2022/5/27
「中山道歩き旅 三留野(みどの)宿から福島宿へ(その3)」 中山道歩き
5月18日、2日目の中山道歩き旅をスタート。
昨日の到達地点(野尻宿中心部)を午前8時20分にスタートすることができました。中央本線沿いの中山道を歩いていくと、国道19号線(=中山道の一部)になった。その国道の途中に、「道の駅 大桑」がありました。トイレ休憩も兼ねて、寄ってみたのですが、どの店も準備中のようでした。午前9時だったからでしょう。
開いている店があったので、入っていったところ、「準備中で、まだ品物を並べていないので・・・申し訳ございません」と、やさしく若い娘さんが声をかけてくれた。
「いえいえ、、こちらこそ早すぎたようで・・・すみません」と、返答。若い娘さんの、優しい声掛けが印象に残った。
道の駅を経過後、国道19号線から離れて、山の中へ入っていった。本来の中山道らしい道だった。上りの道が40分ほど続いた地点に、「水害記念碑」があった。大正12年(1923年)の土石流で、26名が犠牲になった地点に碑が建てられていたのでした。約100年前の災害でした。中山道は災害が多い道だったようです。木曽川沿いですから、災害も多かったようです。
「水害記念碑」の地点から左折して、木曽川の支流の伊奈川を越え、木曽川本流近くの中山道の道を歩いていきました。10時40分ごろに、須原宿中心部に到着しました。
昔の須原宿は1715年、木曽川の氾濫で流出してしまい、1717年(享保2年)に、一段高い現在の地に移転したとのことです。水に恵まれ、宿内には丸太をくりぬいた「水舟」が、あちこちに置かれ、『水舟の里』とも呼ばれたようです。ところが、慶応2年(1866年)の大火で、家並みは消失。宿場の歴史は過酷だったようです。現在、「水舟」を復活させ、随所に設置されていました。
大火後に建てられた建物や水舟のある中山道を味わいながら、歩くことができました。味わいのある宿場でした。本陣は建物がなく、「跡」でした。脇本陣の西尾家は、現在酒造業を営み、銘酒『木曽の桟』の蔵元でした。
須原宿を通り過ぎて、中山道そのものを歩きたかったのですが、「旧中山道は災害発生により、通行不能」の看板が所々に立てられていました。しかたがなく、国道19号線を歩くことにしました。旧中山道は途中までは行けそうですが、戻ってこなければならなかったら大変だから、無理をしないことにしようと判断しました。本来の中山道とは違う道になりましたが、災害が多い道ですので、「安全第一」に歩き旅をしました。(中山道ではないですが、「熱海の土石流」のニュースは目に焼き付いていますから。)近年、全国的に災害の発生が増えていて、復旧も遅れ気味のようです。
国道19号線沿いに安全な道を歩いて、上松宿を目指しました。午後2時40分ごろに、上松宿手前の「小野の滝」に到着しました。木曽川に近い崖の上から落下している(高さ30メートルの)滝でした。初め、気づかなかったのですが、なんと滝の落下口に線路がありました。
(えっ、見上げた滝の横に線路があるじゃないか!? あそこにも、中央本線のレールがあったのか!!)
(ここから続きです。)
滝の横にあるJR中央本線のレールを列車が通過していく音を聞きたかったが、私が滝を見ている時間帯には、列車は通過しなかった。
(それにしても、JR中央本線は険しい場所にレールを設置してあるなあ! トンネルも多いし・・・こりゃあ、災害が発生したら、開通させるのに時間がかかることだろう。)
「小野の滝」でしっかりと休憩後、また歩き始めた。国道19号線の歩道歩きが終わり、中山道(ここでは旧中山道と表示されている道)は木曽川から離れ、山手の方の道になった。上り坂だった。滑川(木曽川の支流)橋を渡った地点で、道は上りではなく、緩やかな下りになった。石畳の道があったりで、(江戸時代の)中山道らしい道になった。木曽川からかなり高い位置に中山道は設置されていた。測ったわけではないが、木曽川の川面から100メートルぐらい高い位置に感じられた中山道。上松中学校が近いようで、中学生が帰宅していく時刻に、上松宿で古い建物が残っている場所で、写真を撮っていた。帰宅していく中学生たちがみんな元気よく、「こんにちは!」と大きな声であいさつしてくれた。どの生徒も元気が良かった。うれしくなって、こちらも大きな声で返答。
