2017/12/13
「中山道歩き旅 関ケ原宿他(後半)」 中山道歩き
(前半の続き)
柏原宿は近江国(滋賀県)にあるが、今須宿は美濃国(岐阜県)。今須宿中心部へ向かう途中、細い溝がある。幅50cmぐらいの溝である。この溝が国境であった。
(昔の)堺は摂津国と和泉国との国境(=堺)に栄えた町だが、国境は一本の道であった。一本の道でも境になるのは珍しいのだが、「一筋の溝」が国境になるとは…と、「変な感激」をしながら(国境箇所の)中山道を歩いた。
江戸時代には、この溝に面して近江国の旅籠があり、美濃国の旅籠があったようだ。両隣の旅籠に泊まった旅人は「寝ながら話ができた」距離だったので、いろいろな物語が生まれたようだ。『寝物語の碑』が設置されていた。
今須宿中心部にはこれといった建物は残っていなかった。今須峠という緩やかな峠を過ぎると、源義経の母、常盤御前の墓があった。その墓を過ぎた位置に不破関跡があった。
不破関は古代の関所であり、古代の三関(伊勢鈴鹿関・越前愛発(あらち)・不破関)の一つであった。
古代においても中世においても、「関ケ原」地域は重要な戦乱(古代=壬申の乱・中世=関ケ原の戦い)の地になっている。この地は京都への侵入を食い止める重要拠点・関所であったし、東西文化の接点でもある。それは現在にも及んでいる。
例えば、関西文化圏の果てであるとともに、関東文化圏の果てでもある地域である。関ケ原地域で、お雑煮の作り方が関西風(白みそに丸餅)と関東風(すまし汁に角餅)とに分かれるようである。関ケ原町には関西風文化地域と関東風文化地域が混在しているとのことである。
歴史的に関西文化と関東文化とがせめぎあってきたのであろう。お雑煮以外にも、関西と関東では、いろいろ違いがるようだ。エスカレーターに乗る位置まで、関西と関東では違うのだから、不思議なものだ。ちなみに岡山では東京と同じようにエスカレーターに乗る。関西文化(上方文化)って、どこからどこまでなんだろうか…?
そんなことを考えた「関ケ原宿」歩きであった。関ケ原宿そのものは、ほとんど何も残っていない宿だった。
JR関ケ原駅前では、レンタサイクルがあり、自転車利用で「関ケ原合戦」史跡巡りをすすめているようであった。合戦場を歩いて回るには、かなり時間を要するようである。
中山道に面した「西首塚」を見ることはできた。関ケ原合戦で戦死した数千名の首を葬った塚で、家康によって首実検された武将が眠る塚とのことである。「東首塚」もあるようだが、そこにはいかなかった。
関ケ原地域は幟がやたらに多く、東軍西軍それぞれの武将たちの幟が(あっちこっちの場所)ではためいていた。もちろん「西首塚」にも。
関ケ原宿を過ぎると、次の垂井(たるい)宿を目指して歩いた。
垂井宿にはこれといった建物は残っていなかった。ただ、旅籠(1777年建築)亀丸屋が現在も営業中であった。江戸時代の建物で旅籠を営業中なのだから、歴史の香りがする建物でした。街道が曲がっている「枡形」の角にあり、わかりやすかった。
赤坂宿を目指すことにしたが、空模様が怪しくなってきていた。雨が降り出さない前に、赤坂宿に到着したかった。これといった見学場所もなかったので、さっさと歩いた。
