2010/12/31
今日は大晦日。大晦日や晦日という言葉について考えてみたい。
大晦日=一年で最後の日。(12月31日)=「おおみそか」・「おおつごもり」とも。
晦日=みそか=三十日=月末を指す言葉でもある。
各月の三十日の「月の状態」=月が隠れていて、形がない→月隠り=つごもり
この「つごもり」が語源であろう。陰暦においては、各月の三十日には月の形がなくなる。新月(月初めの月)から十五夜(満月)を経て、三十日目には月の形が消滅する。つまり、三十日=月隠り(つきこもり)→言いやすく音変化して→「つごもり」に。三十日の読みは「みそか」でもある。「みそか」と言ったり、「つごもり」と言ったりするが、それらは陰暦(旧暦)からきている言葉である。ちなみに、陰暦においては、各月は三十日までであって、三十一日は存在しなかったはずである。月中心につくった暦を調整して作られた月があった。それが、「閏月」(うるうづき)を入れて、季節に合わせたのである。大変ややこしいようであるが、昔の人は慣れていたのであろう。昔(陰暦の時代)は、一年が13か月の年があったのである。現在の太陽暦使用においては、「みそか」や「つごもり」はあまり使われない言葉になっている。(古文や戦前に書かれた文章ではよく見かけるが。)「おおみそか」という言葉は現代でも、みんなが使用する言葉のままである。しかし、「みそか」や「つごもり」の語源については、触れられることが少ないであろう。私も(現役の教師であった時に)少しだけ古文の授業中に触れただけである。
今日は三十一日であっても、「月末」なので、「みそか」にちがいはない。一年の最後に月の「みそか」になるので、12月月末の日を(太陽暦の時代になっても)「おおみそか」「おおつごもり」と言っているように思われる。
以上、推論を含むが、おそらく「大晦日」の語源について考えたことをまとめてみた。
話題は大きく変わるが…、今夜はこのブログ「鬼井江の世界」を振り返ることにした。
このブログをスタートしたのは、2006年2月のこと。まだ教師をしていた。現在、退職後2年9か月である。ブログをスタートさせた頃の「2006年2月17日」記述内容をコピーしてみた。懐かしい内容である。
何年か後の退職後に向けて投稿日: 2006年2月17日 作成者:鬼井江
何年か後に退職したら、旅行記を書こうと思っている。うまくかけないかもしれないが、わかりやすい文章になるように心がけたい。松尾芭蕉が旅行を好んだように、私も残りの人生を旅行で楽しみたいと思っている。目的がはっきりしない旅行をしたいと思っている。それにはロングステイという形が一番現代的である。豪華なホテルではなく、経済的なホテルで10日間ほど過ごす。過ごすことによって何かを感じ、何かを書きたくなる。書きたいことを書くということは、幸せなことだ。だから、旅行をすることは「生きる」ことだともいえる。人生は旅のようなものだと松尾芭蕉は考えていた。芭蕉のように深く考えている私ではないが、ロングステイという形の旅で「したいこと」「書きたいこと」に出会うことができるような気がする。だから何年か後の退職後が楽しみだ。退職後の退職年金としてもらえるお金は少ないが、少ないお金でもロングステイを楽しむことができるらしい。私は、お酒を飲めないし、いい車に乗りたいという希望もないし、住んでいる家は今の古くて狭いマンションで十分だと思っているので、使えるお金はすべて旅行費用に回そうと思っている。いくらぐらい回せるかは退職後の年金をもらってみないと分からないが、質素なロングステイならば何とか実現できるような気がしている。今も質素な生活をしているので、仕事を辞めても今とあまり変わらない感覚で生活できるのではないかと期待している。
以上、過去のブログ内容を再掲。
大晦日=一年で最後の日。(12月31日)=「おおみそか」・「おおつごもり」とも。
晦日=みそか=三十日=月末を指す言葉でもある。
各月の三十日の「月の状態」=月が隠れていて、形がない→月隠り=つごもり
この「つごもり」が語源であろう。陰暦においては、各月の三十日には月の形がなくなる。新月(月初めの月)から十五夜(満月)を経て、三十日目には月の形が消滅する。つまり、三十日=月隠り(つきこもり)→言いやすく音変化して→「つごもり」に。三十日の読みは「みそか」でもある。「みそか」と言ったり、「つごもり」と言ったりするが、それらは陰暦(旧暦)からきている言葉である。ちなみに、陰暦においては、各月は三十日までであって、三十一日は存在しなかったはずである。月中心につくった暦を調整して作られた月があった。それが、「閏月」(うるうづき)を入れて、季節に合わせたのである。大変ややこしいようであるが、昔の人は慣れていたのであろう。昔(陰暦の時代)は、一年が13か月の年があったのである。現在の太陽暦使用においては、「みそか」や「つごもり」はあまり使われない言葉になっている。(古文や戦前に書かれた文章ではよく見かけるが。)「おおみそか」という言葉は現代でも、みんなが使用する言葉のままである。しかし、「みそか」や「つごもり」の語源については、触れられることが少ないであろう。私も(現役の教師であった時に)少しだけ古文の授業中に触れただけである。
今日は三十一日であっても、「月末」なので、「みそか」にちがいはない。一年の最後に月の「みそか」になるので、12月月末の日を(太陽暦の時代になっても)「おおみそか」「おおつごもり」と言っているように思われる。
以上、推論を含むが、おそらく「大晦日」の語源について考えたことをまとめてみた。
話題は大きく変わるが…、今夜はこのブログ「鬼井江の世界」を振り返ることにした。
このブログをスタートしたのは、2006年2月のこと。まだ教師をしていた。現在、退職後2年9か月である。ブログをスタートさせた頃の「2006年2月17日」記述内容をコピーしてみた。懐かしい内容である。
何年か後の退職後に向けて投稿日: 2006年2月17日 作成者:鬼井江
何年か後に退職したら、旅行記を書こうと思っている。うまくかけないかもしれないが、わかりやすい文章になるように心がけたい。松尾芭蕉が旅行を好んだように、私も残りの人生を旅行で楽しみたいと思っている。目的がはっきりしない旅行をしたいと思っている。それにはロングステイという形が一番現代的である。豪華なホテルではなく、経済的なホテルで10日間ほど過ごす。過ごすことによって何かを感じ、何かを書きたくなる。書きたいことを書くということは、幸せなことだ。だから、旅行をすることは「生きる」ことだともいえる。人生は旅のようなものだと松尾芭蕉は考えていた。芭蕉のように深く考えている私ではないが、ロングステイという形の旅で「したいこと」「書きたいこと」に出会うことができるような気がする。だから何年か後の退職後が楽しみだ。退職後の退職年金としてもらえるお金は少ないが、少ないお金でもロングステイを楽しむことができるらしい。私は、お酒を飲めないし、いい車に乗りたいという希望もないし、住んでいる家は今の古くて狭いマンションで十分だと思っているので、使えるお金はすべて旅行費用に回そうと思っている。いくらぐらい回せるかは退職後の年金をもらってみないと分からないが、質素なロングステイならば何とか実現できるような気がしている。今も質素な生活をしているので、仕事を辞めても今とあまり変わらない感覚で生活できるのではないかと期待している。
以上、過去のブログ内容を再掲。
2010/11/29
「鬼井江の世界」 評論・随筆その他
私の場合は、子(ね)年生まれです。来年は卯(う)年です。
十二支について、改めて考えてみると・・・
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥で、12進法と考えられる。1日(24時間)を12に分けて、時刻や時間帯に使ったりもしてきた。また、方角表現にも用いられてきた。
子の時間帯は0時から2時間(または23時から1時の2時間。→時代や地域・国によって考え方が違ったようです。) 午の時間帯は12時から2時間(または11時から2時間)。子の刻は0時で、午の刻は12時。午(うま)より前の時間帯が「午前」で、午より後の時間帯が「午後」。
ちなみに、「子前(しぜん)」や「子後(しご)」なんてのは聞いたことがないですね。理屈では、あってもいいと思うのですが・・・。午の刻は、1日を半分に分けるときの最重要な時刻だったと言えそうです。子の刻は、昔、みんな寝ている時間だったはず。人間の活動にとっては、重要ではなかったことでしょう。現代、子の刻になると、かえって元気になる人もいるようですが・・・(笑)
方角表現にも十二支を用いていました。子の方角を北にして、右回り12進法で示すためには、北東・北西・南東・南西の方角を十二支そのものでは示せません。そこで、北東は丑と寅の間だから、「うしとら」とし、同じように南東が「たつみ」、南西が「ひつじさる」で、北西が「いぬい」。それぞれ漢字一字で、艮(うしとら)・巽(たつみ)・坤(ひつじさる)・乾(いぬい)。昔の人は方角表現では苦労したのかな?
