☆摩訶般若波羅蜜多心経☆
存在が存在することの意味を説いたお経
この経は観世音菩薩が説き聞かせる、というスタイルをとったいわば創作物なのだけど、ある程度の私見を交えた解説とはいえ、わかりやすい現代語訳だと思いました。
中学生の読書感想文でつか?🐠
今でこそ袈裟の色が違うだけでふんぞり返って偉そうな坊主がぞろぞろいたり、そういうのに限って仏教は教養のひとつだ、僧侶は教養階級だなんてふざけたことを言っていたりするけれど、本来、釈迦がいた時代の仏教って文字の読めない庶民や奴隷、盗賊崩れですら理解できて釈迦自身がその人の悟りを認めるようなものだったはずなんですよね。
それって盗賊崩れが説き聞かせるというスタイルをとった創作物ですよね🐳
仏教なんて学ぶべきものでもなく教えるべきものでもなく、ただ個々に識(し)ればいいだけのものだと思いますよ。実際、お釈迦さんなんざ聞かれたことにしか答えていない。
見たのかよ。
お前さんゴータマ王子の側近かい?🐈⬛
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
私は数学の徒だから、はたらきではなく「ふるまい」という言葉をよく用いているけれど同じものだと思います。
数学の徒が「ふるまい」という言葉を?🐢
なんで?🐛
どっかの先生がよく用いているのを真似しただけやろ🐌
ここはとてもややこしいところだが、頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。
つまりお前は何も理解していない🌻
私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。真実を受け取るとは、知識で理解することではない。
だから、得ることなどできないのだ。
私たちとはなんだ🦦
自分が得られないものは誰も得られないとでも?🦥
こういう感覚ってたとえば自分で死のドアノブに手をかけて回して向こう側に何も無いことを確信してしまった人なら、難行苦行の修行などせずとも経験的にわかる部分なんじゃないでしょうか。
ドアノブに手をかけて回して向こう側を盗み見ただけで「何も無い」と確信してしまったバカが、難行苦行の修行などせずとも経験的にわかる部分など、あるわきゃない🐁
それこそ何もない🐀
ただ、そういうものだと識ったところで、それを誇れるものでもなければ自慢できるものでもない。そういうものだ、そういうものでしかない、というだけの、何の価値もなく何の役にもたたない経験でしかないんですよね。
そういうものでもなく、そういうものでしかなくもない、
何の価値もなくもない、何の役にも立たない経験でしかなくもない、
ということを識らないバカが、それを誇れるものでもなければ自慢できるものでもないに決まってんだろボケー🐬
その、空しい部分を知らない人は、どれほどの経典を読んで諸仏諸天の名をおぼえて拝んだところで、そこに留まって元気いっぱい空回りし続ける人、にしかなれないのだろうと思いますわ。
いやむしろ、空しい部分を知る人は、諸仏諸天の名を覚え、元気いっぱい空回りし続けることができる🌹
楽しけりゃいいなどとほざいているわりに、元気いっぱい空回りすることすらできない数学の徒とやら。
それがお前の存在の真実だよ、頭でっかちめ🍄
おそらくは識っている人ほど多くを語らない。
そういうものが真の仏教なのだろうと思います。
そんな決まりは、あ・り・ま・せ・ん🖕🏿
そういうものが真の仏教なのだろうと思っている時点で、
お前は般若心経を1ミリも理解していないことを証明したようなもんだわ。
ギャハハー😹