きみの靴の中の砂

忘れた頃、突然


【Portrait of Mademoiselle Marie Fantin-Latour】部分



 いまだ細々と読み続けている『吉田健一著作集』の第二十七巻に『昔話』という昭和五十一年十二月に青土社から出版された単行本を底本とした作品が入っている。青土社というからには、もちろん『ユリイカ』に連載されたものである。

 その後記で著者本人が書いている。
『かういふ題を付ければ昔のことは幾らでもあるから材料に困ることはないと考えて初めのうちはその位の気持ちで書いて行ったのであるが校正刷りを見てゐて話を進めるに従って所どころでかなり深みに落ち込んだ感じがしないでもなかった』 ----- この句点のないのは原文のまま。こういう文体の作家なのである。国文学の大野晋先生は、吉田の文章を『文法的に間違いはないが、一級の悪文』と称している。

 当初は吉田も当時の売文家張りに雑文で小遣い稼ぎをしてやろうと考えたらしいが、結局、日本や英国、欧州の手近な古い文学についてのエッセーにしてしまったのが運の尽きで、後記にあるように段々と深みにはまり、不本意ながら、とうとう世界の文明批評にまで発展させてしまったという。

 『昔話』は彼の死の前年、64歳当時の執筆だから、長年の『文学趣味』で培った知識をひとまとめにしてミキサーにかけ、完全なペースト状にしたような書き物のため、今なら出版する本屋も読みたいという読者もなかろう。

 吉田は、同じような手口で『旅の時間』という旅ものも書いているが、それも『昔話』が昔話でないのと同様、決して旅に誘うような代物にはなっていない。河上徹太郎は『特に読まなくてもいいようなもの』と、悪意なく評している。

 さらに、吉田のエッセーには、そのまま素直に一人称で書けば済むものを、わざわざ三人称にして、小説風に仕立てたものも少なくなく、読者 ----- 今となっては、ごく一部のマニア(と言うべきだろう) ----- にとっては面倒臭く、無闇矢鱈と『手のかかる作家』なのである。

 彼・吉田健一は、忘れた頃、突然、読書欲の扉を叩く。




Nikka Costa / First Love


 

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