2013/6/29
「さかい=「堺」?「境」?」 評論・随筆その他
「さかい」という地名の漢字について、考えてみた。
「堺」という地名は、摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」に発展した街である事から付いたと言われている。だから、地名の語源的には、「境」という漢字の方がわかりやすい。昔(熊野詣が盛んだった時代以前)は、「さかい」周辺地域は「境」という漢字を使っていたらしい。そのまま「境」という漢字が使われつづけていたら、私の住所表記は「堺市」ではなく、「境市」となっていただろう。
熊野詣における「王子」(休憩地点・旅の安全祈願地点でもあった場所)が100ヵ所ぐらいあったらしいが、その一つが「境王子」である。その跡地が公園になっていて、私の散歩コースの一か所でもある。
(注・調べてみた内容=)境王子(さかいおうじ)は、熊野街道沿いに設けられた九十九王子の一つ。窪津王子から 数えて7番目にあたる。 境王子は現在の大阪府堺市堺区北田出井町付近 にあったと推定されている。この地域は、摂津国、河内国、和泉国の境があった場所。(以上、調べた内容)
この内容からも、歴史的には、この堺市地域を示す漢字として、「堺」という漢字よりも、「境」という漢字を先に使って表記していたことがわかる。熊野詣において、参詣人は「境王子」で休憩したに違いない。その時代、堺は確かに「境」と表記されていたのである。
では、いつから「境」から「堺」に字が変わったのだろうか? (私は研究者ではないので、素人として好奇心から推測してみるだけのことであるが・・・。)
どちらの漢字も意味は同じで、「境界」という意味。つまり 「境=界=堺」この3字はまったく意味は同じである。「堺」は地名だけで使われる漢字で、熟語はないはず。
意味がまったく同じ漢字の場合、すり替わりやすい。たぶん平安時代ぐらいに、誰か「偉い人」が表した書物において、「境→堺」のすり替えがなされていたのであろう。「偉い人」が表記すると、その表記が「正しい字」になっていくことが多いものである。言葉の使い方においても、「偉い人」が間違った使い方をしても、その使い方が「正しくなっていく」ケースがあるものだ。
「漢字の使い方」及び「言葉遣い」は、時代によって、権力者や「偉い人」などの影響を受けて、変化することが多い。
話を元に戻す。
固有名詞として表記する字としては、「境」よりも、「堺」の方がよかったのであろう。私も地名としては、「堺」の方が好印象である。
誰がすり替えたのかは知らないが、なかなかの人物だと推測している。うっかりミスではなく、「わざと」堺という字に変えたに違いない。
こういうことは、「堺」だけに限らず、いろいろなケースで起こっている。たとえば、京都を流れる川、「鴨川」「賀茂川」の例。京都の人は使い分けができるのかもしれないが、私にはさっぱり。同じ川なのに、「鴨川」と「賀茂川」の表記をどういう基準で使い分けているのだろうか? 私にはさっぱりわからない。川が流れている位置の違いなのであろうか・・・・?
他にも、大分県の「湯布院」と「由布院」の例。同じ地域なのに、二通りの表記がある。私には、使い分けがまったくできない。
こういうことは、漢字文化においては数多く発生していることであろう。たぶん、どのケースも歴史や由来があることであろう。「占い師」が絡んでいるケースもあるだろう。不吉なことが起こったので、字を変えた・・・とか。
(さて、話の続きを書いていきたい。)
「堺」は、摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」に発展した街であるのだが、その境(つまり国境)は現在のどのあたりなのであろうか?
堺よりに北に位置する国が「摂津国」で、南に位置する国は「和泉国」である。では、その国境は? 堺市堺区中心部の「大小路」という道が国境であった。南海本線「堺駅」と南海高野線「堺東駅」と結ぶ大きなバス通りである。大小路筋とも言われ、堺市最大の祭り「南蛮行列」が毎年実施されている道である。堺市民なら、「南蛮行列」を一度はご覧になったことであろう。あの通りが、摂津国と和泉国との国境になっていたのである。もっとも、昔の「大小路」は現在の位置よりも約100m北だったようである。しかし、「大小路通り」が国境だったことは確かなようである。なぜ、昔の道が移動したのか? それは、堺の街が二度も破壊されているからであろう。一度目は「大坂夏の陣」で。二度目は「太平洋戦争」で。堺市堺区周辺は歴史上、二回も「完全破壊」されている。もともとあった道が復旧する時、ずれが生じたのであろう。「完全破壊」されてしまえば、元に戻すのは難しい。二回も完全破壊された街=堺市(堺区のほとんど)なのである。こういう街は日本に少ないだろう。
約100mのずれは生じたが、「大小路」が国境の一つだったのである。
では、もう一つの国境はどこだったのか? 3つ目の国=河内国はどのあたりに位置したのであろうか?
実は「大小路通り」を東へ延長させると、「三国ヶ丘高校」に辿り着く。この「三国ヶ丘」の三国とは、「摂津国・和泉国・河内国」を指すのである。堺東駅から、東側はゆるやかな坂になっていて、低い丘だったことがわかる。だから、「三国ヶ丘」という地名になったのであろう。
ということは、あの周辺は「河内国」と接する地域に入ったことになる。「摂津国+和泉国」の(東方に位置する)河内国との国境は、三国ヶ丘周辺を基点に南北のラインであったと予測できる。
大小路ライン=国境①
三国ヶ丘基点の南北ライン(現在の「けやき通り」かな?)=国境②
①と②が交わるところに何があるのだろうか??
