやかで長い姿勢、動作から作られる。勁が途切れない練習をしていかなけばならない。勁が途切れることを断勁という。断勁がどこで生じるのか、初心の頃は特にそれがわからない。断勁を消していくには、かなりの熟練が必要だし、しっかりとした師に教えてもらわなければ、知るとこはできない。
私たちは、まだまだ明勁の練習をして練っていかなければならないとつくづく思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする