2017/12/9
「中山道歩き 計画」 中山道歩き
明日12月10日から青春18切符を使用できる。
夏休み期間に「中津川宿」「福島宿」「藪原宿」「奈良井宿」などを歩き旅した。
いよいよ冬休み期間になった。
天気予報によると、明後日は雨が降り、荒れそうな天候なので、明日早朝から出かけることにした。今回は日帰りの計画。
関ケ原宿前後の宿を歩く予定。
醒井(さめがい)宿には今まで二度行っている。しかし、その先の中山道はまだ歩いたことがない。だから、今回は次の宿になる、「柏原(かしわばら)宿」→「今須宿」→「関ケ原宿」→「垂井宿」→「赤坂宿」 のコースを歩いてみたい。日没まで、がんばって歩いてみよう。
約20㎞の歩き旅。
さて、どんな「風景・建築物・人・食べ物」に出会えるのだろうか?
明日の楽しみである。
夏休み期間に「中津川宿」「福島宿」「藪原宿」「奈良井宿」などを歩き旅した。
いよいよ冬休み期間になった。
天気予報によると、明後日は雨が降り、荒れそうな天候なので、明日早朝から出かけることにした。今回は日帰りの計画。
関ケ原宿前後の宿を歩く予定。
醒井(さめがい)宿には今まで二度行っている。しかし、その先の中山道はまだ歩いたことがない。だから、今回は次の宿になる、「柏原(かしわばら)宿」→「今須宿」→「関ケ原宿」→「垂井宿」→「赤坂宿」 のコースを歩いてみたい。日没まで、がんばって歩いてみよう。
約20㎞の歩き旅。
さて、どんな「風景・建築物・人・食べ物」に出会えるのだろうか?
明日の楽しみである。
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タグ: 関ケ原周辺
2017/8/23
藪原宿から、いよいよ鳥居峠へ。
藪原宿の駅員との会話を思い出した。
駅員いわく、「鳥居峠は熊が出るから、鈴を鳴らすか、木をたたきながら行くといいですよ。」
「えっ、熊ですか?」
「熊は人の気配がすると、逃げていきますよ! だから木をたたいて、熊に知らせるのですよ」
半信半疑でアドバイスを聞いていたが・・・。
峠道に大きな鐘が設置されているのを見たとき、「駅員さんのアドバイスは的確だったのだ!」とその通りにすることにした。
木の幹をたたくためには棒切れがいる。さっそく適当な棒切れを拾うことにした。
昔、国語の授業で『熊に出会ったらどうしたらいいのか』という教材を教えたことも思い出した。その教科書教材での「答え」は、
・死んだふりをする → 不正解
・木の上に逃げる → 不正解
・できるだけ速く走って逃げる → 不正解
では、正解は?
「 熊は自分より大きな相手を襲うことはほとんどないので、できるだけ背を高くして大きく見せて、熊から目を離さず、ゆっくりと後ずさりする。」だった。
ずいぶん以前に授業で扱った内容なので、はっきりとは覚えていないが・・・。たぶんそういうのが、正解だったように思う。
しかし、現実にそういう行動がとれるだろうか? 実際にそういう行動がとれるかどうかは、熊に出会ってみないと分からないが、「不正解の行動」はとらないほうがいいだろう。
私は熊が出没するところを歩くためには、護身用に棒切れを持っていて、それを大きく上にあげて(振り回す前に)大きな男に見せようと思っている。襲ってきたら、素手で闘うのではなく、棒の先で熊の目を突いて、防戦しようと考えている。
日本全国、あっちこっちで熊が出没する環境になっている。現代の熊は野山においてエサが不足しているのであろう。
ただし、北海道のヒグマが出没するところへは、行かないほうがいいだろう。ヒグマは巨大だから、人間の背の高さぐらいでは躊躇することはない。ヒグマに出会ったら・・・「優しい顔でゆっくり後ずさり」。それしか対処方法はない気がする。
本州に出没する熊は、ツキノワグマがほとんどだから、「大きく見せるポーズ」は効果があるだろう。一応、私はその方法を信じている。