予想がついた方は堺に詳しい方である。
正解は、「方違(ほうちがい)神社」。現在の大小路を北にずらせた道(=泉陽高校の前の道)を東へ向かい、けやき通りに交わるところに「方違神社」がある。その近くに、熊野街道の7番目の王子「境王子(跡)」がある。
この方違神社(住所表記は堺市堺区北三国ヶ丘町)はたいへん珍しい神社である。主に「方角」に関することでお参りする神社なのである。
平安時代ごろは「方違え(かたたがえ)」(=陰陽道信仰により、行きたい方角が凶の場合、前夜に方角の違う家に泊まってから、目的の場所向かう風習。)が盛んだったらしい。古文では、ちょくちょく「方違え」が記述されているので、重要なことであったのであろう。現在においても、「鬼門」を気にする人は多い。若い人はそれほど気にはしていないかもしれないが、団塊の世代より上の人は気にしている人が多いだろう。「その方角は鬼門に当たるから、どうのこうの・・・」・「引っ越しする方角が悪いので、どうしたものか・・・」など、科学信仰の強い現代においても、「陰陽道」の影響は残っている。
方角の関する困り事・悩み事で、「お祓い」を受けることができるということで有名な神社が「方違神社」なのである。近畿一円、遠くからもお参りにくる人が多い神社である。
引っ越しや転勤地への「方角」が悪いと思われる時に、「悪いことが起こらないように」願うようである。(私自身はそういうことは気にして生きてきていないが、結構気にする人はいるらしい。) とにかく、「人気のある」神社である。
「方違神社」は現代風に言えば、「パワースポット」なのである。どこからも束縛を受けない、清い地域=清地(聖地とも言えるか?)に神社がスタートしている。
方違神社境内は3国の国境の「点」に存在していると言ってもいいだろう。それはどの国に属するのか? 実は、どの国にも属さない地域だったのである。
摂津国・和泉国・河内国の国境にはあるが、どの国にも属さないという「自由地」「無所属地」に神社が(昔から)存在するのである。清地ゆえに、邪気を払う力が発生していると信じられ、聖地・パワースポットとして、現在においてもお参りする人は絶えない。
狭い敷地だが、「歴史・由来のある地域」なのである。(ちなみに、境内のすぐ南隣には反正天皇陵がある。ここも私の散歩コースの一つである。)
方違神社へ行かれたことのない方へ。方違神社の境内は駐車無料ですので、前を通りがかったら、一度は入ってみてください。「歴史を感じる」のも、いいものですよ。もっとも、 私は陰陽道(安倍晴明が有名ですね)系列の信心はしておりませんが、知らず知らずに生活の中に入り込んでいるのかもしれません。
知らず知らずに入り込んでいることって、意外にあるのかもしれませんね。
日本人に信仰心って、「なんでもあり」のところがありますね。
生まれたら、神社へ。結婚式は教会で。死んだら、お坊さんにお経をあげてもらう。
こういうパターンを歩む人の、なんとまあ、多いこと。
宗教ごちゃまぜでも成り立っている国。そういう国って、やはり珍しいことでしょう。
どれかを「絶対化」していない点が、私自身は好きです。(日和見的ですので、諸外国ではバカにされる生き方ですが。)
信念の弱い私ですが、宗教において「ある宗教を絶対化」することには、反対するという考えでやってきています。だから、宗教の押しつけには、反射的に「いやなもの」を感じてしまいます。
以上、長くなりましたが、「堺? 境?」の話を終わります。
「堺」という地名は、摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」に発展した街である事から付いたと言われている。だから、地名の語源的には、「境」という漢字の方がわかりやすい。昔(熊野詣が盛んだった時代以前)は、「さかい」周辺地域は「境」という漢字を使っていたらしい。そのまま「境」という漢字が使われつづけていたら、私の住所表記は「堺市」ではなく、「境市」となっていただろう。
熊野詣における「王子」(休憩地点・旅の安全祈願地点でもあった場所)が100ヵ所ぐらいあったらしいが、その一つが「境王子」である。その跡地が公園になっていて、私の散歩コースの一か所でもある。
(注・調べてみた内容=)境王子(さかいおうじ)は、熊野街道沿いに設けられた九十九王子の一つ。窪津王子から 数えて7番目にあたる。 境王子は現在の大阪府堺市堺区北田出井町付近 にあったと推定されている。この地域は、摂津国、河内国、和泉国の境があった場所。(以上、調べた内容)
この内容からも、歴史的には、この堺市地域を示す漢字として、「堺」という漢字よりも、「境」という漢字を先に使って表記していたことがわかる。熊野詣において、参詣人は「境王子」で休憩したに違いない。その時代、堺は確かに「境」と表記されていたのである。
では、いつから「境」から「堺」に字が変わったのだろうか? (私は研究者ではないので、素人として好奇心から推測してみるだけのことであるが・・・。)
どちらの漢字も意味は同じで、「境界」という意味。つまり 「境=界=堺」この3字はまったく意味は同じである。「堺」は地名だけで使われる漢字で、熟語はないはず。
意味がまったく同じ漢字の場合、すり替わりやすい。たぶん平安時代ぐらいに、誰か「偉い人」が表した書物において、「境→堺」のすり替えがなされていたのであろう。「偉い人」が表記すると、その表記が「正しい字」になっていくことが多いものである。言葉の使い方においても、「偉い人」が間違った使い方をしても、その使い方が「正しくなっていく」ケースがあるものだ。
「漢字の使い方」及び「言葉遣い」は、時代によって、権力者や「偉い人」などの影響を受けて、変化することが多い。
話を元に戻す。
固有名詞として表記する字としては、「境」よりも、「堺」の方がよかったのであろう。私も地名としては、「堺」の方が好印象である。
誰がすり替えたのかは知らないが、なかなかの人物だと推測している。うっかりミスではなく、「わざと」堺という字に変えたに違いない。
こういうことは、「堺」だけに限らず、いろいろなケースで起こっている。たとえば、京都を流れる川、「鴨川」「賀茂川」の例。京都の人は使い分けができるのかもしれないが、私にはさっぱり。同じ川なのに、「鴨川」と「賀茂川」の表記をどういう基準で使い分けているのだろうか? 私にはさっぱりわからない。川が流れている位置の違いなのであろうか・・・・?
