文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

ナンセンス路線へと変貌したリバイバル・シリーズ

2020-01-23 21:27:36 | 第2章

「週刊少年サンデー」での掲載終了以降に描かれたリバイバル版『おそ松くん』についても、纏めて本章にて言及しておこう。

ブタ松薬品の研究所の所長のデカパンと助手のチビ太が開発した、食あたりも一発で治るという新薬をモルモット代わりのココロのボスに投入したことにより、薬の異常性が発覚。次々と予期せぬトラブルが勃発する中、ボスが死んでしまうことを会社ぐるみで隠蔽しようと企てる、赤塚キャラのオールスターキャストによる異色超大作『最後の休日』(「週刊少年サンデー」70年12号、『もーれつア太郎』の単行本への収録時に「まっ黒しっぽを東京でなおせ」と改題)をラストに、おそ松ファミリーは小学館系各児童誌より撤退する。

その後、学年誌掲載版の『もーれつア太郎』にイヤミやチビ太がゲスト出演するが、『おそ松くん』が本格的な復活を遂げるのは、連載終了から三年、舞台を「週刊少年キング」に移してのことだった。

数ある『おそ松くん』のエピソードの中でも、赤塚自身、一番のお気に入りだという「チビ太の金庫やぶり」に大幅な加筆を加え、リライトした読み切りが『新おそ松くん』(単行本への収録時に「リバイバル・チビ太の金庫やぶり」と改題)のタイトルで、1972年5号に掲載される。

1988年にスタートしたテレビシリーズでは、こちらの「週刊少年キング」版をベースに同エピソードが作られたことからも窺えるように、リライト作品とはいえ、背景のディテールやドラマの時間的経過における緊迫性に神経を注ぐなど、作品総体の完成度は前作を凌ぐ結果となった。

ストーリー構成もまた、人物描写に重きを置くことで、高い純度と哀切に満ちた深みが表出され、その演出の完璧性は、膨大な赤塚作品の中でも無類と言っても良いだろう。

同号には、60年代、「少年画報」、「週刊少年キング」の看板作品だった藤子不二雄Ⓐの『怪物くん』がリメイクされた以外にも、時同じくして、「週刊少年サンデー」で、武内つなよしの『赤胴鈴之助』や、川内康範、桑田次郎の『月光仮面』、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』といった作品が、短期連載でリバイバルされ、かつて一世を風靡した懐かしの名作漫画を復活させる試みが、この時期、少年漫画各誌で次々と展開された。

この『新おそ松くん』もそうした時代の要請から描かれた単発の企画物であったが、読者と編集部からの熱烈なラブコールを受け、同年13号より新連載として本格的に復活。翌73年53号まで、約二年に渡りシリーズ化されることになる。

しかし、リメイク版「チビ太の金庫やぶり」のイメージから、「週刊少年サンデー」時代の『おそ松くん』に原点回帰した良質のストーリーギャグ路線が展開されるのかと思いきや、13号より再び『おそ松くん』のタイトルで再々開したシリーズは、毎回ドラマティックな盛り上がりもなく、荒れ果てたギャグが濁流する、まさに「週刊少年サンデー」版とは同名異作とも言うべき支離滅裂なナンセンス路線へとシフトチェンジされていた。

ナンセンス路線を指標としつつも、同時期に連載されていた『天才バカボン』や『レッツラゴン』における先鋭的なギャグ感覚と比較すると、明らかに質の劣る展開を見せ、読者を置き去りにしかねないダーティーテイストとユルユルな脱力ムードを共存させた笑いは、当時危機的状況に喘いでいた「週刊少年キング」を盛り返すまでの人気を得るまでには至らなかった。

また、後半になると、『ギャグゲリラ』の連載開始と重なり、更にスケジュールがタイトを極めてきたせいか、精彩を欠く、手抜き加減の作品がその大半を占めるようになる。


長編作のヒューマニティーと若きセンスの噴出 『おそ松くん』のハードボイルド路線

2020-01-23 13:49:01 | 第2章

このように、ロングバージョンで描かれた『おそ松くん』は、巨視的且つ細やかな視点から紡いだ雄渾なドラマ性やリリックな文学性を物語に取り込む赤塚の作家として膂力も相俟り、思惑通り大好評を得るに至った。

また、死や不幸に彩られた悲劇性を纏ったドラマにおいても、作中、諦観や絶望といった悲痛なエモーションではなく、生への希望を語り掛けているその真意が読み取れ、そうしたヒューマニティーの顕揚にも繋がる視座の設定も、『おそ松くん』が単なる児童向けギャグ漫画として捕捉出来ない、決定的な要因の一つとして評価されるべきであろう。

『おそ松くん』のワールドビューからは、一見遠く掛け離れているように思われがちのジャンルだが、週刊連載終了後以降のファイナルラップ突入時には、アクション、ハードボイルド路線の秀作も何本か生み出された。