古い建物をいろいろな角度から写真を撮っていることに、不思議そうな顔をしている生徒もいた。彼ら彼女らにとって、毎日見ている古い建物、二軒。私にとっては、感動しながらの撮影だった。
それらの建物は「越前屋(1624年創業の旅館)・蕎麦屋」と「『たせや』という立場の茶屋だった建物」でした。木曽川から離れた位置で、休憩したくなる場所で、そばを食べたくなりし、休憩もしたくなる場所(宿と宿の間の休憩場所=立場)でもあった。中山道を歩いてみて、実感できたことでした。
この地点は、須原宿と上松宿(中心地)との間の地点でした。
「越前屋」をカメラに収めてから、上松宿本陣跡を目指した。本陣跡や脇本陣跡を探しては見たが、わからなかった。夕方になりかけていたので、どちらも「跡」だから、「建物は残っていないし…」と、探すのをあきらめて、予約している旅館を目指した。
木曽川沿いの国道19号線に沿った道を歩き出した。新しい国道らしき道ができていた。(あとでわかったのだが、バイパスだった。)車はほとんど、その道へ。私もつい、その道に沿って歩き出していた。
(これは中山道ではないかも…。違うかも?)と、思い直し、新しい道を戻ってみた。そしたら、木曽川へ降りていく階段があり、コンクリートの地下道があった。その新しい地下道を潜り抜けたところに、また階段があり、その階段を上っていくと、国道19号線があった。しかし、ほとんど車は通らなかった。ひっそりとした国道だった。19号線の標識もあったし、木曽川沿いだったので、中山道に間違いはなかった。
ほんの少しだが、車も通った。(ははーん、バイパスができて、車はほとんどバイパスを利用しているらしい。)と、納得できた。
あれこれ考えているうちに、予約しておいた「桟温泉旅館」に到着できた。午後5時になっていた。
朝8時30分から午後5時まで、休憩を入れながら、歩いたので、疲れ切っていた。すぐに、天然温泉に入れてもらって、体を休めた。適度の泉温だったのでゆっくりとつかることができた。温泉の湯船から『木曾の棧』(きそのかけはし)跡を望むことができた。
(あの石積みの部分が、江戸時代の設置当時は、木で作られていたんだなあ・・・)と、湯船から眺めたのだった。まだ、明るかったので、しっかり見ることができた。
夕食をいただき、その後早めに眠りについた。
歩き旅3日目。朝食後、しばらくして写真を撮りつつ、赤い橋(この橋は「棧」ではなく、普通の橋。木曽川を渡るための橋。「木曽の棧」とは、木曽川という岩壁にそった中山道の一部で、板の道だった、ということでした。
木曽川の難所だったところで、岩壁が続き、道を作れなかった場所でした。その岩壁に木の杭を打ち込んで、その杭に板を渡し、道としたようです。超危険な箇所で、中山道3大難所でした。木製ゆえに、火災が起こり、(1648年に)焼失したようです。一年後、木の杭の代わりに、石積みにして中山道が通れるようになったとの歴史があるようです。その石積みがの残され、「木曽の棧」跡として、保存されていました。
近くに、松尾芭蕉・山頭火・正岡子規らの歌碑が建てられていました。それらの碑をカメラに収め、中山道歩きの最終日をスタートしました。最終日の目的地は、JR木曽福島駅へ。
福島宿の中心地や福島関所跡は以前に訪れていました。
宿泊した旅館から2時間足らずで、午前10時20分に木曽福島駅に到着出来ました。
普通列車は12時前に来るようでしたが、気分的に疲れていたので、(10時30分に特急が止まる駅だったので)、特急に乗ることにしました。節約のため、名古屋までではなく、中津川駅までの特急券を購入しました。
特急は早かった。次の駅が「中津川駅」でした。中津川駅から快速に乗り換え、名古屋へ、そして快速や新快速の乗り換え、堺市駅まで。
家に夕飯までに帰宅することができました。
以上、2泊3日の中山道(木曽路)歩き旅の報告です。今回は、特に足が腫れることなく、終えることができました。この続きは、いつになるかな? 夏は暑いし…。
須原宿「水舟の里」 の街並み
正岡子規歌碑 (水舟の後ろに歌碑 子規は明治24年に須原宿に宿泊している。)
小野の滝(30m) すぐ近くにJR中央本線のレール。
上松宿(木曽川の「寝覚ノ床」より近いが、、かなり山手の道、中山道で、2軒の江戸時代の建物が残っていた。素晴らしい!