子(ね)は12進法において、スタートの「1」です。亥(い)が「12」になります。
時計が12進法で、世界共通です。もし、時計が10進法や15進法などであれば、ややこしいことでしょう。(24進法の時計は便利そうなので、どこかで利用されているかも。)
私たちの生活は、12進法や60進法に慣れています。一年は12月なども、12進法ですね。13で1になるのが、12進法ですね。
12進法と共に用いられるのが、60進法。正式な干支や時計の分針・秒針が60進法。
ところで、十二支には慣れ親しんで生活してきていますが、十干(じっかん)には慣れていません。甲・乙・丙・丁の次を言える人は少ないのでは? 私は言えません。
調べてみると、戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)と続いていました。1から10まで、一気に言える人は干支に詳しい人でしょうね。甲乙丙丁(1・2・3・4)までは、言える人が多いでしょうが・・・。5番目以後は?
十干と十二支とをあわせて60通り(120通りの半分)に組み合わせて年号を表したのが、正式な干支(えと・かんし)だそうです。戦後、日本では、十二支が正式な干支の代わりをするようになったとか・・・。我々団塊の世代は、正式な干支に疎いはずですね。お年寄りは流石に詳しいようです。
正式な干支は60進法。スタートの1番目は「甲子(こうし・かっし)」で、ラストの60番目が「癸亥(きがい)」。
61で、また1に戻ることになる。60年を一還りと数えますので、いわゆる60歳を「還暦」と呼ぶ。61で1に戻るので、「人生を再スタート=赤ちゃんにもどる」。赤ちゃんが着るようなものを着せて祝う家庭も多いようですね。ちなみに、私の家では、そういうことはしなかった。70歳まで生きられたら、みんなで祝うことにしたので・・・。(それまで、生きているかな?)
正式な干支の中で、聞いたことのある言葉もあります。「ひのえうま(丙午)=43番目」・「壬申の乱」の「じんしん(壬申)=9番目」・「辛亥革命」の「しんがい(辛亥)=48番目」など、歴史的に干支の名称が使われてきたようです。昔から、年号は60進法の干支を用いて表していたのでしょう。
ちなみに、私が生まれた1948年は、戊子(ぼし・つちのえね)=25番目。
大変おめでたい年とされるのは、1番目の甲子(こうし・かっし・きのえね)。1924年・1984年などが「甲子」の年。
甲子園球場のある地域に、「大運動場」なるものが開設された年が1924年。「甲子」の年である。その大運動場を含んだ公園周辺には名前がなかったので、めでたい年に誕生した公園=「甲子園」と名づけたそうである。「甲子園球場」の誕生である。
甲子とは、たいへんめでたい名前なんですね。60進法の1なんですから。阪神ファンの皆様、ご存知でしたか? 私は知りませんでした。今回、干支について、調べてみてわかったことです。
十二支について、改めて考えてみると・・・
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥で、12進法と考えられる。1日(24時間)を12に分けて、時刻や時間帯に使ったりもしてきた。また、方角表現にも用いられてきた。
子の時間帯は0時から2時間(または23時から1時の2時間。→時代や地域・国によって考え方が違ったようです。) 午の時間帯は12時から2時間(または11時から2時間)。子の刻は0時で、午の刻は12時。午(うま)より前の時間帯が「午前」で、午より後の時間帯が「午後」。
ちなみに、「子前(しぜん)」や「子後(しご)」なんてのは聞いたことがないですね。理屈では、あってもいいと思うのですが・・・。午の刻は、1日を半分に分けるときの最重要な時刻だったと言えそうです。子の刻は、昔、みんな寝ている時間だったはず。人間の活動にとっては、重要ではなかったことでしょう。現代、子の刻になると、かえって元気になる人もいるようですが・・・(笑)
方角表現にも十二支を用いていました。子の方角を北にして、右回り12進法で示すためには、北東・北西・南東・南西の方角を十二支そのものでは示せません。そこで、北東は丑と寅の間だから、「うしとら」とし、同じように南東が「たつみ」、南西が「ひつじさる」で、北西が「いぬい」。それぞれ漢字一字で、艮(うしとら)・巽(たつみ)・坤(ひつじさる)・乾(いぬい)。昔の人は方角表現では苦労したのかな?
子(ね)は12進法において、スタートの「1」です。亥(い)が「12」になります。
時計が12進法で、世界共通です。もし、時計が10進法や15進法などであれば、ややこしいことでしょう。(24進法の時計は便利そうなので、どこかで利用されているかも。)
私たちの生活は、12進法や60進法に慣れています。一年は12月なども、12進法ですね。13で1になるのが、12進法ですね。
12進法と共に用いられるのが、60進法。正式な干支や時計の分針・秒針が60進法。
ところで、十二支には慣れ親しんで生活してきていますが、十干(じっかん)には慣れていません。甲・乙・丙・丁の次を言える人は少ないのでは? 私は言えません。
調べてみると、戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)と続いていました。1から10まで、一気に言える人は干支に詳しい人でしょうね。甲乙丙丁(1・2・3・4)までは、言える人が多いでしょうが・・・。5番目以後は?
十干と十二支とをあわせて60通り(120通りの半分)に組み合わせて年号を表したのが、正式な干支(えと・かんし)だそうです。戦後、日本では、十二支が正式な干支の代わりをするようになったとか・・・。我々団塊の世代は、正式な干支に疎いはずですね。お年寄りは流石に詳しいようです。
正式な干支は60進法。スタートの1番目は「甲子(こうし・かっし)」で、ラストの60番目が「癸亥(きがい)」。
61で、また1に戻ることになる。60年を一還りと数えますので、いわゆる60歳を「還暦」と呼ぶ。61で1に戻るので、「人生を再スタート=赤ちゃんにもどる」。赤ちゃんが着るようなものを着せて祝う家庭も多いようですね。ちなみに、私の家では、そういうことはしなかった。70歳まで生きられたら、みんなで祝うことにしたので・・・。(それまで、生きているかな?)
正式な干支の中で、聞いたことのある言葉もあります。「ひのえうま(丙午)=43番目」・「壬申の乱」の「じんしん(壬申)=9番目」・「辛亥革命」の「しんがい(辛亥)=48番目」など、歴史的に干支の名称が使われてきたようです。昔から、年号は60進法の干支を用いて表していたのでしょう。
ちなみに、私が生まれた1948年は、戊子(ぼし・つちのえね)=25番目。
大変おめでたい年とされるのは、1番目の甲子(こうし・かっし・きのえね)。1924年・1984年などが「甲子」の年。
甲子園球場のある地域に、「大運動場」なるものが開設された年が1924年。「甲子」の年である。その大運動場を含んだ公園周辺には名前がなかったので、めでたい年に誕生した公園=「甲子園」と名づけたそうである。「甲子園球場」の誕生である。
甲子とは、たいへんめでたい名前なんですね。60進法の1なんですから。阪神ファンの皆様、ご存知でしたか? 私は知りませんでした。今回、干支について、調べてみてわかったことです。
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2010/10/31
「鬼井江の世界」 評論・随筆その他
大阪の文化について
大阪周辺だけが全国とは違うことがたくさんある。その例の一つ。エスカレーターに乗るときの立ち位置について、今日は考えてみたい。
東京を中心に、全国的には左側に立ち、右側を空ける。急ぐ人は右側をどんどん上っていくことができる。岡山でも金沢でもそうであった。全国的には左立ち右空けである。
しかし、大阪は違う。右立ち左空けなのだ。右手で手すりを持つことができる立ち位置。たぶん、京都や神戸も大阪の影響で、大阪と同じように立っている。関西周辺はほとんど大阪と同じ位置に立っているはずである。
意識してこなかったが、大阪から離れたどの都市から東京方式(全国的立ち位置)になるのだろうか? またまた好奇心が沸いてきた。(ちなみに、今年旅行した岡山市や金沢市では東京方式であったが、滋賀県や福井県は? 兵庫県の姫路あたりは? と疑問に。ご存知の方、教えてくださいよ。)
ところで、右側に立つのはどういう理由があるのだろうか? 同じような疑問であるが、東京の人が左側に立つ理由は?