鳥居峠道の数カ所にクマよけの鐘が設置されていた。
一人歩きの私は、すべて鐘を鳴らして「熊さん、人間が来ましたよ、逃げてくださいよ!」と合図を送ったのだった。
おかげで、熊には出会わなかった。木曽路の峠道一人歩きは、心細かった・・・。
(ここから続きです)
鳥居峠に到着した。峠付近は木々が茂り、見通しのいい場所ではなかった。しかし、鳥居峠碑や松尾芭蕉の句碑などが複数設置されていた。
石に刻まれた文字を読もうと試みたが、よく読めない。なんとなく読める字もあったが、難しかった。説明板があったので、そちらの解説を頼りになんとか読めた。
峠で句碑と「格闘」していたら、時間が経過していた。(そろそろ下ろうかな・・・)
鳥居峠からの下りにおいても、また「熊除け鐘」があったので、しっかり鐘を鳴らして下って行った。
下っている時に出会ったのは、たった一組の家族。両親と小学生ぐらいのかわいい女の子二人。なんとまあ、ヨーロッパ系の顔をした外国人だった。日本人には出会わなかったのに・・・! 外国人家族が幼い子ども連れで鳥居峠をめざして登っていたのだ。
「こんにちは!」と声をかけられ、「こんにちは!」を大きな声で返して、すれ違った。
(日本は外国人にとって魅力的な国なのだろう)
すれ違ったときに、一瞬そう思ったのだった。
約3時間かかって、鳥居峠越え道をゆっくり歩いたが、いい思い出になった。
下りは楽だった。奈良井宿に到着したとき、お腹がすいていた。正午前だったので、お蕎麦屋さんを見つけて信州そばを食した。やはり、信州そばはうまかった。
奈良井駅発13時32分発まで列車はなかったので、奈良井宿の街並みをゆっくりと見て回った。奈良井宿のはずれの中山道(杉並木の道で、観光客はほとんどいない道だった)も少し歩いてみた。
奈良井宿そのものは観光地。重要伝統的建築群保存地区に指定されており、観光客が多かった。国道に面したところに広い駐車場があり、そこから短時間で歩ける位置に奈良井宿はあった。ほとんどの人は列車利用で奈良井宿に来ない。99%車利用のようだ。
奈良井駅は特急は止まらないし、普通列車も昼頃は2時間に一本程度。列車利用の観光地としては、不便なところと言えるだろう。
たっぷりと時間があったので、奈良井宿内を2往復して街並みを鑑賞して楽しんだ。満足、満足。
帰宅できた時刻は午後9時ごろだった。一本遅かったら、午後11時ごろになっていたであろう。
充実した二日間であった。
冬休み期間(青春18切符利用期間)に、また中山道を歩こうと思っている。
鳥居峠道の一部は石畳道であった。
上に行くと、鐘が設置されていた。右のベル型の鐘を鳴らした。
拾った棒切れ この棒を護身用に持って歩いた。
駅員さんのアドバイス通り、この棒で木の幹をたたきながら歩いた。
鳥居峠にある碑 松尾芭蕉の句碑もあった。
中山道 奈良井宿が近い地点
奈良井宿 南部
奈良井宿 中心部
奈良井宿 北部(駅が近い)
長い宿がほぼそのまま残っていた。素晴らしい建築群だった。
藪原宿の駅員との会話を思い出した。
駅員いわく、「鳥居峠は熊が出るから、鈴を鳴らすか、木をたたきながら行くといいですよ。」
「えっ、熊ですか?」
「熊は人の気配がすると、逃げていきますよ! だから木をたたいて、熊に知らせるのですよ」
半信半疑でアドバイスを聞いていたが・・・。
峠道に大きな鐘が設置されているのを見たとき、「駅員さんのアドバイスは的確だったのだ!」とその通りにすることにした。
木の幹をたたくためには棒切れがいる。さっそく適当な棒切れを拾うことにした。
昔、国語の授業で『熊に出会ったらどうしたらいいのか』という教材を教えたことも思い出した。その教科書教材での「答え」は、
・死んだふりをする → 不正解
・木の上に逃げる → 不正解
・できるだけ速く走って逃げる → 不正解
では、正解は?