江戸時代の建物、(手前が)越前屋(蕎麦屋)で、松尾芭蕉や十返舎一九などが賞味しているとのこと。残念ながら、私が通ったときは蕎麦屋としては、営業していなかった。現在、旅館らしい。すごい建物だった。この建物を見ただけでも感激しましたね。
*後日、わかったこと。蕎麦屋は旧中山道(私が歩いた道)の越後屋の建物では、現在は蕎麦屋を営業していなくて、国道19号線沿いに新たに店を構え、営業しているとのことでした。
今後、上松駅に行く機会があれば、国道19号線沿いの(新店舗)越前屋の「長寿そば」を食してみたいと思っています。味は松尾芭蕉や十返舎一九などが召し上がった頃の味を守り通していることでしょうから。
上松宿 中心部付近 古い建物は少なかった
木曽川 崖が迫っており、中山道の難所
木曽の棧(かけはし)跡 石積の崖が木曽路の歴史を物語っている。
現在、国道19号線 コンクリートの道です。
江戸時代当初の中山道は、岩壁に沿って丸太を組み、棚のように突き出した(岩壁にへばりついた)板道だった。1648年、旅人が松明の不始末で焼失させてしまった。翌年、尾張藩が石積みの棧(かけはし)を完成させた、とのこと。この「木曽の棧」は、中山道三大難所の一つ。他2か所は「太田の渡し」と「碓氷峠」でした。
岩壁の石積みが難所の歴史を物語っている。そのことが木曽川岩壁の壁面に書かれているらしい。(遠くて読めなかったが・・・)
桟温泉旅館 木曽川に面している旅館だった。天然温泉だったので、この旅館で宿泊した。
部屋から、「木曽の棧跡(石積み)」が見えていた。
福島宿の一里塚跡 福島宿は中山道のほぼ中間地点
(江戸まで68里・京都まで69里)
昨日の到達地点(野尻宿中心部)を午前8時20分にスタートすることができました。中央本線沿いの中山道を歩いていくと、国道19号線(=中山道の一部)になった。その国道の途中に、「道の駅 大桑」がありました。トイレ休憩も兼ねて、寄ってみたのですが、どの店も準備中のようでした。午前9時だったからでしょう。
開いている店があったので、入っていったところ、「準備中で、まだ品物を並べていないので・・・申し訳ございません」と、やさしく若い娘さんが声をかけてくれた。
「いえいえ、、こちらこそ早すぎたようで・・・すみません」と、返答。若い娘さんの、優しい声掛けが印象に残った。
道の駅を経過後、国道19号線から離れて、山の中へ入っていった。本来の中山道らしい道だった。上りの道が40分ほど続いた地点に、「水害記念碑」があった。大正12年(1923年)の土石流で、26名が犠牲になった地点に碑が建てられていたのでした。約100年前の災害でした。中山道は災害が多い道だったようです。木曽川沿いですから、災害も多かったようです。
「水害記念碑」の地点から左折して、木曽川の支流の伊奈川を越え、木曽川本流近くの中山道の道を歩いていきました。10時40分ごろに、須原宿中心部に到着しました。
昔の須原宿は1715年、木曽川の氾濫で流出してしまい、1717年(享保2年)に、一段高い現在の地に移転したとのことです。水に恵まれ、宿内には丸太をくりぬいた「水舟」が、あちこちに置かれ、『水舟の里』とも呼ばれたようです。ところが、慶応2年(1866年)の大火で、家並みは消失。宿場の歴史は過酷だったようです。現在、「水舟」を復活させ、随所に設置されていました。
大火後に建てられた建物や水舟のある中山道を味わいながら、歩くことができました。味わいのある宿場でした。本陣は建物がなく、「跡」でした。脇本陣の西尾家は、現在酒造業を営み、銘酒『木曽の桟』の蔵元でした。
須原宿を通り過ぎて、中山道そのものを歩きたかったのですが、「旧中山道は災害発生により、通行不能」の看板が所々に立てられていました。しかたがなく、国道19号線を歩くことにしました。旧中山道は途中までは行けそうですが、戻ってこなければならなかったら大変だから、無理をしないことにしようと判断しました。本来の中山道とは違う道になりましたが、災害が多い道ですので、「安全第一」に歩き旅をしました。(中山道ではないですが、「熱海の土石流」のニュースは目に焼き付いていますから。)近年、全国的に災害の発生が増えていて、復旧も遅れ気味のようです。
国道19号線沿いに安全な道を歩いて、上松宿を目指しました。午後2時40分ごろに、上松宿手前の「小野の滝」に到着しました。木曽川に近い崖の上から落下している(高さ30メートルの)滝でした。初め、気づかなかったのですが、なんと滝の落下口に線路がありました。
(えっ、見上げた滝の横に線路があるじゃないか!? あそこにも、中央本線のレールがあったのか!!)
