このように、ギャグ漫画の第一人者として、ナンセンス街道を爆走して行く一方で、旧態依然の児童漫画の古層から飛び出しながらも、旧世代漫画の終局にあるその残滓を有効活用しつつ、ファンタジー色豊かな少女漫画や、生活ユーモア漫画の新たなワールドビューを遍在的に生み出してきた赤塚だが、やはり『おそ松くん』、『天才バカボン』などの爆発的人気もあり、破壊的なギャグを叩き出す少女向けナンセンスにも次第に手を染めるようになった。
その中には、主人公のキャラクター、延いては、その一挙手一投足に著しく過激な毒性が息づき、読者の脳内レセプターに強烈なインパクトを響かして余りある作品もあった。
「りぼん」誌上にて『ミータンとおはよう』に引き継いで連載されることとなった『へんな子ちゃん』(67年9月号~69年8月号他)がそれである。
アメリカのパロディー・サタイア誌「MAD」を「ボーイズライフ」編集長・田中一喜に紹介され、同誌に掲載されているブラック度の高い諸作品に触れた赤塚は、大いなるショックを受け、自らの作品にも、タブーに触れたヘイトフルなテイストを積極的に取り入れていこうというモチベーションが大きく膨らんだという。
そうした内発的なデザイアーから描き出された作品が、ほかならぬ『いじわる一家』や『スリラー教授』であり、本作『へんな子ちゃん』であった。
過去に、母親との間に起きたある出来事が原因で、性格が恐ろしいまでにひねくれてしまったへんな子ちゃんは、いつしか、大人だろうが、子供だろうが、サディスティックな攻撃で相手を瞬殺する、徹底した意地悪を繰り返すことに生き甲斐を見出だすようになっていた。
自分に怯える気弱な女の子に、気味が悪いくらい親切にして恐怖感を煽らし、遂には、ノイローゼにさせてしまう恐るべきへんな子ちゃんは、人の恋路を邪魔をすることも何のその、自らの悪戯を窘められたことに逆恨みした結果、本来なら何の罪もない筈の近所の一家に救いようのない嫌がらせを繰り返し、揚げ句の果てには、街から追い出してしまったりと、目に付いた対象を次々と不幸のどん底へと叩き落としてゆく。
当初は読み切りのつもりで描かれた『へんな子ちゃん』だったが、心地好い脱線に貫かれた、しかし、そのおぞましいまでのへんな子ちゃんの背徳性は、読者の日常での鬱屈した憤怒や不満を吐き出すに充分なカタルシスを放ち、その後、同誌の人気連載漫画として浸透していった。
サディズムの欲求が渦巻く倒錯性を全身に纏い、秩序を撹乱することで、激しい悦楽を貪るへんな子ちゃんだが、所詮は小さな女の子。それでも、彼女の自尊心が打ち砕かれるのは、いい子だと大人から褒められた時だという、純粋な要素を取り除き、底無しのインモラリティーを貫いたその迷いのない性格描写には、人間の有り様におけるデカダンな根源特性が、リアルな次元でもって局在化されている。
そうした点からも、へんな子ちゃんは、人格の生々しいまでの所業を最重視し、炙り出してゆく、赤塚ならではのキャラクター作りの神髄にして本質が、クリアに示された好例と言えるだろう。