他にも、大分県の「湯布院」と「由布院」の例。同じ地域なのに、二通りの表記がある。私には、使い分けがまったくできない。
こういうことは、漢字文化においては数多く発生していることであろう。たぶん、どのケースも歴史や由来があることであろう。「占い師」が絡んでいるケースもあるだろう。不吉なことが起こったので、字を変えた・・・とか。
(さて、話の続きを書いていきたい。)
「堺」は、摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」に発展した街であるのだが、その境(つまり国境)は現在のどのあたりなのであろうか?
堺よりに北に位置する国が「摂津国」で、南に位置する国は「和泉国」である。では、その国境は? 堺市堺区中心部の「大小路」という道が国境であった。南海本線「堺駅」と南海高野線「堺東駅」と結ぶ大きなバス通りである。大小路筋とも言われ、堺市最大の祭り「南蛮行列」が毎年実施されている道である。堺市民なら、「南蛮行列」を一度はご覧になったことであろう。あの通りが、摂津国と和泉国との国境になっていたのである。もっとも、昔の「大小路」は現在の位置よりも約100m北だったようである。しかし、「大小路通り」が国境だったことは確かなようである。なぜ、昔の道が移動したのか? それは、堺の街が二度も破壊されているからであろう。一度目は「大坂夏の陣」で。二度目は「太平洋戦争」で。堺市堺区周辺は歴史上、二回も「完全破壊」されている。もともとあった道が復旧する時、ずれが生じたのであろう。「完全破壊」されてしまえば、元に戻すのは難しい。二回も完全破壊された街=堺市(堺区のほとんど)なのである。こういう街は日本に少ないだろう。
約100mのずれは生じたが、「大小路」が国境の一つだったのである。
では、もう一つの国境はどこだったのか? 3つ目の国=河内国はどのあたりに位置したのであろうか?
実は「大小路通り」を東へ延長させると、「三国ヶ丘高校」に辿り着く。この「三国ヶ丘」の三国とは、「摂津国・和泉国・河内国」を指すのである。堺東駅から、東側はゆるやかな坂になっていて、低い丘だったことがわかる。だから、「三国ヶ丘」という地名になったのであろう。
ということは、あの周辺は「河内国」と接する地域に入ったことになる。「摂津国+和泉国」の(東方に位置する)河内国との国境は、三国ヶ丘周辺を基点に南北のラインであったと予測できる。
大小路ライン=国境①
三国ヶ丘基点の南北ライン(現在の「けやき通り」かな?)=国境②
①と②が交わるところに何があるのだろうか??
予想がついた方は堺に詳しい方である。
正解は、「方違(ほうちがい)神社」。現在の大小路を北にずらせた道(=泉陽高校の前の道)を東へ向かい、けやき通りに交わるところに「方違神社」がある。その近くに、熊野街道の7番目の王子「境王子(跡)」がある。
この方違神社(住所表記は堺市堺区北三国ヶ丘町)はたいへん珍しい神社である。主に「方角」に関することでお参りする神社なのである。
平安時代ごろは「方違え(かたたがえ)」(=陰陽道信仰により、行きたい方角が凶の場合、前夜に方角の違う家に泊まってから、目的の場所向かう風習。)が盛んだったらしい。古文では、ちょくちょく「方違え」が記述されているので、重要なことであったのであろう。現在においても、「鬼門」を気にする人は多い。若い人はそれほど気にはしていないかもしれないが、団塊の世代より上の人は気にしている人が多いだろう。「その方角は鬼門に当たるから、どうのこうの・・・」・「引っ越しする方角が悪いので、どうしたものか・・・」など、科学信仰の強い現代においても、「陰陽道」の影響は残っている。
方角の関する困り事・悩み事で、「お祓い」を受けることができるということで有名な神社が「方違神社」なのである。近畿一円、遠くからもお参りにくる人が多い神社である。
引っ越しや転勤地への「方角」が悪いと思われる時に、「悪いことが起こらないように」願うようである。(私自身はそういうことは気にして生きてきていないが、結構気にする人はいるらしい。) とにかく、「人気のある」神社である。
「方違神社」は現代風に言えば、「パワースポット」なのである。どこからも束縛を受けない、清い地域=清地(聖地とも言えるか?)に神社がスタートしている。
方違神社境内は3国の国境の「点」に存在していると言ってもいいだろう。それはどの国に属するのか? 実は、どの国にも属さない地域だったのである。
摂津国・和泉国・河内国の国境にはあるが、どの国にも属さないという「自由地」「無所属地」に神社が(昔から)存在するのである。清地ゆえに、邪気を払う力が発生していると信じられ、聖地・パワースポットとして、現在においてもお参りする人は絶えない。