その血湧き肉踊る緩急自在な劇構成には、エネルギッシュな赤塚の若きセンスの噴出が眩しく記録されているかのようで、物語世界にグイグイと引き込む淀みないストーリー運びと、スピード、スリル、ダイナミズムが渾然一体となって拡散される見せ場の続出は、どれも切れ味鋭い映像的ページを作り出し、息つく暇もない怒涛の迫力を余すところなく堪能出来る。

先にも触れた「六つ子対大ニッポンギャング」(67年37号)は、暫くぶりに六つ子が物語の主導権を握った、後期『おそ松くん』にあっては、極めて珍しい一編だ。

ギャングの国際シンジケートの秘密会議の場で、その犯罪計画を垣間見たことにより、デカパンやイヤミ等のギャング団から命を狙われる羽目になった六つ子が、スポーツカーや飛行機、船や新幹線といった乗り物を乗り継ぎながら、阿鼻叫喚に包まれた逃亡劇を追いつ追われつのテンションで繰り広げる娯楽アクションであり、二転三転する先の読めないサスペンスフルな展開と興奮度満点の格闘シーンのミクスチャーが、縦横無尽なアングルで切り取られた秀抜な画面上で激しく加速し、最後まで読者の目を釘付けにする。

『おそ松くん』のスラップスティック度全開の笑いは、読者の想像を絶するアドレナリン大放出のストーリーが奔流として鳴り響く中、過剰なまでにラディカル&ポップな魅力が炸裂する本作によって、まさしく頂点に達した感さえあるのだ。

同系譜のアクション、ハードボイルド路線で、「六つ子対大ニッポンギャング団」とは対照的なイメージに変性した作品が「オメガのジョーを消せ」(68年46号)であろう。  

この作品では、かつてのギャング仲間のイヤミに裏切られ、辛酸を舐めたハタ坊が、今や出世し、大企業の社長にまで成り上がったイヤミを暗殺するという、復讐の鬼と化したコールドハンターをクールな佇まいで、しかし、不敵な笑みとともに、胸に秘めたる怒りの情念を表情に滲ませた、凄みのあるアクトを発露し、ファンの度肝を抜いた。

オメガのジョーことハタ坊から暗殺予告を受けたイヤミは、デカパン率いるギャング団(六つ子、チビ太、ダヨーン)に用心棒を依頼するものの、屋敷に時限爆弾が仕掛けられたと知ったギャング団は、イヤミを裏切り、金だけ持ってずらかろうとする。

「フフフッ、やくそくもまもれないやつは、生きてる資格がないジョー。」

ギャング団を撃ち殺したハタ坊は、遂にイヤミと対峙する。

コルトの銃口を向けられ、撃たれる覚悟を決めるイヤミ。

「どうせ、地獄であうだろう。一足さきにいって、まってるざんす。」

ハタ坊がコルトのトリガーを引こうとした瞬間、執事とともに可愛らしい一人息子が旅行先より帰って来る。

イヤミは、執事に息子を連れて、外に逃げるように叫ぶが、その直後、ハタ坊が仕掛けた時限爆弾が爆発した。

屋敷は一瞬にして吹っ飛び、イヤミとハタ坊は瓦礫の下敷きになるが、イヤミは死んではいなかった。

ハタ坊がイヤミを助けたのだ。

イヤミを爆破の残骸から守り、瀕死の重傷を負ったハタ坊は、朦朧とする意識の中、イヤミにこうを言い残す。

「イヤミ……子どものために、やりなおすんだジョ……」

廃墟となったイヤミ邸で、枯れ葉に包まれながら、ハタ坊は息を引き取る。

感情を押し殺した冷淡なプロフィールに孤独と憂いを色濃く落とした男の寂寥が、この上なく哀しく、リアリティーを存分に肉付けした心理描写が、死と裏切りに彩られたカタストロフを重々しく、弥増しに底光りさせている。

加えて、ハタ坊の銃弾に倒れ、二階から落下し、奪った金が風に舞うシーンでの断末魔の如き呟くチビ太の寒々しさは、決して表層だけではない、ピカレスクな人間像の奥底にある背徳の闇を冷徹な視線でえぐり出した屈指の名場面といえ、これら、ディテールに拘った端正な演出の数々は、意識化した映画的手法の単なる模倣ではなく、児童漫画の類型を破る表顕スタイルとして、そのテリトリーを大きく広げた。

このように、長編版『おそ松くん』は、明晰な劇構造を併せ持ちながら、従来のギャグ漫画にはなかった数々のエポックメーキングを確立。ドラマに前衛性と娯楽性を同時共存させた前人未到の奇跡を結晶化し、赤塚ワールドに新たな展望を与えた。

そして、これらの作品は、かつての愛読者からも、もう一度読みたい良質のスタンダードとして、今も尚、リスペクトされている。