全国的に左側に立つのは、東京文化の影響からであろう。地方のいろんな文化は、東京文化の影響が大きい。(大阪・京都は影響されにくい。昔から。大阪弁などは東京でも流行りだしたりしているぐらいである。言語で「東京に影響を与える」のは、大阪弁ぐらいだろう。その他の方言は、その方言を東京生活で隠そうとするらしい。)
江戸時代以降は江戸(東京)文化が全国にいきわたり始めた。明治になり、その影響はスピードを上げた。テレビ時代に入り、東京文化は一気に加速。
それに対して、大阪・京都は「東京とは違う文化」を(現在に至っても)守ってきているし、新しく生み出してもいる。食文化の違いも多い。(今日は触れないが。)
エスカレーターの歴史は浅い。大阪も東京と同じでもよさそうなのだが、違う。逆なのだ。
私は、大阪の立ち位置の方が自然だと思う。世の人、一般的に右利きの人が多い。不安定(私はエスカレーターに初めて乗るとき、不安な気持ちがした。誰でも初めてのときはそう感じただろう。経験してこそ不安はなくなるが・・・)な時には、右手で手すりなどをつかもうとする。その動作こそ自然である。
慣習や決まりが特になければ、人間は「自然と右側に立つ」ように思う。
地球規模で調べてみると、やはり、大阪方式(右側に立つ)とのことである。ヨーロッパやアメリカでも大阪方式なのである。大阪で万国博が開催されていたとき、世界中の人々はエスカレーターに乗ったときに違和感を感じなかったとのことである。なぜなら、万博のエスカレーターは大阪方式(世界共通)であったから。
どうして東京方式が世界共通とは違っているのであろうか?
左側に立って右側を急ぐ人のために空けておく理由は、交通ルールから来ているのかもしれない。私のまったくの推論にすぎないが・・・。それぐらいしか思いつかない。
車を運転するとき、左側通行の国(世界的には少ない)では、追い越すときは右側車線を使って追い越す。キープレフトで、左側はマイペースで走っていても安全。追い越す場合は右側車線を利用しなければ危険である。(一車線しかない道路では、右側から追い越す。)そのように免許取得のときに指導される。
これをエスカレーターに当てはめてみると、左側に立ち右側を急ぐ人のために空ける方式に、理由がつくことになる。東京方式の理由である。右側通行の国であったなら、大阪方式に当然なる理由・根拠である。確認だが、日本は少数派の「左側通行の国」である。
他に、何か理由があるのだろうか。
大阪が右側に立つようになったことには、いろいろ説があるようである。阪急電車梅田駅でエスカレーターが導入されたときに、「右側に立つように」というアナウンスが流れ、それがきっかけで、どこの私鉄も「阪急」と同じようにアナウンスしたとか・・・。(ちなみに、大阪以外の方には分かりにくいでしょうが、大阪における「阪急電車」は他の私鉄への影響力があるのですよ。関西では、阪急沿線沿いに住むことを希望する人が多いのは事実。「超お金持ち」のほとんどは阪急沿線沿いに住んでいます。)
いろんな説はあるでしょうが、(慣習や決まりや「アナウンス」もない段階で)「自然に立つ」とすれば、エスカレーターの右側に立つのではないでしょうか。
以上が、立ち位置に関する私の考えです。
東京方式は、あっという間に全国に広まったことでしょう。
しかし、東京文化に影響されにくい地域はあるのです。大阪方式で立っている都市が、「関西圏」(大阪文化圏)とみなしていいのかもしれませんね。
エスカレーターという身近なものを通して、文化の違いを考えるきっかけになりました。食文化の違いについては、別の機会に書いてみたいと思います。うどんは「やっぱり大阪!」。東京のうどんは「醤油辛い!」なんて、けんか売って書くことでしょうが・・・(笑)
旅に出たときには、その都市のエスカレーターに乗ってみて「実地見聞」してみたくなりました。旅行の楽しみも増えましたよ(笑)。
大阪周辺だけが全国とは違うことがたくさんある。その例の一つ。エスカレーターに乗るときの立ち位置について、今日は考えてみたい。
東京を中心に、全国的には左側に立ち、右側を空ける。急ぐ人は右側をどんどん上っていくことができる。岡山でも金沢でもそうであった。全国的には左立ち右空けである。
しかし、大阪は違う。右立ち左空けなのだ。右手で手すりを持つことができる立ち位置。たぶん、京都や神戸も大阪の影響で、大阪と同じように立っている。関西周辺はほとんど大阪と同じ位置に立っているはずである。
意識してこなかったが、大阪から離れたどの都市から東京方式(全国的立ち位置)になるのだろうか? またまた好奇心が沸いてきた。(ちなみに、今年旅行した岡山市や金沢市では東京方式であったが、滋賀県や福井県は? 兵庫県の姫路あたりは? と疑問に。ご存知の方、教えてくださいよ。)
ところで、右側に立つのはどういう理由があるのだろうか? 同じような疑問であるが、東京の人が左側に立つ理由は?
全国的に左側に立つのは、東京文化の影響からであろう。地方のいろんな文化は、東京文化の影響が大きい。(大阪・京都は影響されにくい。昔から。大阪弁などは東京でも流行りだしたりしているぐらいである。言語で「東京に影響を与える」のは、大阪弁ぐらいだろう。その他の方言は、その方言を東京生活で隠そうとするらしい。)
江戸時代以降は江戸(東京)文化が全国にいきわたり始めた。明治になり、その影響はスピードを上げた。テレビ時代に入り、東京文化は一気に加速。
それに対して、大阪・京都は「東京とは違う文化」を(現在に至っても)守ってきているし、新しく生み出してもいる。食文化の違いも多い。(今日は触れないが。)
エスカレーターの歴史は浅い。大阪も東京と同じでもよさそうなのだが、違う。逆なのだ。
私は、大阪の立ち位置の方が自然だと思う。世の人、一般的に右利きの人が多い。不安定(私はエスカレーターに初めて乗るとき、不安な気持ちがした。誰でも初めてのときはそう感じただろう。経験してこそ不安はなくなるが・・・)な時には、右手で手すりなどをつかもうとする。その動作こそ自然である。
慣習や決まりが特になければ、人間は「自然と右側に立つ」ように思う。
地球規模で調べてみると、やはり、大阪方式(右側に立つ)とのことである。ヨーロッパやアメリカでも大阪方式なのである。大阪で万国博が開催されていたとき、世界中の人々はエスカレーターに乗ったときに違和感を感じなかったとのことである。なぜなら、万博のエスカレーターは大阪方式(世界共通)であったから。
どうして東京方式が世界共通とは違っているのであろうか?