狭い敷地だが、「歴史・由来のある地域」なのである。(ちなみに、境内のすぐ南隣には反正天皇陵がある。ここも私の散歩コースの一つである。)
方違神社へ行かれたことのない方へ。方違神社の境内は駐車無料ですので、前を通りがかったら、一度は入ってみてください。「歴史を感じる」のも、いいものですよ。もっとも、 私は陰陽道(安倍晴明が有名ですね)系列の信心はしておりませんが、知らず知らずに生活の中に入り込んでいるのかもしれません。
知らず知らずに入り込んでいることって、意外にあるのかもしれませんね。
日本人に信仰心って、「なんでもあり」のところがありますね。
生まれたら、神社へ。結婚式は教会で。死んだら、お坊さんにお経をあげてもらう。
こういうパターンを歩む人の、なんとまあ、多いこと。
宗教ごちゃまぜでも成り立っている国。そういう国って、やはり珍しいことでしょう。
どれかを「絶対化」していない点が、私自身は好きです。(日和見的ですので、諸外国ではバカにされる生き方ですが。)
信念の弱い私ですが、宗教において「ある宗教を絶対化」することには、反対するという考えでやってきています。だから、宗教の押しつけには、反射的に「いやなもの」を感じてしまいます。
以上、長くなりましたが、「堺? 境?」の話を終わります。
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2013/5/30
「堺市 丁目の「目」を書かない理由は? 」 評論・随筆その他
堺市の住所表記は、「○丁目」の「目」は書かない。私(堺市の住民)の本籍地や現住所にも「目」は書かれていない。堺市役所の戸籍係が書き忘れたのではない。あえて表記しないところが、「堺市独特の住所表記」なのである。
全国の住所表記を調べたわけではないが、「目」を表記しないところは、おそらく「堺市」だけであろう。(ただし、1990年に編入した「美原区」は「丁目」の表記になっている。おそらく編入後も元のまま「目」を入れたままにしたのであろう。同じ堺市なのに、区の違いによって「目」を表記したりしなかったりするという、ちょっと珍しいケースになってしまっている。このことに気づいた堺市民の一人として、ひそかに「住所表記に関して、全国的に珍しい市に違いない!」と認識した。まあ、「こんなささいなことにこだわる私」以外は、あまり気にしていないかもしれないが…。)
全国的には「1丁目1番地」などと「1丁目」の「目」が入っている。それが、堺市では「1丁1番地」となる。(ちなみに、私の本籍地は「・・・6丁40番地」となっている。
さて、「丁目」ではなく「丁」と表記するようになった理由は?
実は、古代から栄えてきた「自由都市」堺市の歴史が関係しているのである。
室町時代・戦国時代の堺は、日明貿易や南蛮貿易によって発展していった。1550年にはフランシスコ・ザビエルも堺の豪商(日比屋了珪=ひびやりょうけい)宅に滞在している。日比屋了珪宅は現在公園になっている。ザビエルが滞在した場所ということで、「ザビエル公園」という名の公園である。ちなみに、公園の住所表記は 堺市堺区櫛屋町西1丁(目は書かない)である。
そのころの堺の繁栄ぶりは、ザビエルの後に来日したビレイラという宣教師が「イタリアのベネチアのように華やかだ」と記していることからも想像できる。
当時の堺は、町の周囲に深い堀をめぐらして、頑丈な木戸を設けていた。外敵からの侵入を防ぎ、町を守っていた。要するに「独立した自治都市=環濠(町の周りを深い堀で囲んでいる)都市」であった。堺の豪商のリーダーたち(その一人は千利休)は、多くの浪人を傭兵として雇い入れて、町の防衛力にしていた。このことからも、自治都市としての「自治・繁栄ぶり」がうかがえるものである。まさに「商人たちによって統治されていた町」であった。そんな町は、日本広しと言えども「堺」だけである。
その繁栄していた(環濠によって防備していた)自治都市「堺」であってさえ、「織田信長の圧力」には屈しなければならなかったようである。織田信長のパワーはそれほどすごかったのだ。堺の商人たちは織田信長によって「自治」を奪われてしまった。
織田信長にとって、「独立自治地域=堺」を許せなかったのであろう。堺は日本一の「火縄銃(鉄砲)生産地」であった。その堺を支配下に置くことが最も重要なことであった。織田信長は堺の自治権を奪うために、ありとあらゆる圧力をかけたのだ。「俺の言うことを聞かないなら、堺を滅ぼすぞ!」と脅した。