赤坂宿に到着したら、うす暗かった。すごい町屋(矢橋家住宅)があったが、時間がなかった。JR美濃赤坂駅午後4時52分発列車に乗りたかったので、(列車の本数が少ない駅なので)あせっていた。どう歩けば、駅に行けるのか…? 「人が歩いていない雰囲気」の土地で、夕方になると少しさびしくなるものです。駅を知っていれば、そういうことはないのですが…。
天候が悪くなり、薄暗くなり、駅がまだ見つかっていない・・・誰も歩いていない・・・。一人旅を何度も経験していても、ちょっと不安になるものです。
駅の光が見えたとき、ほっとしました。駅は無人駅で、私以外には誰もいませんでした。寂しい駅でしたが、発車前に数人が駅に来ました。やっと、にぎやかになりました。
列車はワンマン列車(地方では増えていますね)でした。
今回の旅は日帰りとしては、充実していました。
この溝が近江国と美濃国の国境
不破関(破れ不=ざる関を意味する)跡
関ケ原 西首塚
関ケ原宿には標柱や幟が目立つだけで、本陣跡は見つけられなかった。脇本陣の「門」だけはかろうじて見つかったが…。
垂井宿中心部を過ぎると、追分があった。中山道と美濃路との(追分)分かれ道である。
赤坂宿までほぼ直線の中山道だった。
赤坂宿中心部には大きな町家が残っていた。街並みもすっきりと残されていたが、本陣や脇本陣はどちらも「跡」だった。
赤坂宿に到着したのは夕刻で、曇天だったので・・・帰ることが気になっていた。ゆっくり見学できなかった。日没が早く、気もそぞろ…。
柏原宿は近江国(滋賀県)にあるが、今須宿は美濃国(岐阜県)。今須宿中心部へ向かう途中、細い溝がある。幅50cmぐらいの溝である。この溝が国境であった。
(昔の)堺は摂津国と和泉国との国境(=堺)に栄えた町だが、国境は一本の道であった。一本の道でも境になるのは珍しいのだが、「一筋の溝」が国境になるとは…と、「変な感激」をしながら(国境箇所の)中山道を歩いた。
江戸時代には、この溝に面して近江国の旅籠があり、美濃国の旅籠があったようだ。両隣の旅籠に泊まった旅人は「寝ながら話ができた」距離だったので、いろいろな物語が生まれたようだ。『寝物語の碑』が設置されていた。
今須宿中心部にはこれといった建物は残っていなかった。今須峠という緩やかな峠を過ぎると、源義経の母、常盤御前の墓があった。その墓を過ぎた位置に不破関跡があった。
不破関は古代の関所であり、古代の三関(伊勢鈴鹿関・越前愛発(あらち)・不破関)の一つであった。
古代においても中世においても、「関ケ原」地域は重要な戦乱(古代=壬申の乱・中世=関ケ原の戦い)の地になっている。この地は京都への侵入を食い止める重要拠点・関所であったし、東西文化の接点でもある。それは現在にも及んでいる。
例えば、関西文化圏の果てであるとともに、関東文化圏の果てでもある地域である。関ケ原地域で、お雑煮の作り方が関西風(白みそに丸餅)と関東風(すまし汁に角餅)とに分かれるようである。関ケ原町には関西風文化地域と関東風文化地域が混在しているとのことである。
歴史的に関西文化と関東文化とがせめぎあってきたのであろう。お雑煮以外にも、関西と関東では、いろいろ違いがるようだ。エスカレーターに乗る位置まで、関西と関東では違うのだから、不思議なものだ。ちなみに岡山では東京と同じようにエスカレーターに乗る。関西文化(上方文化)って、どこからどこまでなんだろうか…?