左側に立って右側を急ぐ人のために空けておく理由は、交通ルールから来ているのかもしれない。私のまったくの推論にすぎないが・・・。それぐらいしか思いつかない。
車を運転するとき、左側通行の国(世界的には少ない)では、追い越すときは右側車線を使って追い越す。キープレフトで、左側はマイペースで走っていても安全。追い越す場合は右側車線を利用しなければ危険である。(一車線しかない道路では、右側から追い越す。)そのように免許取得のときに指導される。
これをエスカレーターに当てはめてみると、左側に立ち右側を急ぐ人のために空ける方式に、理由がつくことになる。東京方式の理由である。右側通行の国であったなら、大阪方式に当然なる理由・根拠である。確認だが、日本は少数派の「左側通行の国」である。
他に、何か理由があるのだろうか。
大阪が右側に立つようになったことには、いろいろ説があるようである。阪急電車梅田駅でエスカレーターが導入されたときに、「右側に立つように」というアナウンスが流れ、それがきっかけで、どこの私鉄も「阪急」と同じようにアナウンスしたとか・・・。(ちなみに、大阪以外の方には分かりにくいでしょうが、大阪における「阪急電車」は他の私鉄への影響力があるのですよ。関西では、阪急沿線沿いに住むことを希望する人が多いのは事実。「超お金持ち」のほとんどは阪急沿線沿いに住んでいます。)
いろんな説はあるでしょうが、(慣習や決まりや「アナウンス」もない段階で)「自然に立つ」とすれば、エスカレーターの右側に立つのではないでしょうか。
以上が、立ち位置に関する私の考えです。
東京方式は、あっという間に全国に広まったことでしょう。
しかし、東京文化に影響されにくい地域はあるのです。大阪方式で立っている都市が、「関西圏」(大阪文化圏)とみなしていいのかもしれませんね。
エスカレーターという身近なものを通して、文化の違いを考えるきっかけになりました。食文化の違いについては、別の機会に書いてみたいと思います。うどんは「やっぱり大阪!」。東京のうどんは「醤油辛い!」なんて、けんか売って書くことでしょうが・・・(笑)
旅に出たときには、その都市のエスカレーターに乗ってみて「実地見聞」してみたくなりました。旅行の楽しみも増えましたよ(笑)。
2010/10/29
「鬼井江の世界」 評論・随筆その他
人間関係の悩みについて
バブルが崩壊して、約10年が経過した頃(1998年前後)から世の中は変わり始めた。その象徴は自殺者数の激増。バブルがはじけて、すぐには激増していない。1998年ごろまでは約2万人状態が続いていたが、それ以後から現在に至るまで、3万人以上の状態になっている。経済状態が影響しているが、それ以上に、「価値観・考え方の変化」が影響しているのではないだろうか? 教師の世界も「変わった」。平成の時代になり、就職(=念願の新任教師に)しても、すぐに辞める人が増えだしたのだ。すごい倍率を勝ち抜いたにもかかわらず・・・。その傾向は、今も変わらないようである。教師の世界は「超ストレス社会の一つ」になっていったからである。若い人が「教師になってから」強く感じるのが、ストレス。現代は「クレーマー」なる保護者が学校に圧力をかける時代である。「先生」は尊敬の対象ではなくなった。そのことに新任の先生方が気づき、もがき始めている時代である。学校は変わってしまった。保護者の一部が、どこの学校にもクレーマーとして存在している。特に担任教師は強いストレスを受ける時代になった。すぐに辞めていく新任の先生の原因は「保護者との人間関係」「生徒たちとの人間関係」にある。
今の若い先生は「辛抱が足りない」と簡単に結論を出す人もいるが、私はそうは思わない。時代が変わってきたのだ。そのことを踏まえて「教師」という仕事をやっていくほうがいいだろう。
世の中は大きく変化したように感じている。
21世紀に入った途端、「9・11」事件が発生。あの事件はアメリカだけが影響をうけたのではない。全世界に衝撃を与えた。バブル崩壊および「9・11」事件後、世の中は大きく変わった。
「早期退職勧告」「就職難(正社員の激減)」「就職しても長くは勤めようとはしない人々」「ひきこもり者多数」「年金生活者の激増(団塊の世代がどんどん退職中)」「執拗につづけるいじめ」「麻薬使用の低年齢化」「うつ病の増加」などなど。変化していっている状況はいろいろある。しかし、自殺が3万人を下らなくなって10年以上経過している点が、やはり気になる。超ストレス社会になってしまったのだろう。ストレスはいつの時代にもあった。しかし、現代のストレス社会は「超」をつけたくなる。
子どもも大人もみんなイライラしながら不安定に生きている。小学生の自殺も多くなった。(昔は聞いたことはなかった。)中学生の自殺もほとんどなかった。現在は、中学生が自殺したからといって、大きくはとりあげられなくなった。減ってきたからではない。「ニュース」にならなくなってきたのだ。悲しいことである。全国で、毎日約100人が自殺をしている国になってしまったのだ。交通事故死者数はずっと以前に年間1万人を切った。自殺者は減っていない。横ばいのままである。ひょっとしたら、まだまだ増えていくのかもしれない・・・。悲しすぎる状況である。
こんな悲しい時代から、もうすこし「ましな時代」に変えていきたい、と思っている。
定年退職した身ではあるが、それなりにできることはやってみたいと思っている。
これからも「超ストレス時代」は延々と続くような気がする。しかし・・・。
「人間関係の悩み」「病気の悩み」「お金の悩み」、これら3つの悩みが全部重ならないように(努力できることは努力して)生きていくことが大切であろう。
ところで、定年退職したら、したで、退職後の「人間関係」がたいへんである。どうして? 退職した人の多くが経験することであるが、実は「夫婦の関係」がたいへんなのである。特に女の人のストレスはたいへんらしい。毎日主人が家にいるようになると、「主人が家にいるという存在そのもの」が、「ストレス」になっていくという話はよく聞く。そのストレスは事実であろう。熟年離婚にまで至ってしまうケースがあるからだ。定年退職後の離婚問題は多いようである。仕事で会社などに出て「昼は家にいなかった人」が、ある日を境に「昼、毎日のように家にいる人」になるのだから、女の人にとっては「超ストレス」になっていくようである。
この問題は、私の場合にも当てはまる状況である。そこで、退職後は対策を練って生活してきている(つもりだが、さて・・・?)。
私の対策は「できるだけ家にいないこと」を実行している。畑に行ったり、図書館へ行ったり、本屋へ行ったり、散歩に出かけたり、商店街へ出かけたり、大阪の地下街へ出かけたり、一筆書き乗車をしたり、友人に会ったり・・・と、いろいろ変化をつけながら実行している。お金をできるだけかけずに、楽しみながら外出している。退職後暇な人もいるようだが、私は結構忙しい日々を送っている。(ブログを書くのも時間がかかる。書くことは苦痛ではない。むしろ生き生きとしながら書いている。)
一番多い行き先は、もちろん、畑。
私の場合、「畑」は夫婦関係を円滑にしてくれているのかもしれない。
畑とブログに感謝。
バブルが崩壊して、約10年が経過した頃(1998年前後)から世の中は変わり始めた。その象徴は自殺者数の激増。バブルがはじけて、すぐには激増していない。1998年ごろまでは約2万人状態が続いていたが、それ以後から現在に至るまで、3万人以上の状態になっている。経済状態が影響しているが、それ以上に、「価値観・考え方の変化」が影響しているのではないだろうか? 教師の世界も「変わった」。平成の時代になり、就職(=念願の新任教師に)しても、すぐに辞める人が増えだしたのだ。すごい倍率を勝ち抜いたにもかかわらず・・・。その傾向は、今も変わらないようである。教師の世界は「超ストレス社会の一つ」になっていったからである。若い人が「教師になってから」強く感じるのが、ストレス。現代は「クレーマー」なる保護者が学校に圧力をかける時代である。「先生」は尊敬の対象ではなくなった。そのことに新任の先生方が気づき、もがき始めている時代である。学校は変わってしまった。保護者の一部が、どこの学校にもクレーマーとして存在している。特に担任教師は強いストレスを受ける時代になった。すぐに辞めていく新任の先生の原因は「保護者との人間関係」「生徒たちとの人間関係」にある。
今の若い先生は「辛抱が足りない」と簡単に結論を出す人もいるが、私はそうは思わない。時代が変わってきたのだ。そのことを踏まえて「教師」という仕事をやっていくほうがいいだろう。
世の中は大きく変化したように感じている。
21世紀に入った途端、「9・11」事件が発生。あの事件はアメリカだけが影響をうけたのではない。全世界に衝撃を与えた。バブル崩壊および「9・11」事件後、世の中は大きく変わった。