「 熊は自分より大きな相手を襲うことはほとんどないので、できるだけ背を高くして大きく見せて、熊から目を離さず、ゆっくりと後ずさりする。」だった。
ずいぶん以前に授業で扱った内容なので、はっきりとは覚えていないが・・・。たぶんそういうのが、正解だったように思う。
しかし、現実にそういう行動がとれるだろうか? 実際にそういう行動がとれるかどうかは、熊に出会ってみないと分からないが、「不正解の行動」はとらないほうがいいだろう。
私は熊が出没するところを歩くためには、護身用に棒切れを持っていて、それを大きく上にあげて(振り回す前に)大きな男に見せようと思っている。襲ってきたら、素手で闘うのではなく、棒の先で熊の目を突いて、防戦しようと考えている。
日本全国、あっちこっちで熊が出没する環境になっている。現代の熊は野山においてエサが不足しているのであろう。
ただし、北海道のヒグマが出没するところへは、行かないほうがいいだろう。ヒグマは巨大だから、人間の背の高さぐらいでは躊躇することはない。ヒグマに出会ったら・・・「優しい顔でゆっくり後ずさり」。それしか対処方法はない気がする。
本州に出没する熊は、ツキノワグマがほとんどだから、「大きく見せるポーズ」は効果があるだろう。一応、私はその方法を信じている。
鳥居峠道の数カ所にクマよけの鐘が設置されていた。
一人歩きの私は、すべて鐘を鳴らして「熊さん、人間が来ましたよ、逃げてくださいよ!」と合図を送ったのだった。
おかげで、熊には出会わなかった。木曽路の峠道一人歩きは、心細かった・・・。
(ここから続きです)
鳥居峠に到着した。峠付近は木々が茂り、見通しのいい場所ではなかった。しかし、鳥居峠碑や松尾芭蕉の句碑などが複数設置されていた。
石に刻まれた文字を読もうと試みたが、よく読めない。なんとなく読める字もあったが、難しかった。説明板があったので、そちらの解説を頼りになんとか読めた。
峠で句碑と「格闘」していたら、時間が経過していた。(そろそろ下ろうかな・・・)
鳥居峠からの下りにおいても、また「熊除け鐘」があったので、しっかり鐘を鳴らして下って行った。
下っている時に出会ったのは、たった一組の家族。両親と小学生ぐらいのかわいい女の子二人。なんとまあ、ヨーロッパ系の顔をした外国人だった。日本人には出会わなかったのに・・・! 外国人家族が幼い子ども連れで鳥居峠をめざして登っていたのだ。
「こんにちは!」と声をかけられ、「こんにちは!」を大きな声で返して、すれ違った。
(日本は外国人にとって魅力的な国なのだろう)
すれ違ったときに、一瞬そう思ったのだった。
約3時間かかって、鳥居峠越え道をゆっくり歩いたが、いい思い出になった。
下りは楽だった。奈良井宿に到着したとき、お腹がすいていた。正午前だったので、お蕎麦屋さんを見つけて信州そばを食した。やはり、信州そばはうまかった。
奈良井駅発13時32分発まで列車はなかったので、奈良井宿の街並みをゆっくりと見て回った。奈良井宿のはずれの中山道(杉並木の道で、観光客はほとんどいない道だった)も少し歩いてみた。
奈良井宿そのものは観光地。重要伝統的建築群保存地区に指定されており、観光客が多かった。国道に面したところに広い駐車場があり、そこから短時間で歩ける位置に奈良井宿はあった。ほとんどの人は列車利用で奈良井宿に来ない。99%車利用のようだ。
奈良井駅は特急は止まらないし、普通列車も昼頃は2時間に一本程度。列車利用の観光地としては、不便なところと言えるだろう。
たっぷりと時間があったので、奈良井宿内を2往復して街並みを鑑賞して楽しんだ。満足、満足。
帰宅できた時刻は午後9時ごろだった。一本遅かったら、午後11時ごろになっていたであろう。
充実した二日間であった。
冬休み期間(青春18切符利用期間)に、また中山道を歩こうと思っている。
鳥居峠道の一部は石畳道であった。
上に行くと、鐘が設置されていた。右のベル型の鐘を鳴らした。
拾った棒切れ この棒を護身用に持って歩いた。
駅員さんのアドバイス通り、この棒で木の幹をたたきながら歩いた。
鳥居峠にある碑 松尾芭蕉の句碑もあった。
中山道 奈良井宿が近い地点
奈良井宿 南部
奈良井宿 中心部
奈良井宿 北部(駅が近い)
長い宿がほぼそのまま残っていた。素晴らしい建築群だった。
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2017/8/23