お金で雇っている傭兵たち(浪人たち)が町を防御しているとはいえ、「織田信長軍団」に本気で攻められたら、ひとたまりもない。(だから、堺の豪商たちは織田信長の圧力に屈し、言い分を受け入れざるを得なかったのだろう。)
織田信長の言い分は、「堀(環濠)を埋めよ!」であった。その意味するところは、「自治権を放棄せよ!」という内容であった。
もっとも、「本能寺の変」で織田信長が死亡したため、環濠埋立てが実施されたのは、豊臣秀吉の時代に入ってからである。豊臣秀吉も堺への圧力を織田信長同様にかけている。ねらいは「堺の商業力および貿易力」を支配することにあった。
豊臣秀吉の時代になり、織田信長が計画していた「環濠埋め立て工事」が実行された。そのうえ、豊臣秀吉は堺の商人たちを大坂城下に移住させている。徹底的に「自由都市・堺」を解体しようとした。そのことに対して、堺商人のなかには「怨念」を持つ者がいたであろう。
町の形とともに商業力までもが、解体されていく堺。その堺を守るために、秀吉の方針に反抗したのが、晩年の千利休であろう。
千利休(堺のリーダーの一人で、茶人・豪商として活躍)は、長年、織田信長・豊臣秀吉らにうまく利用されてきた。しかし、晩年の利休は、思うところがあって、反抗するようになった。堺が完全に解体されていくことに我慢ならなかったのであろう。
千利休の反抗に気づいた豊臣秀吉。
秀吉は利休を利用するだけ利用しておいて、「うるさい存在」になってしまった「絶大なる力を持ち出した超大物文化人(=千利休)」に切腹を命じた。世間の人が納得できる「切腹を命じた理由」をあれこれ考えたのであろう。(資料によると、いろいろな説があるようだ。)
要するに、秀吉が利休になんだかんだと「いちゃもん」をつけたのだ。切腹は、天下人の逆鱗に触れた結果であった。しかし、千利休に悔いはなかったはずである。心静かにあの世へ旅立ったことであろう。
堺の魚問屋の息子として生まれ、豪商として活躍し、教養として「茶の湯」を身に着け、政治を動かす立場にまで上り詰めた。お茶の世界の第一人者になり、自由都市・堺のためにも貢献した。その生きざまは満足な人生であったに違いない。
(以上、鬼井江の勝手な推測にすぎませんが、一部当たっているかな?)
さて、話を元に戻そう。
1615年、堺は「大坂夏の陣」で全焼した。自治都市として重要な役割をしていた防御堀(環濠)を豊臣秀吉によって埋められ、商業都市として機能する町並みも消失してしまった。完全に破壊され、「堺」が消えてしまったのだ。
一説によると、「大坂夏の陣」で大坂城を攻めていた徳川家康は、この戦いで重傷を負い、早籠で堺の寺院に運ばれたが、堺に到着した時には死亡していた、と記録されている。(私はこの説を信じている) 堺の「南宗寺(なんしゅうじ)という寺の一角に「徳川家康の墓」がある。この墓を建立した人の一人はパナソニックの創立者、松下幸之助である。立派な墓が現在に至っても存在している。これは、松下幸之助氏も「徳川家康、堺にて死す」という説を信じてのことであろう。「大坂夏の陣」で徳川家康が死んだということを豊臣家支持派に知られてはまずい、と判断した「徳川家支持一族」が、影武者をしたて、「徳川家康」が生きている状態にしたのであろう。大昔から、中国でも日本でも「影武者」を常に用意していたものである。「大坂夏の陣」で豊臣一派を陥落させたが、堺の町は完全崩壊してしまった。
堺の町が「徳川家康」のためにいろいろと貢献したことに、徳川一族は感謝の意を示したことであろう。徳川一族は堺に恩義を感じたにちがいない。
徳川2代将軍、3代将軍ともに、南宗寺(家康の墓がある寺)にお参りしている。その記録が残されている。このことからも、「家康死亡地=堺」説がそれなりの根拠を持っていると言えるであろう。
恩義を感じた徳川家は、なんと「堺の町を復興」しようとしたのだ! 破壊された堺の町の復興として、まず「環濠」を復活(埋められた堀を再現)させた。現在、堺の中心部を流れる環濠(土居川・内川)は、徳川家によって復興されたものなのである。もとのままに再現はできていないだろうが、できるだけ「昔の環濠」になるように掘り返したようである。完全復活は無理だったようである。堀の幅が狭くなったり、浅くなったりで、不完全な環濠にしかもどらなかったらしい。(堺の環濠に関する研究・発掘は現在も続けられている。)
堺の町を復興するに当たり、「町を碁盤の目のように」割り振った。その結果、出来上がった町の数は約400もあった。それほど広くはない地域なのに、約400区画に分けたのだ。人々はあまりにも数が多くて、覚えきれない。そこで、人々はどのように呼んで、その区画(独立した町)を覚えようとしたのだろうか?