「早期退職勧告」「就職難(正社員の激減)」「就職しても長くは勤めようとはしない人々」「ひきこもり者多数」「年金生活者の激増(団塊の世代がどんどん退職中)」「執拗につづけるいじめ」「麻薬使用の低年齢化」「うつ病の増加」などなど。変化していっている状況はいろいろある。しかし、自殺が3万人を下らなくなって10年以上経過している点が、やはり気になる。超ストレス社会になってしまったのだろう。ストレスはいつの時代にもあった。しかし、現代のストレス社会は「超」をつけたくなる。
子どもも大人もみんなイライラしながら不安定に生きている。小学生の自殺も多くなった。(昔は聞いたことはなかった。)中学生の自殺もほとんどなかった。現在は、中学生が自殺したからといって、大きくはとりあげられなくなった。減ってきたからではない。「ニュース」にならなくなってきたのだ。悲しいことである。全国で、毎日約100人が自殺をしている国になってしまったのだ。交通事故死者数はずっと以前に年間1万人を切った。自殺者は減っていない。横ばいのままである。ひょっとしたら、まだまだ増えていくのかもしれない・・・。悲しすぎる状況である。
こんな悲しい時代から、もうすこし「ましな時代」に変えていきたい、と思っている。
定年退職した身ではあるが、それなりにできることはやってみたいと思っている。
これからも「超ストレス時代」は延々と続くような気がする。しかし・・・。
「人間関係の悩み」「病気の悩み」「お金の悩み」、これら3つの悩みが全部重ならないように(努力できることは努力して)生きていくことが大切であろう。
ところで、定年退職したら、したで、退職後の「人間関係」がたいへんである。どうして? 退職した人の多くが経験することであるが、実は「夫婦の関係」がたいへんなのである。特に女の人のストレスはたいへんらしい。毎日主人が家にいるようになると、「主人が家にいるという存在そのもの」が、「ストレス」になっていくという話はよく聞く。そのストレスは事実であろう。熟年離婚にまで至ってしまうケースがあるからだ。定年退職後の離婚問題は多いようである。仕事で会社などに出て「昼は家にいなかった人」が、ある日を境に「昼、毎日のように家にいる人」になるのだから、女の人にとっては「超ストレス」になっていくようである。
この問題は、私の場合にも当てはまる状況である。そこで、退職後は対策を練って生活してきている(つもりだが、さて・・・?)。
私の対策は「できるだけ家にいないこと」を実行している。畑に行ったり、図書館へ行ったり、本屋へ行ったり、散歩に出かけたり、商店街へ出かけたり、大阪の地下街へ出かけたり、一筆書き乗車をしたり、友人に会ったり・・・と、いろいろ変化をつけながら実行している。お金をできるだけかけずに、楽しみながら外出している。退職後暇な人もいるようだが、私は結構忙しい日々を送っている。(ブログを書くのも時間がかかる。書くことは苦痛ではない。むしろ生き生きとしながら書いている。)
一番多い行き先は、もちろん、畑。
私の場合、「畑」は夫婦関係を円滑にしてくれているのかもしれない。
畑とブログに感謝。
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2010/10/27
「鬼井江の世界」 評論・随筆その他
人間の悩みは、次の三つのどれかにかかわることがほとんどである。「人間関係」「病気」「お金」である。私の最終勤務校S学園の教育目標(徳・健・財)に関係すると考えられる。「徳健財」という言葉を、勤務した16年間ずっと聞かされてきたし、意識してきた。退職後は、この言葉が好きで、折に触れて使うようになった。(たとえば、結婚式でのあいさつで使ったりしてきた。)
教育目標の言葉のなかに「財」を入れている学校は珍しい。そこが気に入っている。創立者(故人)は、生徒たちや全職員に向かって、「財」にかかわる話を熱っぽく語っていたものである。その姿を思い出すことがある。
現校長も「財」について生徒たちに少しは語っていたが、「徳」や「健」にかかわる話がほとんどであった。(退職して2年半が過ぎたので、現在はわからないが。)
大人になってから「お金」で悩むことは多いものである。高齢化していくと「病気」で悩むことが多くなる。若くても、「心の病気」で悩む人も多くなった。心の病気は、「人間関係」が原因になっていることが多い。
人間は、「人間関係」で悩むことが多いものである。教師をしていると、「生徒との関係」「保護者との関係」「教師と教師との関係」などで悩む。さらに一般的な「家族との関係」「近所の人との関係」「友人関係」などでも悩む。あらゆる「人間関係」がストレスをもたらしている。「健→病気」や「財→お金」の問題以上に、乗り越えることが難しいことがある。三つの悩みを単純には比較できないが・・・。お金や病気で苦しんでの自殺者も多いから。
最悪な場合がある。この三つの悩みが重なっていく場合である。病気(肉体または心、その両方の場合もある)が治らず、希望がもてなくなっていく。失業したり、就職活動がうまく行かず貯金もなくなり、借金もできない状況に追い込まれ、窮地に陥っていく。お金がからんで苦しんでいる人は多いものである。さらに、人間関係に悩み苦しみ、「出口なし」の状況に陥っていく。解決の兆しが出てくるまで、地獄のような苦しみに陥ることがある。これが人間である。
人間関係での悩みを抱えていない人は皆無であろう。その程度の違いがあるだけである。
とにかく三つの悩みが重なっていく事態が最悪である。
幸い、私の人生は二つの重なりの状況は何度も経験してきたが、3つが重なる状況には至っていない。そういう状況にならないように、気をつけて生活してきたつもりである。用心して生活していくことはたいへん大切であると思っている。いつ3つが重なる状況に陥っていくかは誰にもわからないから。
「お金」=「財」に関しての基本は、「予算生活」である。収入の範囲内で支出して生活していくことである。これは簡単なようだが、この基本が守れていない人が世の中には多い。消費者ローン利用生活にどっぷりと浸かったままの人もいる。一番の高金利を払っている人々である。金持ちは絶対に消費者ローンを利用しない。むしろ消費者ローン会社に金を貸して儲けている金持ちもいる。「貧乏人」からさらに金を吸い上げる仕組みになっている。消費者ローン会社も最近はどこもたいへんだ。最近、法律が変わって「貸してもいい額(年収の三分の一以内かな?)が決められた」からである。新しい法律ができたために、倒産するローン会社が続出している。それにしても、借りた金を生活費に当てるのなら、仕方がない状況かもしれないが、そうではなくて借りている人が多いらしい。遊ぶため、見栄のためにローンを利用するらしい。そして、予算生活が崩れていく・・・。あっ、と気が付いたときには「返せない額」になっていた。よく聞く話である。こういうことにならないように気をつけなければならない。
予算生活を守ることの大切さを教育している学校は少ない。そういうことは学校教育でしなくてもいいからである。大人になったら一番大切なことかもしれないのに・・・。「財」に関する教科書はない。教育しなくてもいいのだ。個人の予算生活と国家予算との関係・普通預金や定期預金などの知識および銀行の仕組み・株式会社に関する知識・株を購入するってどういうこと?などなど・・・。「財」に関する教育は必要である。
ほんの一部の学校で始まっているようだが、全国的にはほとんど行われていない。入試問題に出る分野(「経済」など)の教育は行われているが、入試問題と関係のない内容(詐欺問題など)は行われていない。「詐欺にあわないために気をつけることは?」なんて問題を「東大入試」で出したら、(東大問題は他の大学に)影響力があるので、「財」に関する教育が全国にいきわたるようになるだろう。振込み詐欺にあう大人もどんどん減っていくだろう。現在、詐欺師にとって、「財」に関する教育を受けていない国民をだますことは簡単だろう。詐欺師グループが横行しやすい状況にある。被害にあった老人などの名簿があって、その名簿に載っている人が繰り返し狙われるようである。一度載せられると「闇の名簿」だから、消されることはない。お互い、「闇の名簿」に載せられないように気をつけましょう。一度でも詐欺被害者にならないようにすることです。今のところ、私の名前は載っていないはずである。
これは冗談ではない、「一度でも詐欺被害にあわない」ように気をつけましょう。自戒。認知症の方が身近におられる場合は、特に気をつけてあげて下さい。
人生において、お金に関する悩みは大きいのに、その教育が皆無に等しい状態であることを指摘しておきたい。
S学園の皆さんに、「財」に関する教育を今後とも実践していっていただきたいと期待しております。
(後日、つづきを書く予定)