歩き旅二日目。(木曽)福島宿のホテルの朝食が7時からであった。7時45分発の列車に乗り遅れると、予定が大きく狂うので、(木曽福島駅まで徒歩で30ほどかかるらしいので)、7時10分にはチェックアウトした。約10分の朝食タイムだった。宿泊料金の精算は朝食前に済ませておいた。
(7時45分の列車を逃すと・・・2時間待ちかもしれない。)中央本線の列車は少ないから。名古屋駅から中津川駅までの本数は多いのだが…。木曽福島駅からの(青春18切符利用)列車は少ない。
ゆっくり食事を楽しむ旅行ではないが、「歩くのが楽しみ」旅行である。何度も書くが・・・、経費節約・利便性面から「青春18切符」はありがたい。
中央本線などの普通列車は(全国的に乗降客が少ない路線では)ワンマン列車が多くなってきている。中津川駅から松本駅方面の普通列車は2両のワンマン列車になっていた。駅も無人駅が増えている。ワンマンバスのごとく駅に着くと、乗車するためのドアは一箇所だけ開き、降車ドアは先頭車両の一番前(運転手席横)のドアからしか降りられないシステムになっていた。乗車するときに整理券をとることになる。整理券番号によって払う料金は違ってくる。バスと同じ仕組みである。
都会生活において、バス利用では慣れているシステムだが、列車では「ドア」は全部開くのが普通。だから、「列車までこういうシステムに変わってきているのだな…」と感じた次第である。
(2両目の)一番後ろにいる人が次の駅で降りるためには、2両分の距離を車両内を移動しなければならない。大きな荷物をもって運転席の降車ドアまで移動するのは大変だ。このシステムに慣れた人はあらかじめ降車ドア近くにいるようだ。
私は昨日経験していたので、今日は焦らなかった。
木曽福島駅発午前7時45分発の二両編成普通列車に乗って、すぐに運転手横のドアへ移動しておいた。降りる駅は藪原(やぶはら)駅。(木曽福島駅から松本方面へ三つ目の駅だった)
ワンマン列車において、青春18切符を持っていると、乗車時整理券をとらなくてもいい。駅員や列車運転手に見せるだけでいい。(整理券というものは失うとややこしいので、厄介なものだ。)
藪原駅で降りるとき、青春18切符を見せた。その時、降りた客は私だけだった。(無人駅なのかもしれない・・・)と思った。駅舎があり、改札口もあった。しかし、改札口はオープンのままで、ひっそりしていた。
切符販売口があり、高齢の駅員(?)が一人だけいたのだ。切符を販売するための駅員らしかった。駅舎内の自販機でお茶を購入すると、その駅員が私のところへ来てくださった。
「鳥居峠へ行かれるのですか?」
「ええ、これから行く予定です」と返答すると、
「ちょっと、こちらへ来てください」と駅舎の外へ観光パンフレットを持ちながら誘ってくれた。駅舎の外から見える山を指さして、説明を始めてくれた。
「あの山のへこんだところに、木が一本見えますね」
「ええ、あれですね」と、私も指をさして答えた。
「そう、あれが鳥居峠のあるところです。あそこを目指していってください。」
その駅員は、持っていた観光パンフレットの地図をを半分に折り、
「この折った部分が鳥居峠になります。」と立体的に峠の位置を説明してくれた。パンフレットを山型にして、駅から鳥居峠までは登り道で、峠から奈良井宿までは下りだと(イメージしやすく詳しく)説明してくれた。そして説明が終わると、
「コーヒーを入れますから」と誘っていただいた。
(駅員からコーヒーのサービスを受けるは初めてのことだった。)
アツアツのコーヒーをよばれながら、東海道53次を完歩したことなどを話したら、「中山道も頑張ってください」と激励された。
(人生、こんな一期一会もあるのだ。一人旅もいいものだ。)
藪原駅をスタートに、中山道のコースを歩き始めた。駅近くに藪原宿・本陣跡があった。本陣跡には説明板があるだけで、「碑」すらなかった。もちろん建物は残されていなかった。
藪原宿は「お六櫛」の生産地としてにぎわい、今もその名残が残っていた。
幕末近く(1861年)、14代将軍徳川家茂の正妻になるために江戸へ向かった「皇女和宮」の大行列。
皇女和宮御一行が中山道利用の際、この藪原宿本陣で宿泊されている。鳥居峠越えを控えての宿泊地だった。
(そうだったのか・・・、皇女和宮も鳥居峠を越されたのだ。同じ道を歩くのも、楽しみだ・・・。さて、どんな峠道なんだろう?)