堺の南北を貫く「大きな道=大道筋(紀州街道の一部)」を背骨にして、その背骨(紀州街道)に面した(横筋の)24の町名をもとに、南北に通じる縦筋の通り名を合わせて覚え、呼ぶようになったとのことである。たとえば、「櫛屋町濱中筋」・「神明町山之口」。東西横筋の町名+南北縦筋通り名=住所(表記) ということになる。
とにかく碁盤の目状の約400の区画をどう呼ぶかについては、碁盤(19×19の区画がある)を想像していただけたら、呼び名の合理性とともに複雑さ(困難さ)も理解できるであろう。
江戸時代の堺の町並みはほぼ碁盤の目状で、狭い区画でありながら、400区画それぞれが「一つの町」として「独立」した呼び名(=住所表記)を用いて暮らしていたのだ。江戸時代の堺(現在の堺市堺区の一部分にすぎない狭い地域)は、碁盤の目状の町(約400の区画)であった。
神明町や櫛屋町など、24の町名はそのまま現在に至っても、(江戸時代の地図のまま)使われている。山之口筋という通り名もそのままである。ちなみに、私の(昔の)住まいは、堺市中之町であった。そして「山之口筋」に面していた。江戸時代の住所表記をすれば、「中之町山之口筋」ということになる。「青春時代を過ごした懐かしい家」は、6年ほど前に処分してしまって、今は存在しないが・・・。
江戸時代の住所表記については、(今は亡き)母が購入してくれた堺大絵図(元禄時代に書かれた堺地図の復刻版)によっても、確かめることができた。ちなみに、その地図にわが先祖の居宅名(「海部屋善兵衛」とのこと)が記されていた。
(先祖の名が記されている地図の復刻だから、母は昭和52年発行の「限定販売の高価な堺大絵図」を購入したのであろう。昔の地図なら、図書館へ行けば見ることができるはず。しかし、母は持っておきたかったのであろう。現在、その地図は「母の気持ちを想像できる遺品」として、大切にして保存している。)
江戸時代が終わり、明治時代になった。堺における町名が江戸時代の呼び方のままでは、少しややこしかったのであろう。横筋名と縦筋名をすべて覚えなければ、区画を限定できない呼び方は、堺の住民以外にはさっぱりわからない呼び方だった。(ややこしい呼び方だ! 京都の方がまだマシかな?)
新政府となり、堺の複雑な町名をもっとわかりやすくしたかったにちがいない。そして、明治5年、とうとう町が再編された。町名(住所表記を簡素化するのがねらい)を堺市以外の人間にもわかりやすくするためにすっきりさせたのである。
横筋に当たる24の町名はそのまま残し、縦筋の通り名を数字化した。大道(紀州街道)を中心にして、東側と西側に整理した。東側は、○○町東一丁、東二丁、・・・・・、西側は、○○町西一丁、西二丁・・・・・と変更した。「東六丁」という区域もある町もある。 24町×東六丁+24町×西六丁=288区画を示すことができる。江戸時代には約400もあった「町の呼び名」を単純化して整理したわけである。ブログの写真で形を想像できるように、完全な長方形の町ではないので、(明治政府が堺を実際、何区画に整理したかについては調べていないので。)正確な区画数は数えていないし、私は知らない。
話が横道へそれてしまって、タイトルの結論が遅くなってしまいました。そろそろ結論へ。
堺において、「丁」は「南北の通り名」を表すものであって、単に「町を細分化する時に使われる「丁目」という単位ではなかったのである。だから(たとえば)「中之町東1丁」=「独立した町の名」=「区域名」として、堺の人々は「丁目」という表記に抵抗し、「丁」にこだわったのである。
昭和の初めの堺市議会において、「目」をつけるかどうかで論議されたことがあった。しかし、論議の結果、「丁」のままになった。江戸時代の堺市域からどんどん広がっていった堺市であるが、「美原区」が併合されるまでは、堺市はどの町も「丁目」ではなく、「丁」という住所表記の市なのである。(ただし、現在、堺市美原区だけが「丁目」表記の地域になっている。いつか、「目」がとれるときがくるかも・・・。)
以上で、今回のブログは終了です。3日間かかって書いたので、すこしつかれました。
元禄時代の地図 堺大絵図(復刻版) 昭和52年発行
縦60センチ・横40センチ・高さ15センチのケース入り
復刻版は、約3畳分の地図を10か所に分けている。
縮刷した堺大絵図(江戸時代の堺の全体がわかる)
手前(西側)が海(大阪湾)で、北東南の三方が堀。つまり、環濠都市である。
堺の北側には「大和川」が記されている。この写真ではわかりにくいが。
道が碁盤の目状になっていることがよくわかる。町の名と通りの名が書かれている。
さらに拡大したもので、「海部屋善兵衛」宅周辺の地図です。
全国の住所表記を調べたわけではないが、「目」を表記しないところは、おそらく「堺市」だけであろう。(ただし、1990年に編入した「美原区」は「丁目」の表記になっている。おそらく編入後も元のまま「目」を入れたままにしたのであろう。同じ堺市なのに、区の違いによって「目」を表記したりしなかったりするという、ちょっと珍しいケースになってしまっている。このことに気づいた堺市民の一人として、ひそかに「住所表記に関して、全国的に珍しい市に違いない!」と認識した。まあ、「こんなささいなことにこだわる私」以外は、あまり気にしていないかもしれないが…。)
全国的には「1丁目1番地」などと「1丁目」の「目」が入っている。それが、堺市では「1丁1番地」となる。(ちなみに、私の本籍地は「・・・6丁40番地」となっている。
さて、「丁目」ではなく「丁」と表記するようになった理由は?