教育目標の言葉のなかに「財」を入れている学校は珍しい。そこが気に入っている。創立者(故人)は、生徒たちや全職員に向かって、「財」にかかわる話を熱っぽく語っていたものである。その姿を思い出すことがある。
現校長も「財」について生徒たちに少しは語っていたが、「徳」や「健」にかかわる話がほとんどであった。(退職して2年半が過ぎたので、現在はわからないが。)
大人になってから「お金」で悩むことは多いものである。高齢化していくと「病気」で悩むことが多くなる。若くても、「心の病気」で悩む人も多くなった。心の病気は、「人間関係」が原因になっていることが多い。
人間は、「人間関係」で悩むことが多いものである。教師をしていると、「生徒との関係」「保護者との関係」「教師と教師との関係」などで悩む。さらに一般的な「家族との関係」「近所の人との関係」「友人関係」などでも悩む。あらゆる「人間関係」がストレスをもたらしている。「健→病気」や「財→お金」の問題以上に、乗り越えることが難しいことがある。三つの悩みを単純には比較できないが・・・。お金や病気で苦しんでの自殺者も多いから。
最悪な場合がある。この三つの悩みが重なっていく場合である。病気(肉体または心、その両方の場合もある)が治らず、希望がもてなくなっていく。失業したり、就職活動がうまく行かず貯金もなくなり、借金もできない状況に追い込まれ、窮地に陥っていく。お金がからんで苦しんでいる人は多いものである。さらに、人間関係に悩み苦しみ、「出口なし」の状況に陥っていく。解決の兆しが出てくるまで、地獄のような苦しみに陥ることがある。これが人間である。
人間関係での悩みを抱えていない人は皆無であろう。その程度の違いがあるだけである。
とにかく三つの悩みが重なっていく事態が最悪である。
幸い、私の人生は二つの重なりの状況は何度も経験してきたが、3つが重なる状況には至っていない。そういう状況にならないように、気をつけて生活してきたつもりである。用心して生活していくことはたいへん大切であると思っている。いつ3つが重なる状況に陥っていくかは誰にもわからないから。
「お金」=「財」に関しての基本は、「予算生活」である。収入の範囲内で支出して生活していくことである。これは簡単なようだが、この基本が守れていない人が世の中には多い。消費者ローン利用生活にどっぷりと浸かったままの人もいる。一番の高金利を払っている人々である。金持ちは絶対に消費者ローンを利用しない。むしろ消費者ローン会社に金を貸して儲けている金持ちもいる。「貧乏人」からさらに金を吸い上げる仕組みになっている。消費者ローン会社も最近はどこもたいへんだ。最近、法律が変わって「貸してもいい額(年収の三分の一以内かな?)が決められた」からである。新しい法律ができたために、倒産するローン会社が続出している。それにしても、借りた金を生活費に当てるのなら、仕方がない状況かもしれないが、そうではなくて借りている人が多いらしい。遊ぶため、見栄のためにローンを利用するらしい。そして、予算生活が崩れていく・・・。あっ、と気が付いたときには「返せない額」になっていた。よく聞く話である。こういうことにならないように気をつけなければならない。
予算生活を守ることの大切さを教育している学校は少ない。そういうことは学校教育でしなくてもいいからである。大人になったら一番大切なことかもしれないのに・・・。「財」に関する教科書はない。教育しなくてもいいのだ。個人の予算生活と国家予算との関係・普通預金や定期預金などの知識および銀行の仕組み・株式会社に関する知識・株を購入するってどういうこと?などなど・・・。「財」に関する教育は必要である。
ほんの一部の学校で始まっているようだが、全国的にはほとんど行われていない。入試問題に出る分野(「経済」など)の教育は行われているが、入試問題と関係のない内容(詐欺問題など)は行われていない。「詐欺にあわないために気をつけることは?」なんて問題を「東大入試」で出したら、(東大問題は他の大学に)影響力があるので、「財」に関する教育が全国にいきわたるようになるだろう。振込み詐欺にあう大人もどんどん減っていくだろう。現在、詐欺師にとって、「財」に関する教育を受けていない国民をだますことは簡単だろう。詐欺師グループが横行しやすい状況にある。被害にあった老人などの名簿があって、その名簿に載っている人が繰り返し狙われるようである。一度載せられると「闇の名簿」だから、消されることはない。お互い、「闇の名簿」に載せられないように気をつけましょう。一度でも詐欺被害者にならないようにすることです。今のところ、私の名前は載っていないはずである。
これは冗談ではない、「一度でも詐欺被害にあわない」ように気をつけましょう。自戒。認知症の方が身近におられる場合は、特に気をつけてあげて下さい。
人生において、お金に関する悩みは大きいのに、その教育が皆無に等しい状態であることを指摘しておきたい。
S学園の皆さんに、「財」に関する教育を今後とも実践していっていただきたいと期待しております。
(後日、つづきを書く予定)
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2010/10/14
「鬼井江の世界」 評論・随筆その他
本日は、いつもの畑報告ではなくて、友人の I さんらが平成16年に発行した合同句集『間寓集』についての感想などを書きたいと思います。著者などの了解を得ていないので、名前は I さんとだけ紹介しておきます。 I さんとは大学が同じで、卒業後も交流のある方です。句集は先日郵送してくださいました。「最近の本かな?」と一瞬思ったのですが、平成16年発行の本でした。17人合同の「句集」です。その中の一人が I さんです。 I さんの句の中から、私が好きになった句を紹介したいと思います。
病みし母口少なくて夏大根
思案事ザクリと大根切り下ろす
どちらの作品も「大根」は「だいこ」と読むのだと思います。
「病みし母・・・」の作品は、病気の母を看病する中でのひとこまを句にしたものだと考えられます。母の病状がよくなくて、口数も食欲もなくなってきている状況。看護する者にとってはつらいものである。そんな状況の食事時に、口にした「夏大根」。夏大根は冬大根とは違って、辛い。この辛さがこの句を「ピリッ」とさせている。単調な病気生活が続く中での刺激は、病人の心を元気づけたにちがいない。いい句ですね。
「思案事・・・」の解釈は、あれこれ想像しなくても、誰にでもある思いを代弁してくれている句である。思い悩むことが多い現代人。大根(この野菜がぴったりきますね。キャベツでも白菜でもこの句にはあわないですね。)を切るとスカッとする。思案事(大根)を包丁で「ザクリと」切る(=あれこれ悩んだ末に結論を出し、さっぱりとする)思いを句にしたのであろう。
畑作業を楽しんでいる鬼井江ゆえに、好きになった句かもしれません。
病みし母口少なくて夏大根
思案事ザクリと大根切り下ろす
どちらの作品も「大根」は「だいこ」と読むのだと思います。
「病みし母・・・」の作品は、病気の母を看病する中でのひとこまを句にしたものだと考えられます。母の病状がよくなくて、口数も食欲もなくなってきている状況。看護する者にとってはつらいものである。そんな状況の食事時に、口にした「夏大根」。夏大根は冬大根とは違って、辛い。この辛さがこの句を「ピリッ」とさせている。単調な病気生活が続く中での刺激は、病人の心を元気づけたにちがいない。いい句ですね。
「思案事・・・」の解釈は、あれこれ想像しなくても、誰にでもある思いを代弁してくれている句である。思い悩むことが多い現代人。大根(この野菜がぴったりきますね。キャベツでも白菜でもこの句にはあわないですね。)を切るとスカッとする。思案事(大根)を包丁で「ザクリと」切る(=あれこれ悩んだ末に結論を出し、さっぱりとする)思いを句にしたのであろう。
畑作業を楽しんでいる鬼井江ゆえに、好きになった句かもしれません。
2010/10/4
「鬼井江の世界」 評論・随筆その他
瀬戸内海の潮流について
瀬戸内海は「川」のような内海である。一般に、川には流れがある。ただ「瀬戸内海」の潮の流れはたいへん複雑。昔から座礁事故の多いところである。現在でも、大型の船が海外などから瀬戸内海に入る直前には水先案内人(パイロット)が乗り込んでいるはずである。水先案内人なしでは、(いくら優秀な船長でも)「瀬戸内海の航行」で事故を起こしてしまうことであろう。船の数は多いし、海底の状況は非常に複雑だし、そのうえ、一番難しいことは「潮の流れ」を把握することであろう。季節や時間によっても変化するのが潮の流れである。鳴門海峡や明石海峡・来島海峡など、潮の流れが「川」以上である海域もある。鳴門海峡などでは、「渦」を生じさせるのだから、とにかく潮の流れはすごい。鳴門の渦潮ほど有名でなくても、あちらこちらの海域で渦潮が生じているのが「瀬戸内海」である。とにかく「瀬」だらけの海なのである。