皇女和宮様には、好きな人がおられたのに、仕方なく「将軍の嫁」にいかねばならなかった。その人生、運命・・・。皇室には皇室なりに、「昔も今も」悩みがあるのだろう。気の毒に・・・。
そんなことを想像しながらも、中山道の歴史や道そのものに興味がわいてきた。
(以上、藪原宿を中心に)続きは②「鳥居峠」へ
ひっそりしていた現在の藪原宿
本陣跡の説明板には「皇女和宮」のことが書かれていた。
お六櫛問屋があった。
(7時45分の列車を逃すと・・・2時間待ちかもしれない。)中央本線の列車は少ないから。名古屋駅から中津川駅までの本数は多いのだが…。木曽福島駅からの(青春18切符利用)列車は少ない。
ゆっくり食事を楽しむ旅行ではないが、「歩くのが楽しみ」旅行である。何度も書くが・・・、経費節約・利便性面から「青春18切符」はありがたい。
中央本線などの普通列車は(全国的に乗降客が少ない路線では)ワンマン列車が多くなってきている。中津川駅から松本駅方面の普通列車は2両のワンマン列車になっていた。駅も無人駅が増えている。ワンマンバスのごとく駅に着くと、乗車するためのドアは一箇所だけ開き、降車ドアは先頭車両の一番前(運転手席横)のドアからしか降りられないシステムになっていた。乗車するときに整理券をとることになる。整理券番号によって払う料金は違ってくる。バスと同じ仕組みである。
都会生活において、バス利用では慣れているシステムだが、列車では「ドア」は全部開くのが普通。だから、「列車までこういうシステムに変わってきているのだな…」と感じた次第である。
(2両目の)一番後ろにいる人が次の駅で降りるためには、2両分の距離を車両内を移動しなければならない。大きな荷物をもって運転席の降車ドアまで移動するのは大変だ。このシステムに慣れた人はあらかじめ降車ドア近くにいるようだ。
私は昨日経験していたので、今日は焦らなかった。
木曽福島駅発午前7時45分発の二両編成普通列車に乗って、すぐに運転手横のドアへ移動しておいた。降りる駅は藪原(やぶはら)駅。(木曽福島駅から松本方面へ三つ目の駅だった)
ワンマン列車において、青春18切符を持っていると、乗車時整理券をとらなくてもいい。駅員や列車運転手に見せるだけでいい。(整理券というものは失うとややこしいので、厄介なものだ。)
藪原駅で降りるとき、青春18切符を見せた。その時、降りた客は私だけだった。(無人駅なのかもしれない・・・)と思った。駅舎があり、改札口もあった。しかし、改札口はオープンのままで、ひっそりしていた。
切符販売口があり、高齢の駅員(?)が一人だけいたのだ。切符を販売するための駅員らしかった。駅舎内の自販機でお茶を購入すると、その駅員が私のところへ来てくださった。
「鳥居峠へ行かれるのですか?」
「ええ、これから行く予定です」と返答すると、
「ちょっと、こちらへ来てください」と駅舎の外へ観光パンフレットを持ちながら誘ってくれた。駅舎の外から見える山を指さして、説明を始めてくれた。
「あの山のへこんだところに、木が一本見えますね」
「ええ、あれですね」と、私も指をさして答えた。
「そう、あれが鳥居峠のあるところです。あそこを目指していってください。」
その駅員は、持っていた観光パンフレットの地図をを半分に折り、
「この折った部分が鳥居峠になります。」と立体的に峠の位置を説明してくれた。パンフレットを山型にして、駅から鳥居峠までは登り道で、峠から奈良井宿までは下りだと(イメージしやすく詳しく)説明してくれた。そして説明が終わると、
「コーヒーを入れますから」と誘っていただいた。
(駅員からコーヒーのサービスを受けるは初めてのことだった。)
アツアツのコーヒーをよばれながら、東海道53次を完歩したことなどを話したら、「中山道も頑張ってください」と激励された。
(人生、こんな一期一会もあるのだ。一人旅もいいものだ。)
藪原駅をスタートに、中山道のコースを歩き始めた。駅近くに藪原宿・本陣跡があった。本陣跡には説明板があるだけで、「碑」すらなかった。もちろん建物は残されていなかった。
藪原宿は「お六櫛」の生産地としてにぎわい、今もその名残が残っていた。
幕末近く(1861年)、14代将軍徳川家茂の正妻になるために江戸へ向かった「皇女和宮」の大行列。
皇女和宮御一行が中山道利用の際、この藪原宿本陣で宿泊されている。鳥居峠越えを控えての宿泊地だった。
(そうだったのか・・・、皇女和宮も鳥居峠を越されたのだ。同じ道を歩くのも、楽しみだ・・・。さて、どんな峠道なんだろう?)
