
児童漫画のフィールドに、ギャグ漫画というジャンルを開拓した赤塚は、いつしか大人達の間でも、市民権を獲得し、成人向け一般雑誌を舞台に、幾つもの傑作を発表することになる。
第七章では、成人向け赤塚ギャグの象徴的なタイトルである『ギャグゲリラ』(「週刊文春」72年10月16日号~82年12月23・30日合併号)を筆頭に、その潮流から発生した『松尾馬蕉』(「平凡パンチ」83年)、『赤塚不二夫の文学散歩』(「オール読物」83年~85年)、『にっぽん笑来ばなし』(「2001」83年~85年)等、社会世相をダイレクトに反映させた、アクチュアルな風刺漫画の系譜とその鋭敏なパロディーセンスを浮かび上がらせた傑作エピソードを、総説的に纏め、論述してゆきたいと思う。
1972年6月、『天才バカボン』、『レッツラゴン』で、第18回文藝春秋漫画賞を受賞した赤塚は、「文藝春秋」誌上にて、井上ひさしの戯曲をコミカライズした『ひさし笑劇場』(72年8月号~73年11月号)の連載オファーを受ける。
通常ならば、連載第1回目となるべきところを、第1回目公演と称し、劇場プログラムを意識した展開で始まり、「死刑」の回における、井上ひさしの戯曲では、理想とするキャスティングとして、死刑囚に小沢昭一、死刑執行人に宇野重吉を、対する赤塚漫画では、死刑囚にバカボンのパパ、死刑執行人に目ん玉つながりをそれぞれ列挙し、読み手に二本立て興行のイメージを促すような、文字と漫画のドッキングを新たな笑いとして提示した。
この企画の面白さに目を付けた、当時「週刊文春」の編集長であり、のちにジャーナリストとなる宮田親平は、赤塚漫画の新連載を「週刊文春」誌上でスタートさせてみてはどうかと発案。『ひさし笑劇場』の連載開始と同時期に、受賞記念で「オール読物」(72年8月号)に再録した『天才バカボン』(「ミュージカルでバカボンなのだ」/72年15号)と、同じく受賞を祝し、「週刊文春」に掲載した中編読み切り『護送』(72年8月21日号)が好評を博したことも、赤塚新連載、企画立案の誘因となったに違いない。
因みに『護送』は、お馴染み目ん玉つながりの警官が、幾度となく取り逃がした末、漸く逮捕した泥棒(カオルちゃん)が、実は同性愛者だったという、初っぱなから男色ネタ全開のショートストーリーだ。
護送中、目ん玉つながりが、カオルちゃんの女性以上に女性らしいオカマの魔性にノックアウトされ、やがて二人は、警官と犯罪者という立場の相剋を乗り越え、結ばれるというのが、そのあらましである。
マスメディアとしては、比較的エレガントである「週刊文春」にはそぐわない、ダーティな漫画と言ってしまえば、それまでだが、これまで少年誌を主戦場に活躍していた赤塚にとって、「週刊文春」という圧倒的発行部数を誇る一般週刊誌に、作品が掲載されることは、大きな目標であり、ステイタスでもあった。
それまで、一般週刊誌に掲載される漫画は、一コマ、四コマ、1ページ、2ページが通常であったが、『護送』の掲載に際しては、異例とも言える12ページものページ数が提供されたほか、新連載決定の際も、毎回8ページという相応の紙幅が用意されており、こうした破格の扱いからも、「週刊文春」編集部の赤塚新連載に懸ける期待と意気込みが、生半可なものではなかったことが窺える。
このように、編集内部からの期待度の高さもあってか、赤塚自身、初代『ギャグゲリラ』担当の平尾隆弘に「今度の連載、怖くてしょうがないんだよ」と、弱音を吐露するほど、相当な緊張感を持って、執筆に挑んだそうな。
事実、赤塚の『ギャグゲリラ』に懸ける闘志もまた、並々ならぬものがあり、当時、毎日が締め切り日というタイトスケジュールでありながらも、連載第一回目の「あるケツ婚」(72年10月16日号)などは、下絵だけでは なく、赤塚自身が全ページ、ペン入れからベタ塗りまでこなし、丸々一話を一人で完成させたと言われている。
確かに、次号以降のエピソードと比べ、カブラペンの強弱が些かフラットであったりと、ラインの微妙な違いが、朧気ながら見て取れる。
因みに、『ギャグゲリラ』という題名は、その平尾が持ち寄った幾つかのタイトルからチョイスされ、決定したものだ。
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「あるケツ婚」は、『護送』で、カップルとなった目ん玉つながりとカオルちゃんが、差別や偏見を物ともせず、一つ屋根の下、甘い同棲生活を送るという後日談で、連載初期は、この目ん玉つながりとカオルちゃんをフィーチャーした、ホモ漫画が多数描かれることになる。
