戦争ほど無残な事は無い
「 断じて行えば鬼神も之を避く 」は当時の
カリスマジャーナリストの「 徳富蘇峰 」氏が
「 東条英機 」氏に送った書である。
私めは戦争を知らない時代に生まれた
非常に運の良い人間である。
戦争に纏わる記事はロシア戦争の203高地攻略
と題して先日にも上げたが、ハッキリ言って
今の平和な日本とは比べようが無いくらいに、
人が人として扱われる事はない。
「 段階ジュニア( 或いはイチゴ世代 ) 」と言う
戦争を知らない世代では有りながら、
戦争の持つ悲惨さだけは骨身に染みて実感できる。
私めは体験したことがない「 サバゲー 」や
戦争を題材にしたTVゲームなどとは、
まるで訳が違う悲惨さなのは、銃弾に当たれば
当然痛みを感じる生身の人間だからであろう。
あなたが戦争を体験された世代の方か
どうかは存じ上げないが、ある日
突然「 戦争へ来い 」と言う1枚の召集令状( 赤紙 )が
届き、強制的に戦場へ駆り出されたらどうだろうか?
その瞬間から、あなたは人間扱いされず
一兵隊として上官から鉄拳制裁の洗礼を
浴びせられた上に、敵陣への特攻を命じられたら
発狂する人間が居ても不思議ではない。
ただ、1つ思うのは
「 自国の防衛と抑止力の為の自衛隊は必要だが
戦争は、すべきでない 」
という一見矛盾した思いを抱きつつも、
「 前人木を植えて後人涼を得 」
もまた真実なのだなと、しみじみ感じた。
無謀でズサンだったインパール作戦は失敗
これは太平洋戦争( 第二次世界大戦 )の話しで
戦場は遠くインドにも及んだ。
インパールはビルマ、インド国境の小さな町だが
3個師団の日本軍が、ここの標高2千メートルあまりの
アラカン山脈を越えて3方向からインパールを
包囲せしめんとする完全に無茶な作戦で、
第15軍司令官「 牟田口廉也 」中将は
これを強く主張した。
しかし幕僚や貴下の師団長は山岳地帯での補給は
難しいと見て反対し第31師団長の「 佐藤幸徳 」中将も
無謀だと反対していた。↓
が、大本営は昭和19年1月7日の
「 大陸指第1776号 」で太平洋での相次ぐ痛手から
抜け出し戦局を打開するために、これを許可した。
これには「 寺内寿一 」南方軍総司令官の思惑が
強く働いたとされる。
更には、この作戦に反対していた小畑参謀長や
稲田総参謀副長がそれぞれ突然、更迭されたことからも
この作戦に異を唱える者は居なくなって行ったのである。
大本営は昭和19年1月7日の大陸指第1776号で、この
「 インパール作戦( ウ号作戦 ) 」を許可、決行を指示した。
作戦期間は3週間で1944年昭和19年3月8日作戦開始。
20日分の食料と弾丸240発のみを兵士は持たされ
イギリス軍の拠点のコヒマまでは到達し戦闘の上
英軍は降伏したが、この時既に第31師団の食料は
尽きようとしていた。
この後、連合軍側では空輸作戦で増援部隊、
食料や戦車までをも投下した事で
日本軍の進撃は止まった。
この時点でもアメリカ軍を始めとする連合国側の
圧倒的な軍事力の格差が歴然としている。
さらにイギリス軍は鉄道を破壊し
日本軍の補給路を断った。
これでアラカン山脈で日本軍の兵士達は孤立し、
栄養失調に陥ったがジャングルの野草を食べて
命を繋いだのだった。
しかもコレに加えてチフス、アメーバ赤痢、マラリア、
コレラなどの伝染病が兵士たちを犯し始めた。
この状況を鑑み、佐藤第31師団長はコヒマから
補給地点までの一時退却を兵士達に指示し、
牟田口司令官に食料の補給を電報で要請した。
しかし補給物資は、おろか1粒の米も届かず
ただ「 インパールを攻略しろ 」との命令が
届くのみであった。
無茶苦茶な言い分の牟田口司令官
そして、牟田口司令官は佐藤師団長に向かって
この様に言い放ったのだ。
「 貴師団が補給の困難を理由にコヒマを放棄せんとするは
了解に苦しむ所なり。
なお10日間、現体制を確保されたし。
しからば軍はインパールを攻略し、
軍主力を以って貴兵団に増援し
今日までの貴師団の戦功に報いる所存なり。
断じて行えば鬼神も避く 」
(-_-;)「 は? 」何をか言わんや、とは正に
この事であろう。
「 断じて行えば鬼神もこれを避く 」って.....
無茶を言うにも程がある上に
軍命令が現状と余りにも「 隔絶 」している。
食料補給なし弾丸の補給も無し伝染病が蔓延している状態だっ!
つってんのに、「 精神一統何事か成らざらん 」的な事を
よくもまぁ言えたもんだな、とつくづく思う。
この言い分に対して佐藤師団長は、こう返答している。
「 この重要方面に軍参謀をも派遣し非ざるを以って補給皆無。
傷病者続出の実情を把握しおらざる者の如し。
状況に於いては師団長独断で処置する場合あるを承知されたし。」
いや、「 当然至極 」の返答で有ろう。
別に故人を批判する意図はないが、大体この
インパール作戦自体がハナから無理な話しだったのだ。
5月の雨期、佐藤師団長は命令に逆らう形で
コヒマからの無断退却を決めた。
これが初めての上官からの命令を無視したという形で
佐藤師団長は、その職を解かれたが、7月始め大本営は
インパール作戦の中止を決定した。
しかし退却後も食料不足のため、餓死者が続出し
その沿道には日本兵の死体が無数に転がっていた。
これを追撃したイギリス軍は、この惨状を目の当たりにし
「 日本兵の白骨街道 」と呼んだ。
ちなみに牟田口司令官もインパール作戦の失敗を受けて、
8月には第15軍司令官を首になり、参謀本部付けとなっている。
今の平和な日本は当たり前では無いのだ
この牟田口中将が戦後も死んでいった兵士達に対する
懺悔はおろか、「 あの作戦は私のせいで失敗したのではなく、
無能な部下たちが原因 」だと語っていたと言う事だが、
何分、故人なのでコレ以上は言及しない。
しかし、このインパール作戦で尊い命を落とされた
兵士の数は餓死者や病死者も含めると実に
12万3000人~13万7000人にも及ぶとされる。
いまの日本が平和を享受していられるのも、
数々の好条件が幾重にも重なっているからだと、
以前の記事で申し上げているが
やはり諸外国に比べれば幸運であろう。
そう言えば、戦争を体験された方が
「 どうすれば今後、戦争を防ぐことが出来るか 」
と言う事を仰っていた。
それは
「 日本国民の1人1人が世界の各国で今どの様な事が
起きているか、そしてその国の人達がどの様に感じ思い、
何を考えているかを知ることが大切だ 」
と言う様なニュアンスの事を言っておられた。
( YouTubeで拝見させて頂いた。)
少し固い話しになってしまったが、
「 人間同士が殺し合う戦争は無残 」である。
【中古】憤死—インパール作戦ー痛根の祭師団参謀長 (1969年)
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