皇女和宮様には、好きな人がおられたのに、仕方なく「将軍の嫁」にいかねばならなかった。その人生、運命・・・。皇室には皇室なりに、「昔も今も」悩みがあるのだろう。気の毒に・・・。
そんなことを想像しながらも、中山道の歴史や道そのものに興味がわいてきた。
(以上、藪原宿を中心に)続きは②「鳥居峠」へ
ひっそりしていた現在の藪原宿
本陣跡の説明板には「皇女和宮」のことが書かれていた。
お六櫛問屋があった。
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2017/8/21
中津川宿を散策後、14時25分発の松本行き列車に乗ることができた。普通列車である。木曽福島駅に到着後、福島関所跡などを中心に「福島宿」を散策する予定だった。
福島駅到着は15時32分であった。到着後、駅の観光案内所で周辺地図をいただいた。
「関所跡」への行き方をしっかりと案内してくれるのだが、「違う方向へ歩いてみたいのですが・・・」と質問したところ・・・
「あっちへ行っても、何もないですよ・・・」
「いえ、何もなくても・・・中山道の道があると思うのですが・・・」
「中山道を歩いているの?」
「ええ、ちょっとだけですけれど・・・」
やり取りをしているうちに、案内人は素っ気なく「じゃ、あっちの道が中山道だから」と突き放したような案内ぶり。「福島関所跡」方面の案内ばかりしているという雰囲気であった。その方面以外の道を尋ねられたのが、珍しかったらしい。
いただいた地図を見ながら「あっちの方の道」を歩いていくと・・・、どうも中山道とは違うようだった。
「あれっ? 中山道はどの道なんだろう?」
(中山道の記述が少ない地図だったので、私が用意していた地図を見直したところ)違う道を歩いていることに気が付いた。
「この細い道が中山道なのだ!」
30分ほど違う道を歩いていたようだった。ハッと気づいたときは、16時を過ぎていた。
福島関所跡の見学は17時まで可能だろう。(午後5時閉館の観光施設は多いから)と、勝手に思い込み、そう決めていた。
ところが・・・
*(ここから続きです。)
福島関所(跡)に到着した時刻は16時30分だった。閉館時間は16時30分の施設だったのだ。
入館チケットを購入するときに、「今からでも見学できますか?」と尋ねた。「大丈夫ですよ」と言ってもらえたので、ほっとした。
再現された福島関所を見学することができた。見学者は私一人だけだったので、20分ほどの見学時間で施設見学を終えた。「すみませんでした。閉館時間が過ぎているのに…、ありがとうございました。」とお礼を言って関所を出た。
そして、急ぎ足で「代官所跡」へ行ってみた。「代官所跡」は午後4時30分に閉館していた。しかたがなく、外観だけを見て、宿泊予定ホテルを目指した。
一日目が終わった。
明日は、藪原(やぶはら)宿 → 鳥居峠 → 奈良井宿への歩き旅。
木曽福島駅近くでは、崖に沿った細い道が中山道だった。(近くの広い道路を中山道だと勘違いして歩いてしまった。)
福島宿中心部では、古い建物が残っていた。道も広かった。
福島関所入口 細い通路の右横は崖である。関所を通過するためには、どうしてもこの細い道を通らねばならない。
再現されていた「福島関所」外観。
「代官屋敷」は閉まっていた。敷地が広く、外回り半周ほど歩いてみた。「福島関所」を管轄する代官屋敷とのことで、(説明板より)立派な屋敷だったことが想像できた。
日本四大関所(東海道=箱根関所と新居関所 中山道=福島関所と碓氷関所)の一つが、今回見学できた福島関所。東海道の二カ所をすでに見学できているので、まだ見学できていないのは「碓氷関所」。もっとも「碓氷関所」なる建物は再建されていないようだ。「東門と資料館」だけとのことである。碓氷峠は江戸に近い中山道の難所の一つゆえに、出女と入り鉄砲を取り締まるための重要な「関所」だったにちがいない。
代官屋敷は見学できなかったが、福島関所を閉館ぎりぎりで見学できた点、感謝、感謝だった。
福島駅到着は15時32分であった。到着後、駅の観光案内所で周辺地図をいただいた。
「関所跡」への行き方をしっかりと案内してくれるのだが、「違う方向へ歩いてみたいのですが・・・」と質問したところ・・・
「あっちへ行っても、何もないですよ・・・」
「いえ、何もなくても・・・中山道の道があると思うのですが・・・」
「中山道を歩いているの?」
「ええ、ちょっとだけですけれど・・・」
やり取りをしているうちに、案内人は素っ気なく「じゃ、あっちの道が中山道だから」と突き放したような案内ぶり。「福島関所跡」方面の案内ばかりしているという雰囲気であった。その方面以外の道を尋ねられたのが、珍しかったらしい。
いただいた地図を見ながら「あっちの方の道」を歩いていくと・・・、どうも中山道とは違うようだった。
「あれっ? 中山道はどの道なんだろう?」
(中山道の記述が少ない地図だったので、私が用意していた地図を見直したところ)違う道を歩いていることに気が付いた。