(ここから続きです。)
滝の横にあるJR中央本線のレールを列車が通過していく音を聞きたかったが、私が滝を見ている時間帯には、列車は通過しなかった。
(それにしても、JR中央本線は険しい場所にレールを設置してあるなあ! トンネルも多いし・・・こりゃあ、災害が発生したら、開通させるのに時間がかかることだろう。)
「小野の滝」でしっかりと休憩後、また歩き始めた。国道19号線の歩道歩きが終わり、中山道(ここでは旧中山道と表示されている道)は木曽川から離れ、山手の方の道になった。上り坂だった。滑川(木曽川の支流)橋を渡った地点で、道は上りではなく、緩やかな下りになった。石畳の道があったりで、(江戸時代の)中山道らしい道になった。木曽川からかなり高い位置に中山道は設置されていた。測ったわけではないが、木曽川の川面から100メートルぐらい高い位置に感じられた中山道。上松中学校が近いようで、中学生が帰宅していく時刻に、上松宿で古い建物が残っている場所で、写真を撮っていた。帰宅していく中学生たちがみんな元気よく、「こんにちは!」と大きな声であいさつしてくれた。どの生徒も元気が良かった。うれしくなって、こちらも大きな声で返答。
古い建物をいろいろな角度から写真を撮っていることに、不思議そうな顔をしている生徒もいた。彼ら彼女らにとって、毎日見ている古い建物、二軒。私にとっては、感動しながらの撮影だった。
それらの建物は「越前屋(1624年創業の旅館)・蕎麦屋」と「『たせや』という立場の茶屋だった建物」でした。木曽川から離れた位置で、休憩したくなる場所で、そばを食べたくなりし、休憩もしたくなる場所(宿と宿の間の休憩場所=立場)でもあった。中山道を歩いてみて、実感できたことでした。
この地点は、須原宿と上松宿(中心地)との間の地点でした。
「越前屋」をカメラに収めてから、上松宿本陣跡を目指した。本陣跡や脇本陣跡を探しては見たが、わからなかった。夕方になりかけていたので、どちらも「跡」だから、「建物は残っていないし…」と、探すのをあきらめて、予約している旅館を目指した。
木曽川沿いの国道19号線に沿った道を歩き出した。新しい国道らしき道ができていた。(あとでわかったのだが、バイパスだった。)車はほとんど、その道へ。私もつい、その道に沿って歩き出していた。
(これは中山道ではないかも…。違うかも?)と、思い直し、新しい道を戻ってみた。そしたら、木曽川へ降りていく階段があり、コンクリートの地下道があった。その新しい地下道を潜り抜けたところに、また階段があり、その階段を上っていくと、国道19号線があった。しかし、ほとんど車は通らなかった。ひっそりとした国道だった。19号線の標識もあったし、木曽川沿いだったので、中山道に間違いはなかった。
ほんの少しだが、車も通った。(ははーん、バイパスができて、車はほとんどバイパスを利用しているらしい。)と、納得できた。
あれこれ考えているうちに、予約しておいた「桟温泉旅館」に到着できた。午後5時になっていた。
朝8時30分から午後5時まで、休憩を入れながら、歩いたので、疲れ切っていた。すぐに、天然温泉に入れてもらって、体を休めた。適度の泉温だったのでゆっくりとつかることができた。温泉の湯船から『木曾の棧』(きそのかけはし)跡を望むことができた。
(あの石積みの部分が、江戸時代の設置当時は、木で作られていたんだなあ・・・)と、湯船から眺めたのだった。まだ、明るかったので、しっかり見ることができた。
夕食をいただき、その後早めに眠りについた。
歩き旅3日目。朝食後、しばらくして写真を撮りつつ、赤い橋(この橋は「棧」ではなく、普通の橋。木曽川を渡るための橋。「木曽の棧」とは、木曽川という岩壁にそった中山道の一部で、板の道だった、ということでした。
木曽川の難所だったところで、岩壁が続き、道を作れなかった場所でした。その岩壁に木の杭を打ち込んで、その杭に板を渡し、道としたようです。超危険な箇所で、中山道3大難所でした。木製ゆえに、火災が起こり、(1648年に)焼失したようです。一年後、木の杭の代わりに、石積みにして中山道が通れるようになったとの歴史があるようです。その石積みがの残され、「木曽の棧」跡として、保存されていました。
近くに、松尾芭蕉・山頭火・正岡子規らの歌碑が建てられていました。それらの碑をカメラに収め、中山道歩きの最終日をスタートしました。最終日の目的地は、JR木曽福島駅へ。
福島宿の中心地や福島関所跡は以前に訪れていました。
宿泊した旅館から2時間足らずで、午前10時20分に木曽福島駅に到着出来ました。
普通列車は12時前に来るようでしたが、気分的に疲れていたので、(10時30分に特急が止まる駅だったので)、特急に乗ることにしました。節約のため、名古屋までではなく、中津川駅までの特急券を購入しました。
特急は早かった。次の駅が「中津川駅」でした。中津川駅から快速に乗り換え、名古屋へ、そして快速や新快速の乗り換え、堺市駅まで。
家に夕飯までに帰宅することができました。
以上、2泊3日の中山道(木曽路)歩き旅の報告です。今回は、特に足が腫れることなく、終えることができました。この続きは、いつになるかな? 夏は暑いし…。
須原宿「水舟の里」 の街並み
正岡子規歌碑 (水舟の後ろに歌碑 子規は明治24年に須原宿に宿泊している。)
小野の滝(30m) すぐ近くにJR中央本線のレール。
上松宿(木曽川の「寝覚ノ床」より近いが、、かなり山手の道、中山道で、2軒の江戸時代の建物が残っていた。素晴らしい!