そんなことを考えた「関ケ原宿」歩きであった。関ケ原宿そのものは、ほとんど何も残っていない宿だった。
JR関ケ原駅前では、レンタサイクルがあり、自転車利用で「関ケ原合戦」史跡巡りをすすめているようであった。合戦場を歩いて回るには、かなり時間を要するようである。
中山道に面した「西首塚」を見ることはできた。関ケ原合戦で戦死した数千名の首を葬った塚で、家康によって首実検された武将が眠る塚とのことである。「東首塚」もあるようだが、そこにはいかなかった。
関ケ原地域は幟がやたらに多く、東軍西軍それぞれの武将たちの幟が(あっちこっちの場所)ではためいていた。もちろん「西首塚」にも。
関ケ原宿を過ぎると、次の垂井(たるい)宿を目指して歩いた。
垂井宿にはこれといった建物は残っていなかった。ただ、旅籠(1777年建築)亀丸屋が現在も営業中であった。江戸時代の建物で旅籠を営業中なのだから、歴史の香りがする建物でした。街道が曲がっている「枡形」の角にあり、わかりやすかった。
赤坂宿を目指すことにしたが、空模様が怪しくなってきていた。雨が降り出さない前に、赤坂宿に到着したかった。これといった見学場所もなかったので、さっさと歩いた。
赤坂宿に到着したら、うす暗かった。すごい町屋(矢橋家住宅)があったが、時間がなかった。JR美濃赤坂駅午後4時52分発列車に乗りたかったので、(列車の本数が少ない駅なので)あせっていた。どう歩けば、駅に行けるのか…? 「人が歩いていない雰囲気」の土地で、夕方になると少しさびしくなるものです。駅を知っていれば、そういうことはないのですが…。
天候が悪くなり、薄暗くなり、駅がまだ見つかっていない・・・誰も歩いていない・・・。一人旅を何度も経験していても、ちょっと不安になるものです。
駅の光が見えたとき、ほっとしました。駅は無人駅で、私以外には誰もいませんでした。寂しい駅でしたが、発車前に数人が駅に来ました。やっと、にぎやかになりました。
列車はワンマン列車(地方では増えていますね)でした。
今回の旅は日帰りとしては、充実していました。
この溝が近江国と美濃国の国境
不破関(破れ不=ざる関を意味する)跡
関ケ原 西首塚
関ケ原宿には標柱や幟が目立つだけで、本陣跡は見つけられなかった。脇本陣の「門」だけはかろうじて見つかったが…。
垂井宿中心部を過ぎると、追分があった。中山道と美濃路との(追分)分かれ道である。
赤坂宿までほぼ直線の中山道だった。
赤坂宿中心部には大きな町家が残っていた。街並みもすっきりと残されていたが、本陣や脇本陣はどちらも「跡」だった。
赤坂宿に到着したのは夕刻で、曇天だったので・・・帰ることが気になっていた。ゆっくり見学できなかった。日没が早く、気もそぞろ…。
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タグ: 今須宿~赤坂宿
2017/12/10
「中山道歩き旅 関ケ原宿他(前半)」 中山道歩き
今日一日で、5つの宿へ行くことができた。日帰り歩き旅を予定通り実施できた。
自宅からの総合計歩数は、41729歩だった。一歩=65cmに設定しているので、歩行距離は約27㎞であった。実際はたぶん25㎞ぐらいであろう。久しぶりによく歩いた。
朝早く目が覚めたので、(JR堺市駅発快速の)一番列車に乗り、新大阪駅に着いた。そして、快速で米原へ。米原発大垣行きの列車に乗り換えた。
米原から普通列車で3つ目の駅、柏原駅に到着したのは、午前8時30分ごろだった。
朝早く家を出ることができたので、「柏原宿」到着は予定時刻よりも早かった。駅から20分ほど歩けば、柏原宿中心部に行くことができた。
柏原宿は江戸から数えて60番目の宿である。61番目の醒井(さめがい)宿の隣の宿である。醒井宿は初夏の梅花藻・百日紅の並木・宿場の街並みなどが美しいので、すでに3度ほど訪れている。しかし、柏原宿訪問は初めてだった。
醒井宿は魅力的だと紹介されることが多いが、柏原宿はあまり取り上げられることはない。だから、あまり期待していなかった。ところが、どっこい、柏原宿も素晴らしい宿だった。
宿の中心部に「柏原宿歴史館」があり、宿の家々には江戸時代の商売名を表札代わりに掲げられていた。宿場であった歴史と「町を大切に思う心」が感じられる宿だった。街並みを大切にしている心が歩き旅をする者にも伝わってきた。町がすっきりとしていて、ゴミなどまったく落ちていなかった。
400年近く続いている現役の「もぐさ店」さえある(江戸時代の商売・建物がまだ続いている)のだから驚きましたよ。
柏原宿でかなり時間を過ごした後、次の今須(います)宿へ向かった。
(この続きは、後半へ)
柏原宿中心部
(右手の立派な建物)創業寛文元年(1661)伊吹もぐさ店・亀屋
伊吹山から産出する「よもぎ」を原料にした艾(もぐさ)が柏原宿の名物とのことである。江戸時代には10軒ほどあった「もぐさ店」。そのうちの1軒が、現在も営業中だった。400年近く続いているのだら、「もぐさのパワー」はすごい! 伊吹山の霊力も灸にあるのかな?