いずれのエピソードにおいても、昨今のボーイズラブ系のマンガも裸足で逃げ出す、ホモの性倒錯的な生態が、ねちっこく、粘っこく描かれている。
ある時期、ゲイバー通いが日課で、連日連夜オカマ達と騒ぎまくり、また、何処まで真実なのかは不明だが、時には、オカマとセクシャルな繋がりを持つなど、身を持って体感したアブノーマルなライフスタイルが、目ん玉つながりやカオルちゃんのキャラクターを創作する上で、大いに役立ったであろうことは、充分考えられる話だ。
連載開始当初は、タイトル部分に、後に、ダウンタウン・松本人志の専売特許になる「写真で一言」を彷彿させるナンセンスフォトをはめ込み、それを扉代わりにしていた。通信社から購入したり、写真部が撮影した各写真のうち、実際は文春の誌面で使用されなかった余り物の紙焼きを、毎回アイデア会議の際、平尾に持参してもらい、何故それが没になったのか、一点一点説明を受けたという。
そんな中から、ネタとなるアイデアが生まれることも、少なくなかったそうだ。
だからと言うべきか、単行本などを通して見ると、妙に作品のテーマとシンクロした写真が、本編以上に目立つのだ。
例えば、前述の「あるケツ婚」では、二人のプロレスラーが肉弾戦を展開している写真を、マゾヒストの強盗が、その性癖故に犯行に失敗し、お縄を頂戴することになる「もっとぶって!」(72年11月13日号)では、非暴力と不服従を提唱し、インド独立の父と呼ばれたマハトマ・ガンディーの写真を、目ん玉つながりが、密かに好意を寄せる女性の弟に盗聴器を忍ばせ、そのプライベートを探ろうとする「盗聴」(73年6月25日号)では、「ウォーターゲート事件」の渦中にあり、後に民主党への盗聴の関与と司法妨害が取り沙汰され、任期中に米国大統領を辞任することになるリチャード・ニクソンの演説写真を、それぞれのエピソードに重ね合わせて、掲載するといった案配だ。
ヘンテコ写真と本編の漫画をタイミングよく合致させることで、読み手にダブルのイメージを喚起させる発表形態もまた、「週刊文春」という千姿万態のコンテンツを擁する雑誌媒体にあって、本シリーズのインパクトを際立たせるコンポーネントとなったのは、間違いのないところだろう。
しかし、第四次中東戦争勃発に端を発する原油供給の逼迫、所謂オイル・ショックがもたらした折からの紙不足は、出版界全体に深刻な大打撃を与え、1974年以降、『ギャグゲリラ』の掲載スペースも、8ページから6ページへと削減される。
漫画部分を極力確保しなければならないという焦眉の急もあり、タイトル部分にナンセンスフォトをはめ込むスタイルは、その後取り止めざるを得なくなった。
減ページは、作者の赤塚にとっても、切実な問題だったらしく、当時のことを次のように振り返る。
「急に八ページから六ページになるってのは、けっこう大変なことなんだ。マンガにはリズムってのがあるんだよ。アイデアを考えるとき、頭の中に八ページの長さってのがあって、それで考える。それで台詞をいれていくから、ピタッと八ページで終わるわけ。それが急に六ページになると、これ苦労するんだよ。ページが減るっていうんじゃなくて、アイデアの考え方を変えなきゃいけない。八ページで笑わせるのと、六ページで笑わせるのは違うの。」
(『ギャグゲリラ』第12巻、ごま書房、01年)
因みに、2008年に赤塚が逝去した際、その訃報を報じるTBSの生活情報番組『2時っチャオ!』で、赤塚の歴史を振り返るコーナーが設けられ、その中で、代表作の一つに『ギャグゲリラ』が取り上げられたことがあるが、番組のボードで、代表取締役が業績№1のトップ・セールスマンにへつらい、会社での立場が主客転倒してしまう悲哀をカリカチュアした「ハッハーッ‼」(74年1月7日号)から四つの図版を抜粋し、起承転結を無視して繋げたものを四コマ漫画として紹介したせいか、近年、ネット等で、『ギャグゲリラ』が、恰も四コマ漫画であったかのような事実誤認が流布されるようになった。
しかし、実際のところ、『ギャグゲリラ』が四コマ漫画というスタイルで発表された事実は一度たりともなかったことを、この場にて指摘しておきたい。
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