詫間の海で泳いだことがあるので、潮の流れを実感したことを思い出す。潮の流れに乗って泳ぐと1キロぐらいは簡単に泳げた。頭の上にアンパンをのせて、頭部を出したままで平泳ぎ。腹が減ってきたら、アンパンをぱくり。高校時代の思い出である。詫間の海の流れも「川の流れ」そのものであった。潮の流れに逆らって泳ぐと、ほとんど進まない。潮の速い海で泳いだことのある人ならば、経験していることであろう。泳がなくても、浮いていれば流れていく・・・。その潮の流れが一定ではないことが、瀬戸内海の恐ろしさでもある。
塩飽諸島周辺(瀬戸内海中心部)で大きく左流れと右流れに変化しているそうである。昔は
「潮待ち」で、あちらこちらの港(津)に停泊していた。船に乗っている人々は、「潮」の流れがよくなるまで待たねばならなかった。瀬戸内海の潮待ちの港はどこも栄えていたのだ。万葉集の歌にも、「しほもかなひぬ・・・」などという表現が出ている。エンジンの船の時代になるまでは「潮待ちをする時代」が長かったのである。江戸時代の北前舟なども、当然、ちょうどいい潮を待って航行していたにちがいない。ちなみに、水軍(海賊)は、その道(潮の流れをつかむ)のプロフェッショナル集団であった。
瀬戸内海は「川」のような内海である。一般に、川には流れがある。ただ「瀬戸内海」の潮の流れはたいへん複雑。昔から座礁事故の多いところである。現在でも、大型の船が海外などから瀬戸内海に入る直前には水先案内人(パイロット)が乗り込んでいるはずである。水先案内人なしでは、(いくら優秀な船長でも)「瀬戸内海の航行」で事故を起こしてしまうことであろう。船の数は多いし、海底の状況は非常に複雑だし、そのうえ、一番難しいことは「潮の流れ」を把握することであろう。季節や時間によっても変化するのが潮の流れである。鳴門海峡や明石海峡・来島海峡など、潮の流れが「川」以上である海域もある。鳴門海峡などでは、「渦」を生じさせるのだから、とにかく潮の流れはすごい。鳴門の渦潮ほど有名でなくても、あちらこちらの海域で渦潮が生じているのが「瀬戸内海」である。とにかく「瀬」だらけの海なのである。
詫間の海で泳いだことがあるので、潮の流れを実感したことを思い出す。潮の流れに乗って泳ぐと1キロぐらいは簡単に泳げた。頭の上にアンパンをのせて、頭部を出したままで平泳ぎ。腹が減ってきたら、アンパンをぱくり。高校時代の思い出である。詫間の海の流れも「川の流れ」そのものであった。潮の流れに逆らって泳ぐと、ほとんど進まない。潮の速い海で泳いだことのある人ならば、経験していることであろう。泳がなくても、浮いていれば流れていく・・・。その潮の流れが一定ではないことが、瀬戸内海の恐ろしさでもある。
塩飽諸島周辺(瀬戸内海中心部)で大きく左流れと右流れに変化しているそうである。昔は
「潮待ち」で、あちらこちらの港(津)に停泊していた。船に乗っている人々は、「潮」の流れがよくなるまで待たねばならなかった。瀬戸内海の潮待ちの港はどこも栄えていたのだ。万葉集の歌にも、「しほもかなひぬ・・・」などという表現が出ている。エンジンの船の時代になるまでは「潮待ちをする時代」が長かったのである。江戸時代の北前舟なども、当然、ちょうどいい潮を待って航行していたにちがいない。ちなみに、水軍(海賊)は、その道(潮の流れをつかむ)のプロフェッショナル集団であった。
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2010/10/3
「鬼井江の世界」 評論・随筆その他
ブログ「鬼井江の世界」(2010年9月までのもの)より再掲
空海(弘法大師)誕生の地、香川県善通寺市に近いところに「詫間」というところがある。私はそこで高校時代を過ごした。「国立詫間電波高等学校」という学校である。現在は高専になり、香川高専(詫間キャンパス)という名前になっている。現在5年制の学校であるが、私が過ごした時代は3年制の「高等学校」であった。近くの市としては、西方に観音寺市、東方に丸亀市がある。駅としては、予讃線の「詫間駅」が一番近い。詫間駅からバスに乗って(瀬戸内海に面している)学校へ行くことができる。
私は大阪府堺市から「国立詫間電波高等学校」へ行ったわけである。その年、大阪から入学したのは私一人だけであった。入学試験レベルは、当時としては、それなりに難しかった。合格したときはうれしかった。第一希望の学校だったからである。大阪から遠かったが、国立であり、授業料は安かった。(当時の額であるが、一ヶ月400円(ひょっとしたら800円だったかも?)だったように思う。むちゃくちゃ安かったので、親に負担をかけなかったように思う。ちなみに、当時の私立大学の授業料は一ヶ月10000円ほどの時代であった。
ところで、「この詫間というところは、どういうところだったのであろう?」と、最近になり好奇心が沸いてきた。詫間時代(高校3年間を過ごした時代、16歳から18歳までの3年間。1年間は寮生活で2年間は下宿生活をした。)から、すでに44年が過ぎているのに・・・。60歳以上になると、かえって昔を振り返るようになるのかもしれない。
折に触れて、このブログで、高校時代のことを書いてきたが、地理的な場所(歴史や近くの島なども)に触れたことはない。地図をしげしげ眺めたこともない。(詫間を中心にして地図を見ることをしたことがなかった。)今回、意識してやってみた。そうすると・・・、意識していなかった島々が見えてきたのだ。
詫間周辺の海は瀬戸内海のほぼ中心部になるのだ。すぐ近くの島は「粟島」。この島には当時「国立海員学校」があった。この島の形は、船のスクリューの形である。現在、その学校は廃校になっているが、当時は船乗り養成の学校として栄えていたのである。北方の近くの島としては、真鍋島(岡山県)がある。今年の春に行ってきた島なのだ。詫間がこんなに近いとは・・・。詫間は香川県。真鍋島は岡山県。県境が海にある場合、県境意識は持ちにくいものである。詫間と真鍋島がこんなに近かったとは!! 驚きであった。真鍋島が有名になったのは「瀬戸内少年野球団」という映画のロケ地になってからである。ロケ地になったのは、真鍋島の木造校舎が話にぴったりだったからであろう。私は今春、その木造校舎を見学してきた。すばらしい木造の校舎であった。(ちなみに映画「瀬戸内少年野球団」の話の舞台は淡路島であり、夏目雅子主演だったはずの映画である。)
真鍋島の近くには北木島(岡山県)がある。大学生の頃、この島で海水浴をしていたのだ。このことも、記憶がよみがえってきた。
粟島・真鍋島・北木島と・・・意識して地図を眺めてから、近くの島々を見ると・・・。瀬戸内海を荒らしまわった水軍(海賊)の根拠地の一つ=塩飽(しわく)諸島があるではないか! (瀬戸大橋のすぐ近くにある島々である。)
(つづく 後日記述予定)
塩飽(しわく)諸島について (9月27日ブログ内容の続き)
塩飽諸島とは、どの島々を指すのだろうか・・・。地図から想像すると、塩飽本島周辺の島々であろう。塩飽水軍が治めていた海域の島々であろう。詫間に近い、粟島・真鍋島・北木島なども含まれるのかもしれない。瀬戸大橋近辺の島々は「塩飽諸島」だと考えられる。瀬戸大橋中央部にある与島PAで休憩した観光客は多いことであろう。瀬戸大橋を初めて渡った人の多くが休憩する島である。この島も、おそらく塩飽諸島だと考えられる。すぐ近くの島が「塩飽本島(しわくほんじま)」だからである。九州から大阪方面(逆の場合も)へ船で移動する場合、必ず、この塩飽諸島周辺の海を通過しなければならない。水軍(海賊)が縄張りにしておきたい海域である。歴史ドラマの舞台になってきた海域である。平安時代ごろからの「海賊が横行する海域」であったようである。源平合戦の海域でもあった。(もちろん、屋島も近い海域である。)戦国時代や安土桃山時代・江戸時代になると、「村上水軍」や「塩飽水軍」などの活躍が目立ちはじめることになる。
現在のように、船はエンジンで動くのではなく、潮の流れや風の利用と手漕ぎで動く時代であった。海域での移動手段は「船」がすべてであった。潮の流れに関する知識や風に関する知識がなくては(大きな交易用の)船を動かすことができなかった時代であった。(エンジンで動かす時代は、歴史的に見れば、最近のことになる。) 奈良・平安時代頃から「遣隋使船」や「遣唐使船」などの大型船が、瀬戸内海を航行し始めている。塩飽諸島周辺海域を航行していたはずである。きっと海賊も出没したことであろう。
塩飽(しわく・しあく)という言葉について。
塩飽諸島周辺海域は瀬戸内海の中間部である。この海域では、「潮流」が微妙にぶつかり合う。つまり、「潮湧く」海域なのである。「潮わく」から「塩飽」という漢字が使われた可能性が高い。こういう当て字による変化は全国的におこっている。
