『たまねぎたまちゃん』連載終了後もまた、夥しい数のナンセンスギャグを大量生産する一方で、こうした童話領域にも踏み込んだ児童漫画の黄金律が、様々なノベルティを纏い、その延長線上に位置付けられるファンタジックテイストに溢れた作品を幾つも生み出すこととなる。
『ぼくはケムゴロ』(「小学四年生」71年4月号~72年3月号)は、児童向けの生活SFギャグの共通概念に転じた設定に貫かれつつも、公害が生み落とした異端生物が主人公であるだけに、退っ引きならない毒々しさを多分に含み持った、やや不気味な味わいを醸し出した一本だ。
生まれて一度たりとも兄弟喧嘩などしたことのない仲良し兄弟のタロとジロは、ドブ川に大きな桃が流れてくるのを発見し、早速拾って家へと持ち帰る。
タロとジロは、巨大な桃を包丁で真っ二つにするが、桃の中はがらんどうで、そこから出て来たのは、煙のオバケ・ケムゴロだった。
ケムゴロは、そのままなし崩し的にタロとジロの家に住み着くが、居候の自覚など全くなく、それどころか、二人に対し、攻撃的なまでに悪戯の限りを尽くしてくるのだ。
怒ったタロとジロは、寝ている隙にケムゴロを掃除機に吸い込むが、掃除機の中からママに話し掛けて腰を抜かせ、助けに来た警官にも、その不思議な変身能力で、巨大なピストルに化けて驚かし、追い返してしまう。
おまけに、学校にも付いて行き、タロとジロが廊下で立たされている際、二人の仕業に見せ掛け、落書きへと変身して廊下にへばり付き、先生の逆鱗に触れさせるなど、度の過ぎた悪戯を幾度となく繰り返してゆく。
そう、ケムゴロは公害から生まれたオバケであるため、人に迷惑を掛けるのが大好きなのだ。
シンプルなフォルムで描かれながらも、特徴あるデザインが印象的で、不埒でイーブルな性格と、何処かあどけなく可愛らしい表情を絶妙なバランスで同居させた、俗に言う「構ってちゃんキャラ」のケムゴロは、気体であるが故、様々な物体に変幻自在に化け、毎回性懲りもなく仲良し兄弟のタロとジロの間に軋轢を生じさせようと、悪知恵を働かし、あの手この手の悪戯を仕掛けては失敗。二人にしてやられるというのが、この作品の主たるあらましだ。
しかし、そんなケムゴロも、時には困っているタロとジロをその面目躍如たる変身能力や虚を衝くような冴え渡るインスピレーションによって、面倒見良くヘルプしてゆくこともあり、何だかんだといがみ合いながらも、この二人と一匹のアフィニティは決して悪くない。
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過去、『おそ松くん』において、既に有害物質を排出する工場公害のイメージをそのまま具象化したスモッグ親分なるキャラクターを登場させていたが、本タイトルが連載されていた1970年代初頭、大規模な石油コンビナートの誘致と操業による環境汚染は、「四日市喘息」に象徴されるように、一層深刻度を増し、公害による市民の健康被害は拡大の一途を辿っていた。
元々時代世相や社会風俗を機を見るに敏に作品のテーマとして取り込んできた赤塚が、こうした激甚公害の問題惹起をイメージとして重ね合わせたキャラクターを、主役に据えたこと自体、違和感を与える余地はなく、ケムゴロの傍若無人に婉曲されたキャラクタナイズもまた、重大化した産業公害に対する、批判的考察を盛り込んだ的確なテーゼへとなり得ている。
「週刊少年チャンピオン」に、夏休み特別ゲスト企画として発表された『おーばけ!』(73年38号)は、日常性からはみ出した異世界のキャラクターに幽霊を当て嵌めた異色の短編作だ。
川にはまり溺死してしまった少年の幽霊が、死に別れた家族と大好きなガールフレンドに一目会いたいがため、自らが履いていた下駄を誰か生きた人間に履いてもらうと、人間として生き返られるという言い伝えを信じ、その想いを託すべく、一人の純朴そうな男の子に近付くが、実はその男の子、幽霊など臆することもない、ちょっぴりふてぶてしい性格で……。
手垢の付きまくった古めかしき怪奇譚をベースに、人物設定に趣向を凝らしながら、ドラマの発想と着眼を変転させ、霊魂における固定概念を相対化せしめたところに、赤塚ならではの新奇な作劇作法の一端が偲ばれる。
しかし、霊界から現れた幽霊と、ひたすらドライで現代的な小学生との、何処か茶目っ気たっぷりな親和やコミュニケーションといった、二人の人物関係を限定的に描いているため、いかんせん物語世界を膨らませる方向が犠牲となっている点は否めない。
陰鬱な実録怪談をコミカルにアレンジしたシチュエーションが秀逸な分、尻すぼみな展開を乗り越えられずにいる点が、如何ともし難い。