文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

純粋感動の発露『怪球マン』

2020-05-25 00:22:28 | 第3章

『タトル君』と時同じくしてスタートした『怪球マン』(「どっかんV」77年4月創刊号~78年5月号)は、赤塚作品としては珍しい、ベースボールコミックの物語構造の枠組みに依拠しつつ、ドラマを紡ぎながらも、野球ドラマとサイエンスフィクションの特性を折衷させて展開。エキセントリックな日常型コメディーへと発展させた。

元プロ野球の選手と元ソフトボールの名選手を父と母に持つ球太は、その才能を受け継ぐことなく、打てば空振り、守ればエラーというそのお粗末な運動神経から、チームメイトの足を引っ張ってばかりいた。

ある夜、野球の下手さを窘められたことで、両親とちょっとした口論となり、家を飛び出した球太は、路上で突然、豪速球ボールに遭遇する。

「夜なのに、だれが野球をやってるんだろう⁉ 」

「今日はナイターはないし…。」

不思議に思う球太の目の前に、今度は泥棒が……。

捕まえてやろうと、駄目元でそのボールを泥棒に投げ付けようとする球太だが、ノーコンの筈が、見事泥棒に命中。何と、そのボールは、球太の意のままに動いてくれる不思議なボールだった。

このボールを使って、試合で大活躍しようと目論む球太だったが、実はこのボール、言葉も喋れば、大飯も喰らい、巨大化もすれば、不思議な変身能力をも備えているという、遠い銀河の彼方からやって来た究極の宇宙生物だったのだ。

主人公が、運動音痴で地味目なルックスである小学生と、見た目はただの野球のボールというコンビであるため、少なからず、画稿に華やかさを欠いた印象を与えるきらいがあるが、飛躍に次ぐ飛躍で、「一寸先は闇」という、読者の想像とは異質な次元へと着地するフォーマットが見事に定着していて、緩急のある投球術でナンセンスにシンカーを加えながら、読者に笑いを投げ掛ける、赤塚ギャグ作法の熟練さを改めて痛感させられるシリーズだ。

最終回においては、スポーツマンシップにも通ずる心技の錬成が示唆されるなど、心が綻ぶようや純粋な感動が発露され、徹底したナンセンスが叩き出されたシリーズでありながらも、読後は頗る爽快な余韻を残している。

野球に題材を求めた赤塚漫画では、本作の連載開始から遡ること十数年前に、「中学一年コース」に描かれた『ジンクスくん』(62年4月号~63年3月号)という作品を忘れてはならない。

野球部で万年補欠の兄貴が、弟がオネショをした時に限ってホームランをかっ飛ばせるというジンクスを、作品のモチーフとして捉えているが、次第に自分で道を切り開いてゆくことの大切さに目覚めた兄貴が、試行錯誤を重ねながら、自力で名選手へと成長を遂げる過程を丹念に描いたこのドラマは、万年補欠の野球少年の、微笑ましくも、拭い切れない劣弱意識を然り気なく浮き彫りにしながら、如何に、人の心が迷妄に捕らわれやすいかをユーモラスに描き出している。

デリュージョンとSFとの共通項は、とかく見出し難いが、『ジンクスくん』を通して、読者に放たれた「勇気と自信を持って接すれば、道は必ず切り開ける」という熱烈なメッセージからは、『怪球マン』におけるテーマの深層との連鎖性が嗅ぎ取れ、十数年のブランクを経て符合した両作品のシンクロニシティが何とも興味深い。