江戸時代の建物、(手前が)越前屋(蕎麦屋)で、松尾芭蕉や十返舎一九などが賞味しているとのこと。残念ながら、私が通ったときは蕎麦屋としては、営業していなかった。現在、旅館らしい。すごい建物だった。この建物を見ただけでも感激しましたね。
*後日、わかったこと。蕎麦屋は旧中山道(私が歩いた道)の越後屋の建物では、現在は蕎麦屋を営業していなくて、国道19号線沿いに新たに店を構え、営業しているとのことでした。
今後、上松駅に行く機会があれば、国道19号線沿いの(新店舗)越前屋の「長寿そば」を食してみたいと思っています。味は松尾芭蕉や十返舎一九などが召し上がった頃の味を守り通していることでしょうから。
上松宿 中心部付近 古い建物は少なかった
木曽川 崖が迫っており、中山道の難所
木曽の棧(かけはし)跡 石積の崖が木曽路の歴史を物語っている。
現在、国道19号線 コンクリートの道です。
江戸時代当初の中山道は、岩壁に沿って丸太を組み、棚のように突き出した(岩壁にへばりついた)板道だった。1648年、旅人が松明の不始末で焼失させてしまった。翌年、尾張藩が石積みの棧(かけはし)を完成させた、とのこと。この「木曽の棧」は、中山道三大難所の一つ。他2か所は「太田の渡し」と「碓氷峠」でした。
岩壁の石積みが難所の歴史を物語っている。そのことが木曽川岩壁の壁面に書かれているらしい。(遠くて読めなかったが・・・)
桟温泉旅館 木曽川に面している旅館だった。天然温泉だったので、この旅館で宿泊した。
部屋から、「木曽の棧跡(石積み)」が見えていた。
福島宿の一里塚跡 福島宿は中山道のほぼ中間地点
(江戸まで68里・京都まで69里)
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2022/5/23
「中山道歩き旅 三留野(みどの)宿から福島宿へ(その2)」 中山道歩き
約3年半前(2018年12月10日より1泊2日で)に、青春18切符利用で、木曽路を歩いている。
その時の行程は、JR中津川駅→落合宿→馬籠宿(一泊)→妻籠宿→JR南木曽駅でした。
あれから3年半後の2022年5月17日に、木曽路歩きの続きを実施してきました。久しぶりの木曽路でしたので、なんとなくウキウキする気分でスタートしました。
南木曽駅の近くの中山道から木曽川を眺めてみると、大きなつり橋を見ることができる。このつり橋は中山道ではないが、渡ることができた。1922年(大正11年)に福沢桃介(福沢諭吉の婿養子。実業家として木曽川の水力発電に力を注いだ人。のちに「電力王」と称えられた。)が、読書(よみかき)発電所建設資材運搬路として架けた橋で、全長247メートルの木道のつり橋。国重要文化財に指定されていた。
2年ほど前にドライブで、この地を訪れたときに、歩いて渡ってみました。立派な橋で「桃介橋」と名づけられていました。
中山道(木曽路)は概ね木曽川に沿っている道でした。現在、国道19号線の近くを中山道が通り、または国道19号線そのものが中山道でした。国道19号線の車道の横に歩道が設置されていることが多かった。ところが、トラックなどがフルスピードで走行していくので、交通量が多く、車道を横断するときなど(信号のないところもあり)、ところどころでは恐ろしい「中山道歩き」になりました。
とにかく、気を引き締めて横断しました。ひどい場合、「この先、歩道はありません」や「歩道は工事中、通行禁止」という看板があったり・・・。
(で、どこを歩けばいいのだ? と独り言)
車の流れが少なくなるタイミングで、車道を歩かざるをえませんでした。交通量が多い19号線は長野県の幹線国道。「のんびり中山道歩き旅」とはいかず、「緊張歩き」がしばしばでした。
各宿場町の中心部は、国道19号線から少し離れていたので、安心してのんびりと歩くことができました。