「この細い道が中山道なのだ!」
30分ほど違う道を歩いていたようだった。ハッと気づいたときは、16時を過ぎていた。
福島関所跡の見学は17時まで可能だろう。(午後5時閉館の観光施設は多いから)と、勝手に思い込み、そう決めていた。
ところが・・・
*(ここから続きです。)
福島関所(跡)に到着した時刻は16時30分だった。閉館時間は16時30分の施設だったのだ。
入館チケットを購入するときに、「今からでも見学できますか?」と尋ねた。「大丈夫ですよ」と言ってもらえたので、ほっとした。
再現された福島関所を見学することができた。見学者は私一人だけだったので、20分ほどの見学時間で施設見学を終えた。「すみませんでした。閉館時間が過ぎているのに…、ありがとうございました。」とお礼を言って関所を出た。
そして、急ぎ足で「代官所跡」へ行ってみた。「代官所跡」は午後4時30分に閉館していた。しかたがなく、外観だけを見て、宿泊予定ホテルを目指した。
一日目が終わった。
明日は、藪原(やぶはら)宿 → 鳥居峠 → 奈良井宿への歩き旅。
木曽福島駅近くでは、崖に沿った細い道が中山道だった。(近くの広い道路を中山道だと勘違いして歩いてしまった。)
福島宿中心部では、古い建物が残っていた。道も広かった。
福島関所入口 細い通路の右横は崖である。関所を通過するためには、どうしてもこの細い道を通らねばならない。
再現されていた「福島関所」外観。
「代官屋敷」は閉まっていた。敷地が広く、外回り半周ほど歩いてみた。「福島関所」を管轄する代官屋敷とのことで、(説明板より)立派な屋敷だったことが想像できた。
日本四大関所(東海道=箱根関所と新居関所 中山道=福島関所と碓氷関所)の一つが、今回見学できた福島関所。東海道の二カ所をすでに見学できているので、まだ見学できていないのは「碓氷関所」。もっとも「碓氷関所」なる建物は再建されていないようだ。「東門と資料館」だけとのことである。碓氷峠は江戸に近い中山道の難所の一つゆえに、出女と入り鉄砲を取り締まるための重要な「関所」だったにちがいない。
代官屋敷は見学できなかったが、福島関所を閉館ぎりぎりで見学できた点、感謝、感謝だった。
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タグ: 福島関所
2017/8/18
4月初旬に「東海道53次歩き旅」を終了して、大阪近辺の竹内街道歩き(約半分のコースを歩いた)をしたり、奈良県「山野辺の道」歩きをしたりしていたが、遠くへ出かけたくなってきた。
「青春18切符利用の歩き旅」をしたくなったしだいである。それも、一人旅を。
東海道53次歩きは、草津宿から江戸・日本橋到着までは、「一人旅」であった。その「一人旅気分」が片雲の風に誘われだして、「漂泊の思い」がうずうず。
一人旅にこだわっているわけではないが・・・。一人旅は「それなりに楽しい」もので、「やめられない」面がある。
松尾芭蕉いはく、「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」と。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」。
人生は永遠の旅人のようなものであり、旅は人生そのものなのだ。
『奥の細道』冒頭部分には、「人生観が凝縮されている」。正に「名文中の名文」と言えるであろう。
私は「松尾芭蕉忍者説」を信じている一人である。
松尾芭蕉の多くの旅は「目的のある旅」だったと考えられるが、「特に目的のない旅」もあったに違いない。「漂泊の思い」こそ、松尾芭蕉の人間性だと言えるであろう。
「漂泊の思い」に関しては、私もほんの少しだが「松尾芭蕉」なのかもしれない。
完全退職後、9年余が過ぎた。
歩ける限り、「漂泊の思い」ゆえに「人生=旅」を実践していくことになるだろう。
8月16日
中津川宿 → 福島宿(写真は後日に)へ
JR堺市駅発朝6時の列車に乗り、大阪駅へ。大阪駅から東海道本線利用で、名古屋駅に到着。名古屋駅で、中央本線に乗り換えた。中津川駅までは、快速があったので意外に早く到着することができたが、正午前になっていた。
中津川宿は馬籠宿や妻籠宿へ向かう大きな宿であったようだ。名古屋からJR中津川駅行きの列車は、一時間に1本以上あって、それなりに利用者が多いようであった。しかし、その先、松本方面へ向かう(青春18切符で乗れる)列車は激減する。(朝夕以外)二時間に1本になる時間帯がある。(歩き旅において、駅での二時間待ちは大変だ!)
時刻表を見て、適当な列車は午後2時20分発だった。(これに乗らねば、本日予定の木曽福島宿散策ができないかも・・・)
という状況だったので、中津川宿散策および昼食は午後2時ごろには終える予定で行動した。2時20分発に乗り遅れると、2時間待ちとなる。
東海道本線利用の「東海道53次歩き」では、30分も待てば、次の列車が来たものだが・・・。中山道歩きは、列車本数が少ないから、気をつけねば!