実は、古代から栄えてきた「自由都市」堺市の歴史が関係しているのである。
室町時代・戦国時代の堺は、日明貿易や南蛮貿易によって発展していった。1550年にはフランシスコ・ザビエルも堺の豪商(日比屋了珪=ひびやりょうけい)宅に滞在している。日比屋了珪宅は現在公園になっている。ザビエルが滞在した場所ということで、「ザビエル公園」という名の公園である。ちなみに、公園の住所表記は 堺市堺区櫛屋町西1丁(目は書かない)である。
そのころの堺の繁栄ぶりは、ザビエルの後に来日したビレイラという宣教師が「イタリアのベネチアのように華やかだ」と記していることからも想像できる。
当時の堺は、町の周囲に深い堀をめぐらして、頑丈な木戸を設けていた。外敵からの侵入を防ぎ、町を守っていた。要するに「独立した自治都市=環濠(町の周りを深い堀で囲んでいる)都市」であった。堺の豪商のリーダーたち(その一人は千利休)は、多くの浪人を傭兵として雇い入れて、町の防衛力にしていた。このことからも、自治都市としての「自治・繁栄ぶり」がうかがえるものである。まさに「商人たちによって統治されていた町」であった。そんな町は、日本広しと言えども「堺」だけである。
その繁栄していた(環濠によって防備していた)自治都市「堺」であってさえ、「織田信長の圧力」には屈しなければならなかったようである。織田信長のパワーはそれほどすごかったのだ。堺の商人たちは織田信長によって「自治」を奪われてしまった。
織田信長にとって、「独立自治地域=堺」を許せなかったのであろう。堺は日本一の「火縄銃(鉄砲)生産地」であった。その堺を支配下に置くことが最も重要なことであった。織田信長は堺の自治権を奪うために、ありとあらゆる圧力をかけたのだ。「俺の言うことを聞かないなら、堺を滅ぼすぞ!」と脅した。
お金で雇っている傭兵たち(浪人たち)が町を防御しているとはいえ、「織田信長軍団」に本気で攻められたら、ひとたまりもない。(だから、堺の豪商たちは織田信長の圧力に屈し、言い分を受け入れざるを得なかったのだろう。)
織田信長の言い分は、「堀(環濠)を埋めよ!」であった。その意味するところは、「自治権を放棄せよ!」という内容であった。
もっとも、「本能寺の変」で織田信長が死亡したため、環濠埋立てが実施されたのは、豊臣秀吉の時代に入ってからである。豊臣秀吉も堺への圧力を織田信長同様にかけている。ねらいは「堺の商業力および貿易力」を支配することにあった。
豊臣秀吉の時代になり、織田信長が計画していた「環濠埋め立て工事」が実行された。そのうえ、豊臣秀吉は堺の商人たちを大坂城下に移住させている。徹底的に「自由都市・堺」を解体しようとした。そのことに対して、堺商人のなかには「怨念」を持つ者がいたであろう。
町の形とともに商業力までもが、解体されていく堺。その堺を守るために、秀吉の方針に反抗したのが、晩年の千利休であろう。
千利休(堺のリーダーの一人で、茶人・豪商として活躍)は、長年、織田信長・豊臣秀吉らにうまく利用されてきた。しかし、晩年の利休は、思うところがあって、反抗するようになった。堺が完全に解体されていくことに我慢ならなかったのであろう。
千利休の反抗に気づいた豊臣秀吉。
秀吉は利休を利用するだけ利用しておいて、「うるさい存在」になってしまった「絶大なる力を持ち出した超大物文化人(=千利休)」に切腹を命じた。世間の人が納得できる「切腹を命じた理由」をあれこれ考えたのであろう。(資料によると、いろいろな説があるようだ。)
要するに、秀吉が利休になんだかんだと「いちゃもん」をつけたのだ。切腹は、天下人の逆鱗に触れた結果であった。しかし、千利休に悔いはなかったはずである。心静かにあの世へ旅立ったことであろう。
堺の魚問屋の息子として生まれ、豪商として活躍し、教養として「茶の湯」を身に着け、政治を動かす立場にまで上り詰めた。お茶の世界の第一人者になり、自由都市・堺のためにも貢献した。その生きざまは満足な人生であったに違いない。
(以上、鬼井江の勝手な推測にすぎませんが、一部当たっているかな?)
さて、話を元に戻そう。
1615年、堺は「大坂夏の陣」で全焼した。自治都市として重要な役割をしていた防御堀(環濠)を豊臣秀吉によって埋められ、商業都市として機能する町並みも消失してしまった。完全に破壊され、「堺」が消えてしまったのだ。
一説によると、「大坂夏の陣」で大坂城を攻めていた徳川家康は、この戦いで重傷を負い、早籠で堺の寺院に運ばれたが、堺に到着した時には死亡していた、と記録されている。(私はこの説を信じている) 堺の「南宗寺(なんしゅうじ)という寺の一角に「徳川家康の墓」がある。この墓を建立した人の一人はパナソニックの創立者、松下幸之助である。立派な墓が現在に至っても存在している。これは、松下幸之助氏も「徳川家康、堺にて死す」という説を信じてのことであろう。「大坂夏の陣」で徳川家康が死んだということを豊臣家支持派に知られてはまずい、と判断した「徳川家支持一族」が、影武者をしたて、「徳川家康」が生きている状態にしたのであろう。大昔から、中国でも日本でも「影武者」を常に用意していたものである。「大坂夏の陣」で豊臣一派を陥落させたが、堺の町は完全崩壊してしまった。
堺の町が「徳川家康」のためにいろいろと貢献したことに、徳川一族は感謝の意を示したことであろう。徳川一族は堺に恩義を感じたにちがいない。
徳川2代将軍、3代将軍ともに、南宗寺(家康の墓がある寺)にお参りしている。その記録が残されている。このことからも、「家康死亡地=堺」説がそれなりの根拠を持っていると言えるであろう。
恩義を感じた徳川家は、なんと「堺の町を復興」しようとしたのだ! 破壊された堺の町の復興として、まず「環濠」を復活(埋められた堀を再現)させた。現在、堺の中心部を流れる環濠(土居川・内川)は、徳川家によって復興されたものなのである。もとのままに再現はできていないだろうが、できるだけ「昔の環濠」になるように掘り返したようである。完全復活は無理だったようである。堀の幅が狭くなったり、浅くなったりで、不完全な環濠にしかもどらなかったらしい。(堺の環濠に関する研究・発掘は現在も続けられている。)
堺の町を復興するに当たり、「町を碁盤の目のように」割り振った。その結果、出来上がった町の数は約400もあった。それほど広くはない地域なのに、約400区画に分けたのだ。人々はあまりにも数が多くて、覚えきれない。そこで、人々はどのように呼んで、その区画(独立した町)を覚えようとしたのだろうか?