三留野宿中心部には、「鮎沢本陣跡」の説明板がありましたが、建物は何もありませんでした。中山道各宿場の本陣や脇本陣で、現在も残っている建物は少ないですね。江戸時代、本陣や脇本陣はその宿で一番栄えていた家が多いのですが、「時代の流れ」なのでしょうか、街道筋の衰退なのでしょうか・・・、東海道、中山道など「どの街道筋」も、衰退しているところがほとんどのように思われます。
本陣「跡」の碑・説明板があればまだしも、それさえもない宿場もありました。概ね、江戸時代に栄えた家が現代も栄えている家は少ないようです。中山道を44宿歩いて訪問していますが、つくづく「栄枯盛衰」を意識させられました。
三留野宿を経過して、約10km先の野尻宿へ向かいました。野尻宿本陣も建物は残っていませんでした。
夕方になり、予約しておいた「阿寺温泉」に向かおうと、旅館に「JR野尻駅まで迎えに来ていただけませんか?」と電話を入れました。
そしたら、「今人手がなく、迎えに行けない」と断られました。旅館は駅から約3㎞ほどあるので、足の痛さもあり、「困ったなあ…」と思案しました。駅前にタクシー乗り場があったので、「タクシー利用にしようかな?」と、迷っていると・・・バス停が目に入りました。コミュニティバスがありました。さっそくバスの時刻を見つめました。
「おっ、あと20分後にバスがあるぞ!」と、大発見(感激)。たった一日3本のバスだったのです! 最終便に乗れることを発見したので、感激。(タクシー代を節約できましたから。) 20分後、時刻通りにバスが来てくれました。料金は、200円でした。
夕刻に旅館に到着でき、ゆっくりと「温泉」につかり、足腰をもんで疲れをとることができました。
朝になり、人手がいたようなので、旅館の人が野尻駅まで送ってくださいました。ありがたかったです。
中山道の歩き旅「2日目のスタート」は「野尻駅」前でした。
(この続きは「その3」へ)
写真中心部に「桃介橋」が写っています。木道のつり橋。
下を流れる川が木曽川です。
その時の行程は、JR中津川駅→落合宿→馬籠宿(一泊)→妻籠宿→JR南木曽駅でした。
あれから3年半後の2022年5月17日に、木曽路歩きの続きを実施してきました。久しぶりの木曽路でしたので、なんとなくウキウキする気分でスタートしました。
南木曽駅の近くの中山道から木曽川を眺めてみると、大きなつり橋を見ることができる。このつり橋は中山道ではないが、渡ることができた。1922年(大正11年)に福沢桃介(福沢諭吉の婿養子。実業家として木曽川の水力発電に力を注いだ人。のちに「電力王」と称えられた。)が、読書(よみかき)発電所建設資材運搬路として架けた橋で、全長247メートルの木道のつり橋。国重要文化財に指定されていた。
2年ほど前にドライブで、この地を訪れたときに、歩いて渡ってみました。立派な橋で「桃介橋」と名づけられていました。
中山道(木曽路)は概ね木曽川に沿っている道でした。現在、国道19号線の近くを中山道が通り、または国道19号線そのものが中山道でした。国道19号線の車道の横に歩道が設置されていることが多かった。ところが、トラックなどがフルスピードで走行していくので、交通量が多く、車道を横断するときなど(信号のないところもあり)、ところどころでは恐ろしい「中山道歩き」になりました。
とにかく、気を引き締めて横断しました。ひどい場合、「この先、歩道はありません」や「歩道は工事中、通行禁止」という看板があったり・・・。
(で、どこを歩けばいいのだ? と独り言)
車の流れが少なくなるタイミングで、車道を歩かざるをえませんでした。交通量が多い19号線は長野県の幹線国道。「のんびり中山道歩き旅」とはいかず、「緊張歩き」がしばしばでした。
各宿場町の中心部は、国道19号線から少し離れていたので、安心してのんびりと歩くことができました。
