きみの靴の中の砂

極楽にだけ咲く花





 Bar & Restaurantの看板を掲げながら、人気メニューは『つくね、レバー、手羽先、砂肝、軟骨、腿』をオーヴンでバター焼きにしたものの皿盛りで、客の中にはこの店を焼き鳥屋と見ているものもいた。なぜそれがメニューに採用されたかには諸説あって、真相は、とうの昔に亡くなった先代に尋ねなくてはならず、還暦を過ぎた二代目が言うには、諸説あるのは残された古くからの常連達が好き勝手に都市伝説を流布したからだとか。今となっては、店はすでに三代目が仕切ってはいるのだが...。

 そのバー ------ いや酒場と言った方がいいだろう ------『ブライトン』は、新宿西口旧青梅街道沿いの古いビルディングの一階にあって、店の入口には最早エンジンのかからない、薄い水色のヴェスパだかランブレッタだかがマスコット代わりに置かれていた。それは置物のわりには手入れが行き届いていて、今にも走り出せそうに見えた。

 店の奥の壁にはシャルル・シャプランの油彩やパウラ・モーダーゾーン=ベッカーの素描の複製などがまるで置き去りにされたかのように掲げられていて、音楽は日々、客の好みによりいろいろなジャンルの曲がレコード盤で聴けた。口開けの早い時間には、マーラーやモーツァルトなどがかかっていることもあった。

 さて、ぼくがこの店に初めて来たのは大学の先輩に連れられてのことで、先代がまだカウンターの中に元気だった頃のことだ。新宿西口は大学からの帰宅途中の街で、『ブライトン』には、小遣い次第だったが、月に二、三度立ち寄った。先代とは親子ほども年の差があり、そう親しく話しをしたわけではなかったが、学校帰りの比較的早い空いた時間は他の客も少なく、よく話しかけてくれた。

 あるとき、レジスターの脇にある小さな油彩の花の絵を指差し、花の名を尋ねられた。ルドンが描いた花のような幻想的な暗い色彩であったが名前は知らないと答えると、
「あれは極楽にだけ咲く宝相華という名の花だ」と教えてくれた。続けて、
「もし、きみがこれから先、真っ当な人生を歩むなら、あの花は極楽でもう一度ゆっくり気の済むまで観賞できるが、もしそうでない人生を歩むなら、今、しっかり見ておかないと現世では今日が最後になるかもしれない」と最後は笑って言った。

 ぼくが注文した『ロンドン・ドライジンをアップルサイダーと炭酸で割った特製カクテル』を作りに下がる途中、マスターが振り返って言う。
「その極楽にだけ咲く花だけど、ほかでも見られないことはないんだが、いずれも国宝だったりして、ちょっとやそっとでは近づくのは難しいんだ。だから、うちでカクテルを飲みながら見るのが一番お手軽だと思うよ」

 確かにこの店の一杯280円のカクテルを飲みながらそれが拝観できるなら、それは大変貴重な体験になると、ぼくはなんだかわかったような気になりかけもしたのだったが...。




【The Modern Folk Quartet - This Could Be The Night】


 

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