堺の南北を貫く「大きな道=大道筋(紀州街道の一部)」を背骨にして、その背骨(紀州街道)に面した(横筋の)24の町名をもとに、南北に通じる縦筋の通り名を合わせて覚え、呼ぶようになったとのことである。たとえば、「櫛屋町濱中筋」・「神明町山之口」。東西横筋の町名+南北縦筋通り名=住所(表記) ということになる。
とにかく碁盤の目状の約400の区画をどう呼ぶかについては、碁盤(19×19の区画がある)を想像していただけたら、呼び名の合理性とともに複雑さ(困難さ)も理解できるであろう。
江戸時代の堺の町並みはほぼ碁盤の目状で、狭い区画でありながら、400区画それぞれが「一つの町」として「独立」した呼び名(=住所表記)を用いて暮らしていたのだ。江戸時代の堺(現在の堺市堺区の一部分にすぎない狭い地域)は、碁盤の目状の町(約400の区画)であった。
神明町や櫛屋町など、24の町名はそのまま現在に至っても、(江戸時代の地図のまま)使われている。山之口筋という通り名もそのままである。ちなみに、私の(昔の)住まいは、堺市中之町であった。そして「山之口筋」に面していた。江戸時代の住所表記をすれば、「中之町山之口筋」ということになる。「青春時代を過ごした懐かしい家」は、6年ほど前に処分してしまって、今は存在しないが・・・。
江戸時代の住所表記については、(今は亡き)母が購入してくれた堺大絵図(元禄時代に書かれた堺地図の復刻版)によっても、確かめることができた。ちなみに、その地図にわが先祖の居宅名(「海部屋善兵衛」とのこと)が記されていた。
(先祖の名が記されている地図の復刻だから、母は昭和52年発行の「限定販売の高価な堺大絵図」を購入したのであろう。昔の地図なら、図書館へ行けば見ることができるはず。しかし、母は持っておきたかったのであろう。現在、その地図は「母の気持ちを想像できる遺品」として、大切にして保存している。)
江戸時代が終わり、明治時代になった。堺における町名が江戸時代の呼び方のままでは、少しややこしかったのであろう。横筋名と縦筋名をすべて覚えなければ、区画を限定できない呼び方は、堺の住民以外にはさっぱりわからない呼び方だった。(ややこしい呼び方だ! 京都の方がまだマシかな?)
新政府となり、堺の複雑な町名をもっとわかりやすくしたかったにちがいない。そして、明治5年、とうとう町が再編された。町名(住所表記を簡素化するのがねらい)を堺市以外の人間にもわかりやすくするためにすっきりさせたのである。
横筋に当たる24の町名はそのまま残し、縦筋の通り名を数字化した。大道(紀州街道)を中心にして、東側と西側に整理した。東側は、○○町東一丁、東二丁、・・・・・、西側は、○○町西一丁、西二丁・・・・・と変更した。「東六丁」という区域もある町もある。 24町×東六丁+24町×西六丁=288区画を示すことができる。江戸時代には約400もあった「町の呼び名」を単純化して整理したわけである。ブログの写真で形を想像できるように、完全な長方形の町ではないので、(明治政府が堺を実際、何区画に整理したかについては調べていないので。)正確な区画数は数えていないし、私は知らない。
話が横道へそれてしまって、タイトルの結論が遅くなってしまいました。そろそろ結論へ。
堺において、「丁」は「南北の通り名」を表すものであって、単に「町を細分化する時に使われる「丁目」という単位ではなかったのである。だから(たとえば)「中之町東1丁」=「独立した町の名」=「区域名」として、堺の人々は「丁目」という表記に抵抗し、「丁」にこだわったのである。
昭和の初めの堺市議会において、「目」をつけるかどうかで論議されたことがあった。しかし、論議の結果、「丁」のままになった。江戸時代の堺市域からどんどん広がっていった堺市であるが、「美原区」が併合されるまでは、堺市はどの町も「丁目」ではなく、「丁」という住所表記の市なのである。(ただし、現在、堺市美原区だけが「丁目」表記の地域になっている。いつか、「目」がとれるときがくるかも・・・。)
以上で、今回のブログは終了です。3日間かかって書いたので、すこしつかれました。
元禄時代の地図 堺大絵図(復刻版) 昭和52年発行
縦60センチ・横40センチ・高さ15センチのケース入り
復刻版は、約3畳分の地図を10か所に分けている。
縮刷した堺大絵図(江戸時代の堺の全体がわかる)
手前(西側)が海(大阪湾)で、北東南の三方が堀。つまり、環濠都市である。
堺の北側には「大和川」が記されている。この写真ではわかりにくいが。
道が碁盤の目状になっていることがよくわかる。町の名と通りの名が書かれている。
さらに拡大したもので、「海部屋善兵衛」宅周辺の地図です。
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