三留野宿中心部には、「鮎沢本陣跡」の説明板がありましたが、建物は何もありませんでした。中山道各宿場の本陣や脇本陣で、現在も残っている建物は少ないですね。江戸時代、本陣や脇本陣はその宿で一番栄えていた家が多いのですが、「時代の流れ」なのでしょうか、街道筋の衰退なのでしょうか・・・、東海道、中山道など「どの街道筋」も、衰退しているところがほとんどのように思われます。
本陣「跡」の碑・説明板があればまだしも、それさえもない宿場もありました。概ね、江戸時代に栄えた家が現代も栄えている家は少ないようです。中山道を44宿歩いて訪問していますが、つくづく「栄枯盛衰」を意識させられました。
三留野宿を経過して、約10km先の野尻宿へ向かいました。野尻宿本陣も建物は残っていませんでした。
夕方になり、予約しておいた「阿寺温泉」に向かおうと、旅館に「JR野尻駅まで迎えに来ていただけませんか?」と電話を入れました。
そしたら、「今人手がなく、迎えに行けない」と断られました。旅館は駅から約3㎞ほどあるので、足の痛さもあり、「困ったなあ…」と思案しました。駅前にタクシー乗り場があったので、「タクシー利用にしようかな?」と、迷っていると・・・バス停が目に入りました。コミュニティバスがありました。さっそくバスの時刻を見つめました。
「おっ、あと20分後にバスがあるぞ!」と、大発見(感激)。たった一日3本のバスだったのです! 最終便に乗れることを発見したので、感激。(タクシー代を節約できましたから。) 20分後、時刻通りにバスが来てくれました。料金は、200円でした。
夕刻に旅館に到着でき、ゆっくりと「温泉」につかり、足腰をもんで疲れをとることができました。
朝になり、人手がいたようなので、旅館の人が野尻駅まで送ってくださいました。ありがたかったです。
中山道の歩き旅「2日目のスタート」は「野尻駅」前でした。
(この続きは「その3」へ)
写真中心部に「桃介橋」が写っています。木道のつり橋。
下を流れる川が木曽川です。
三留野宿本陣跡 皇女和宮降嫁の際に宿泊した本陣ですが、建物はありません。
中山道 古い建物が街道筋に(少しでしたが)建っていました。
車道と歩道がきちんと分離している街道は歩きやすかった。
現在も営業中の旅館。野尻宿中心部の「庭田屋」
雰囲気のある建物でした。「男はつらいよ」のロケで使われた建物。
「フーテンの寅さん」が泊まった旅館。
私はこの旅館には泊まらず、近くの温泉旅館に泊まりました。足腰の疲れを癒すために、「温泉」があれば、利用するようにしています。
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2022/5/20
「中山道歩き旅 三留野(みどの)宿から福島宿へ(その1)」 中山道歩き
5月17日より2泊3日の予定で、中山道歩きを実施。
早朝(午前5時半)に家を出て、JR堺市駅より中央本線の南木曽(なぎそ)駅を目指しました。中津川駅までは、乗り換え時間があまりなく、順調に乗り換えられました。中津川駅で、40分待たされました。中津川駅より遠方は列車の本数がかなり減るからです。なんとか、南木曽駅に到着できたのは12時18分でした。(朝ゆっくりしていたら、もっと遅くなります。)
木曽路の中でも有名な(江戸から数えて42番目の宿)妻籠宿には、3度訪れたことがありましたが、それより江戸に近い(41)三留野宿方面へは、行ったことがありませんでした。
今回の歩き旅は、南木曽駅をスタートに、(41)三留野宿→(40)野尻宿→(39)須原宿→(38)上松(あげまつ)宿→(37)福島宿 までの中山道(木曽路)を歩きました。
2泊3日とはいえ、1日目と3日目は列車の移動時間が長くかかり、2日目のみが朝から夕方までたっぷりと歩くことができたしだいです。
中山道の歩き旅制覇は、なかなか大変ですね。(年金生活ゆえに)限られた予算のこともあり、新幹線利用はしていないからです。今回、新たに4宿を訪れることができましたが、今まで訪れた宿とあわせてやっと44宿です。中山道は69宿。まだ25宿も残っています。
歩ける体が続く限り、挑戦しようと思っていますが・・・?