中津川宿脇本陣の一部が再現されていた。資料館にもなっていたので、無料で入館できた。
中津川宿 中山道に面した造り酒屋 うだつ(装飾防火壁)の上がっている立派な建物群が魅力的だった。
幕末に長州藩士、桂小五郎(のち木戸孝允)が藩主毛利公の行列を密かに待ちうけていた。藩主が江戸幕府擁護の考えから倒幕へと(藩主の考えを)変えさせるために待機していた。その隠れ家(料亭)への通路。中山道から少し入ったところにある。
隠れ家にしていた(もと料亭の)建物は残っていた。その前の説明板。
桂小五郎はもう「江戸幕府は終わる」ことを予想し、次の時代に向けて「討幕派」への変心を藩主に具申したのであった。明治になり、長州藩士たちは政府の重職についている。桂小五郎が中津川宿の「隠れ家」で果たした行為は歴史を動かしたことにつながったようだ。
「中津川会談=藩主と小五郎との密談」なるものについて初めて知った。歩き旅において、街道の歴史に触れることは楽しいですね。
これも立派な建物の一つ。主は「中津川村の庄屋」をしていたとの説明があった。
「青春18切符利用の歩き旅」をしたくなったしだいである。それも、一人旅を。
東海道53次歩きは、草津宿から江戸・日本橋到着までは、「一人旅」であった。その「一人旅気分」が片雲の風に誘われだして、「漂泊の思い」がうずうず。
一人旅にこだわっているわけではないが・・・。一人旅は「それなりに楽しい」もので、「やめられない」面がある。
松尾芭蕉いはく、「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」と。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」。
人生は永遠の旅人のようなものであり、旅は人生そのものなのだ。
『奥の細道』冒頭部分には、「人生観が凝縮されている」。正に「名文中の名文」と言えるであろう。
私は「松尾芭蕉忍者説」を信じている一人である。
松尾芭蕉の多くの旅は「目的のある旅」だったと考えられるが、「特に目的のない旅」もあったに違いない。「漂泊の思い」こそ、松尾芭蕉の人間性だと言えるであろう。
「漂泊の思い」に関しては、私もほんの少しだが「松尾芭蕉」なのかもしれない。
完全退職後、9年余が過ぎた。
歩ける限り、「漂泊の思い」ゆえに「人生=旅」を実践していくことになるだろう。
8月16日
中津川宿 → 福島宿(写真は後日に)へ
JR堺市駅発朝6時の列車に乗り、大阪駅へ。大阪駅から東海道本線利用で、名古屋駅に到着。名古屋駅で、中央本線に乗り換えた。中津川駅までは、快速があったので意外に早く到着することができたが、正午前になっていた。
中津川宿は馬籠宿や妻籠宿へ向かう大きな宿であったようだ。名古屋からJR中津川駅行きの列車は、一時間に1本以上あって、それなりに利用者が多いようであった。しかし、その先、松本方面へ向かう(青春18切符で乗れる)列車は激減する。(朝夕以外)二時間に1本になる時間帯がある。(歩き旅において、駅での二時間待ちは大変だ!)
時刻表を見て、適当な列車は午後2時20分発だった。(これに乗らねば、本日予定の木曽福島宿散策ができないかも・・・)
という状況だったので、中津川宿散策および昼食は午後2時ごろには終える予定で行動した。2時20分発に乗り遅れると、2時間待ちとなる。
東海道本線利用の「東海道53次歩き」では、30分も待てば、次の列車が来たものだが・・・。中山道歩きは、列車本数が少ないから、気をつけねば!
中津川宿脇本陣の一部が再現されていた。資料館にもなっていたので、無料で入館できた。
中津川宿 中山道に面した造り酒屋 うだつ(装飾防火壁)の上がっている立派な建物群が魅力的だった。
幕末に長州藩士、桂小五郎(のち木戸孝允)が藩主毛利公の行列を密かに待ちうけていた。藩主が江戸幕府擁護の考えから倒幕へと(藩主の考えを)変えさせるために待機していた。その隠れ家(料亭)への通路。中山道から少し入ったところにある。
隠れ家にしていた(もと料亭の)建物は残っていた。その前の説明板。
桂小五郎はもう「江戸幕府は終わる」ことを予想し、次の時代に向けて「討幕派」への変心を藩主に具申したのであった。明治になり、長州藩士たちは政府の重職についている。桂小五郎が中津川宿の「隠れ家」で果たした行為は歴史を動かしたことにつながったようだ。
「中津川会談=藩主と小五郎との密談」なるものについて初めて知った。歩き旅において、街道の歴史に触れることは楽しいですね。
これも立派な建物の一つ。主は「中津川村の庄屋」をしていたとの説明があった。