たとえば、堺市の「堺」にしても、そうであろう。「境」から「堺」に変化したようである。堺の地は、三つの国(摂津・和泉・河内)の境にあたる場所である。阪和線・南海高野線の駅に「三国ヶ丘駅」がある。また、堺市には「方違神社」もある。方角に関する、有名な神社である。「方違え(かたたがえ)」は、昔の人にとっては重要な行為であった。「方角を変える」=「方違え」をしなければいけなかった時代が何百年も続いていたのである。(若い人は関心がないようだが、現代でも、引越しや旅行の際、「方角が悪いらしい・・・。だから、お払いしてもらおう。」となる。(近畿周辺では、方違神社でお払いを受ける人はものすごく多いのですよ。) ちなみに、方違神社の近くには「境王子」(王子=熊野信仰がさかんだった頃の休憩場所かな?)があった。今は何も残っていなくて、単なる小さな公園になっているが・・・。
「塩飽」の語源は「潮湧く」だと考えられる。
塩飽水軍は「海賊」から生じたものであろう。塩飽水軍は塩飽諸島周辺海域が縄張りであった。
水軍といえば、「村上水軍」が最大勢力であった。村上水軍の縄張りは芸予諸島周辺海域である。能島(のしま)・来島・因島などを活動拠点にしている。塩飽諸島とは、少し離れた島々である。(現在の「しまなみ海道」をつなぐ島々) 塩飽諸島の一部は、瀬戸大橋をつなぐ島々である。村上水軍や塩飽水軍などはすべて「もと海賊」であろう。時の権力者と結びついて秩序だった組織体に成長して「水軍」と認定されたはずである。時の権力者に逆らった行動した「水軍」は壊滅への道を歩んでいる。「村上水軍博物館」を見学して、歴史を学んだ。「なるほど、そういうわけで滅亡していったのか・・・と納得。「海賊」に興味津々の私には、今春の、「村上水軍博物館の見学」は楽しかったですよ(笑)。
(つづく)
空海(弘法大師)誕生の地、香川県善通寺市に近いところに「詫間」というところがある。私はそこで高校時代を過ごした。「国立詫間電波高等学校」という学校である。現在は高専になり、香川高専(詫間キャンパス)という名前になっている。現在5年制の学校であるが、私が過ごした時代は3年制の「高等学校」であった。近くの市としては、西方に観音寺市、東方に丸亀市がある。駅としては、予讃線の「詫間駅」が一番近い。詫間駅からバスに乗って(瀬戸内海に面している)学校へ行くことができる。
私は大阪府堺市から「国立詫間電波高等学校」へ行ったわけである。その年、大阪から入学したのは私一人だけであった。入学試験レベルは、当時としては、それなりに難しかった。合格したときはうれしかった。第一希望の学校だったからである。大阪から遠かったが、国立であり、授業料は安かった。(当時の額であるが、一ヶ月400円(ひょっとしたら800円だったかも?)だったように思う。むちゃくちゃ安かったので、親に負担をかけなかったように思う。ちなみに、当時の私立大学の授業料は一ヶ月10000円ほどの時代であった。
ところで、「この詫間というところは、どういうところだったのであろう?」と、最近になり好奇心が沸いてきた。詫間時代(高校3年間を過ごした時代、16歳から18歳までの3年間。1年間は寮生活で2年間は下宿生活をした。)から、すでに44年が過ぎているのに・・・。60歳以上になると、かえって昔を振り返るようになるのかもしれない。
折に触れて、このブログで、高校時代のことを書いてきたが、地理的な場所(歴史や近くの島なども)に触れたことはない。地図をしげしげ眺めたこともない。(詫間を中心にして地図を見ることをしたことがなかった。)今回、意識してやってみた。そうすると・・・、意識していなかった島々が見えてきたのだ。
詫間周辺の海は瀬戸内海のほぼ中心部になるのだ。すぐ近くの島は「粟島」。この島には当時「国立海員学校」があった。この島の形は、船のスクリューの形である。現在、その学校は廃校になっているが、当時は船乗り養成の学校として栄えていたのである。北方の近くの島としては、真鍋島(岡山県)がある。今年の春に行ってきた島なのだ。詫間がこんなに近いとは・・・。詫間は香川県。真鍋島は岡山県。県境が海にある場合、県境意識は持ちにくいものである。詫間と真鍋島がこんなに近かったとは!! 驚きであった。真鍋島が有名になったのは「瀬戸内少年野球団」という映画のロケ地になってからである。ロケ地になったのは、真鍋島の木造校舎が話にぴったりだったからであろう。私は今春、その木造校舎を見学してきた。すばらしい木造の校舎であった。(ちなみに映画「瀬戸内少年野球団」の話の舞台は淡路島であり、夏目雅子主演だったはずの映画である。)
真鍋島の近くには北木島(岡山県)がある。大学生の頃、この島で海水浴をしていたのだ。このことも、記憶がよみがえってきた。
粟島・真鍋島・北木島と・・・意識して地図を眺めてから、近くの島々を見ると・・・。瀬戸内海を荒らしまわった水軍(海賊)の根拠地の一つ=塩飽(しわく)諸島があるではないか! (瀬戸大橋のすぐ近くにある島々である。)
(つづく 後日記述予定)
塩飽(しわく)諸島について (9月27日ブログ内容の続き)
塩飽諸島とは、どの島々を指すのだろうか・・・。地図から想像すると、塩飽本島周辺の島々であろう。塩飽水軍が治めていた海域の島々であろう。詫間に近い、粟島・真鍋島・北木島なども含まれるのかもしれない。瀬戸大橋近辺の島々は「塩飽諸島」だと考えられる。瀬戸大橋中央部にある与島PAで休憩した観光客は多いことであろう。瀬戸大橋を初めて渡った人の多くが休憩する島である。この島も、おそらく塩飽諸島だと考えられる。すぐ近くの島が「塩飽本島(しわくほんじま)」だからである。九州から大阪方面(逆の場合も)へ船で移動する場合、必ず、この塩飽諸島周辺の海を通過しなければならない。水軍(海賊)が縄張りにしておきたい海域である。歴史ドラマの舞台になってきた海域である。平安時代ごろからの「海賊が横行する海域」であったようである。源平合戦の海域でもあった。(もちろん、屋島も近い海域である。)戦国時代や安土桃山時代・江戸時代になると、「村上水軍」や「塩飽水軍」などの活躍が目立ちはじめることになる。
現在のように、船はエンジンで動くのではなく、潮の流れや風の利用と手漕ぎで動く時代であった。海域での移動手段は「船」がすべてであった。潮の流れに関する知識や風に関する知識がなくては(大きな交易用の)船を動かすことができなかった時代であった。(エンジンで動かす時代は、歴史的に見れば、最近のことになる。) 奈良・平安時代頃から「遣隋使船」や「遣唐使船」などの大型船が、瀬戸内海を航行し始めている。塩飽諸島周辺海域を航行していたはずである。きっと海賊も出没したことであろう。
塩飽(しわく・しあく)という言葉について。
塩飽諸島周辺海域は瀬戸内海の中間部である。この海域では、「潮流」が微妙にぶつかり合う。つまり、「潮湧く」海域なのである。「潮わく」から「塩飽」という漢字が使われた可能性が高い。こういう当て字による変化は全国的におこっている。
たとえば、堺市の「堺」にしても、そうであろう。「境」から「堺」に変化したようである。堺の地は、三つの国(摂津・和泉・河内)の境にあたる場所である。阪和線・南海高野線の駅に「三国ヶ丘駅」がある。また、堺市には「方違神社」もある。方角に関する、有名な神社である。「方違え(かたたがえ)」は、昔の人にとっては重要な行為であった。「方角を変える」=「方違え」をしなければいけなかった時代が何百年も続いていたのである。(若い人は関心がないようだが、現代でも、引越しや旅行の際、「方角が悪いらしい・・・。だから、お払いしてもらおう。」となる。(近畿周辺では、方違神社でお払いを受ける人はものすごく多いのですよ。) ちなみに、方違神社の近くには「境王子」(王子=熊野信仰がさかんだった頃の休憩場所かな?)があった。今は何も残っていなくて、単なる小さな公園になっているが・・・。
「塩飽」の語源は「潮湧く」だと考えられる。
塩飽水軍は「海賊」から生じたものであろう。塩飽水軍は塩飽諸島周辺海域が縄張りであった。
水軍といえば、「村上水軍」が最大勢力であった。村上水軍の縄張りは芸予諸島周辺海域である。能島(のしま)・来島・因島などを活動拠点にしている。塩飽諸島とは、少し離れた島々である。(現在の「しまなみ海道」をつなぐ島々) 塩飽諸島の一部は、瀬戸大橋をつなぐ島々である。村上水軍や塩飽水軍などはすべて「もと海賊」であろう。時の権力者と結びついて秩序だった組織体に成長して「水軍」と認定されたはずである。時の権力者に逆らった行動した「水軍」は壊滅への道を歩んでいる。「村上水軍博物館」を見学して、歴史を学んだ。「なるほど、そういうわけで滅亡していったのか・・・と納得。「海賊」に興味津々の私には、今春の、「村上水軍博物館の見学」は楽しかったですよ(笑)。
(つづく)