とにかく今回で木曽路11宿中、9宿を訪れることができました。木曽路で残るは、(36)宮ノ越宿と(33)贄川宿になりました。
信濃路・上州路などの宿は(堺から)遠いので、多くの宿を歩いて訪れていません。新幹線を利用したいのですが・・・、予算に限りがありますので。(主に青春18切符利用で歩き旅を楽しんでいます。今回は利用できない期間でしたので、節約できませんでした。)
1日目 南木曽駅→三留野宿→野尻宿の手前まで
19336歩(約12㎞)
2日目 野尻宿→須原宿→上松宿を過ぎたところ
42314歩(約25㎞)
3日目 上松宿 → 福島宿(JR木曽福島駅)
11278歩(約 7㎞)
以上、全体的な歩き旅の状況です。詳しくは(その2)を読んでいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
街道標示板
街道標示矢印
(細い階段の道が中山道です。矢印がなければ、広い道を歩いてまっすぐに行くという失敗をしてしまう。広い道から細い道に入るとき、こういう矢印があることが多い。これを見落とすと、街道とは違う道に迷ってしまいます。時々、その失敗があります。街道歩きは難しい時があります。矢印がない場合もあり、難しいですね。
石の標柱 板よりも味わいがあります。
同じく石の標柱です。
この単線がJR中央本線(の一部)です。この踏切も中山道です。中央本線は江戸時代の中山道の近くに沿って走っています。トンネルの部分は、(中山道では)峠道であることが多く、鳥居峠などの峠越えでは(以前)苦労しました。
中山道の標示板には、いろいろなものがありました。比較的新しく、読みやすい標示板が多かったです。
早朝(午前5時半)に家を出て、JR堺市駅より中央本線の南木曽(なぎそ)駅を目指しました。中津川駅までは、乗り換え時間があまりなく、順調に乗り換えられました。中津川駅で、40分待たされました。中津川駅より遠方は列車の本数がかなり減るからです。なんとか、南木曽駅に到着できたのは12時18分でした。(朝ゆっくりしていたら、もっと遅くなります。)
木曽路の中でも有名な(江戸から数えて42番目の宿)妻籠宿には、3度訪れたことがありましたが、それより江戸に近い(41)三留野宿方面へは、行ったことがありませんでした。
今回の歩き旅は、南木曽駅をスタートに、(41)三留野宿→(40)野尻宿→(39)須原宿→(38)上松(あげまつ)宿→(37)福島宿 までの中山道(木曽路)を歩きました。
2泊3日とはいえ、1日目と3日目は列車の移動時間が長くかかり、2日目のみが朝から夕方までたっぷりと歩くことができたしだいです。
中山道の歩き旅制覇は、なかなか大変ですね。(年金生活ゆえに)限られた予算のこともあり、新幹線利用はしていないからです。今回、新たに4宿を訪れることができましたが、今まで訪れた宿とあわせてやっと44宿です。中山道は69宿。まだ25宿も残っています。
歩ける体が続く限り、挑戦しようと思っていますが・・・?
とにかく今回で木曽路11宿中、9宿を訪れることができました。木曽路で残るは、(36)宮ノ越宿と(33)贄川宿になりました。
信濃路・上州路などの宿は(堺から)遠いので、多くの宿を歩いて訪れていません。新幹線を利用したいのですが・・・、予算に限りがありますので。(主に青春18切符利用で歩き旅を楽しんでいます。今回は利用できない期間でしたので、節約できませんでした。)
1日目 南木曽駅→三留野宿→野尻宿の手前まで
19336歩(約12㎞)
2日目 野尻宿→須原宿→上松宿を過ぎたところ
42314歩(約25㎞)
3日目 上松宿 → 福島宿(JR木曽福島駅)
11278歩(約 7㎞)
以上、全体的な歩き旅の状況です。詳しくは(その2)を読んでいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
街道標示板
街道標示矢印
(細い階段の道が中山道です。矢印がなければ、広い道を歩いてまっすぐに行くという失敗をしてしまう。広い道から細い道に入るとき、こういう矢印があることが多い。これを見落とすと、街道とは違う道に迷ってしまいます。時々、その失敗があります。街道歩きは難しい時があります。矢印がない場合もあり、難しいですね。
石の標柱 板よりも味わいがあります。
同じく石の標柱です。
この単線がJR中央本線(の一部)です。この踏切も中山道です。中央本線は江戸時代の中山道の近くに沿って走っています。トンネルの部分は、(中山道では)峠道であることが多く、鳥居峠などの峠越えでは(以前)苦労しました。
中山道の標示板には、いろいろなものがありました。比較的新しく、読みやすい標示板が多かったです。
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