伊吹山の麓に柏原宿がある。標高約180mの地に1.4㎞もある近江8宿の中で最大の宿。
いぶきもぐさを商う「伊吹堂亀屋左京店」の番頭「福助」はたいへん働き者で、商売繁盛に貢献した。その福助をモデルにして作られたのが、「福助人形」。商売繁盛を願っての人形である。柏原歴史館にたくさんの福助人形が展示されていた。
幕末期1861年10月24日に、皇女和宮は14代将軍徳川家茂に嫁入りするため、この柏原宿本陣に宿泊している。
中山道歩きは、皇女和宮の移動行程にあわせて(部分的に)歩くことになった。約150年前と自然などの風景はほぼ同じだろうと思いながら…。政略結婚だったにちがいない。どんな気持ちで中山道を移動されておられたのだろうか・・・?
自宅からの総合計歩数は、41729歩だった。一歩=65cmに設定しているので、歩行距離は約27㎞であった。実際はたぶん25㎞ぐらいであろう。久しぶりによく歩いた。
朝早く目が覚めたので、(JR堺市駅発快速の)一番列車に乗り、新大阪駅に着いた。そして、快速で米原へ。米原発大垣行きの列車に乗り換えた。
米原から普通列車で3つ目の駅、柏原駅に到着したのは、午前8時30分ごろだった。
朝早く家を出ることができたので、「柏原宿」到着は予定時刻よりも早かった。駅から20分ほど歩けば、柏原宿中心部に行くことができた。
柏原宿は江戸から数えて60番目の宿である。61番目の醒井(さめがい)宿の隣の宿である。醒井宿は初夏の梅花藻・百日紅の並木・宿場の街並みなどが美しいので、すでに3度ほど訪れている。しかし、柏原宿訪問は初めてだった。
醒井宿は魅力的だと紹介されることが多いが、柏原宿はあまり取り上げられることはない。だから、あまり期待していなかった。ところが、どっこい、柏原宿も素晴らしい宿だった。
宿の中心部に「柏原宿歴史館」があり、宿の家々には江戸時代の商売名を表札代わりに掲げられていた。宿場であった歴史と「町を大切に思う心」が感じられる宿だった。街並みを大切にしている心が歩き旅をする者にも伝わってきた。町がすっきりとしていて、ゴミなどまったく落ちていなかった。
400年近く続いている現役の「もぐさ店」さえある(江戸時代の商売・建物がまだ続いている)のだから驚きましたよ。
柏原宿でかなり時間を過ごした後、次の今須(います)宿へ向かった。
(この続きは、後半へ)
柏原宿中心部
(右手の立派な建物)創業寛文元年(1661)伊吹もぐさ店・亀屋
伊吹山から産出する「よもぎ」を原料にした艾(もぐさ)が柏原宿の名物とのことである。江戸時代には10軒ほどあった「もぐさ店」。そのうちの1軒が、現在も営業中だった。400年近く続いているのだら、「もぐさのパワー」はすごい! 伊吹山の霊力も灸にあるのかな?
伊吹山の麓に柏原宿がある。標高約180mの地に1.4㎞もある近江8宿の中で最大の宿。
いぶきもぐさを商う「伊吹堂亀屋左京店」の番頭「福助」はたいへん働き者で、商売繁盛に貢献した。その福助をモデルにして作られたのが、「福助人形」。商売繁盛を願っての人形である。柏原歴史館にたくさんの福助人形が展示されていた。
幕末期1861年10月24日に、皇女和宮は14代将軍徳川家茂に嫁入りするため、この柏原宿本陣に宿泊している。
中山道歩きは、皇女和宮の移動行程にあわせて(部分的に)歩くことになった。約150年前と自然などの風景はほぼ同じだろうと思いながら…。政略結婚だったにちがいない。どんな気持ちで中山道を移動されておられたのだろうか・・・?
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