2018年2月18日ヤフーブログに投稿した記事より
福島県・三貫地貝塚から出土した100体を超える人骨の内、男女2体の頭骨(東大総合研究博物館所蔵)から奥歯(大臼歯 きゅうし)1本ずつを取り出して提供された検体から縄文人の核ゲノムDNAの塩基32億個のうちの1億5000万個の解読に成功し、東京周辺の本土人(ヤマト人)と比較解析した研究で注目されている国立遺伝学研究所の斎藤成也博士は以前のmtDNAでの解析結果から、「恐らく縄文人の核DNAの遺伝情報を本土ヤマト人よりも(最も色濃く)50%程度アイヌは受け継いでいるのではないか」と推測しておられます。
アイヌの人々は、江戸末期まで、北海道のみならず、東北や樺太の辺りにも住んでいました。彼らはほぼ縄文人の末裔と考えてよい、つまり、縄文人達は縄文前期から中期ごろまでは宗谷海峡を越えて樺太にも住んでいた。そしてもしかしたら更に内陸のシベリア北部まで移動していたのかもしれません。宗谷海峡は水深が45mと浅く、氷河期には北海道は樺太で大陸と陸続きだったと考えられています。
その後、約1万3000年前 日本列島が大陸から完全に離れ、ほぼ今の形を整えたと考えられ、その頃に樺太と北海道の間の宗谷海峡が海水面下に没したと考えられているようです。
水深が150mといわれる津軽海峡も氷河期のピーク時には水深20mほどの浅い海であったため、縄文人たちは流氷を伝ったりあるいは舟のようなもので北海道と東北の間を比較的自由に行き来していたようです。
北海道と北東北地方の縄文前期~中期の遺跡か発見された土器には、極めて高い類似性が見られるそうです。それらの形は筒型で、口縁部は山型の突起のあるもや、ラッパ状に開いてひも状の貼り付け装飾が施されているのが特徴。
この時期に津軽海峡の両側の地域に発達した文化は、円筒土器文化と呼ばれています。土器以外でも石器や石製品等にも両地域の共通点が多くみられ、海を渡っての交流が盛んだったことを示しています。
引用:「縄文時代はいつから?」小林謙一
http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20120820.html
https://ameblo.jp/oldworld/entry-11356479391.html
福島県・三貫地貝塚から出土した100体を超える人骨の内、男女2体の頭骨(東大総合研究博物館所蔵)から奥歯(大臼歯 きゅうし)1本ずつを取り出して提供された検体から縄文人の核ゲノムDNAの塩基32億個のうちの1億5000万個の解読に成功し、東京周辺の本土人(ヤマト人)と比較解析した研究で注目されている国立遺伝学研究所の斎藤成也博士は以前のmtDNAでの解析結果から、「恐らく縄文人の核DNAの遺伝情報を本土ヤマト人よりも(最も色濃く)50%程度アイヌは受け継いでいるのではないか」と推測しておられます。
アイヌの人々は、江戸末期まで、北海道のみならず、東北や樺太の辺りにも住んでいました。彼らはほぼ縄文人の末裔と考えてよい、つまり、縄文人達は縄文前期から中期ごろまでは宗谷海峡を越えて樺太にも住んでいた。そしてもしかしたら更に内陸のシベリア北部まで移動していたのかもしれません。宗谷海峡は水深が45mと浅く、氷河期には北海道は樺太で大陸と陸続きだったと考えられています。
その後、約1万3000年前 日本列島が大陸から完全に離れ、ほぼ今の形を整えたと考えられ、その頃に樺太と北海道の間の宗谷海峡が海水面下に没したと考えられているようです。
水深が150mといわれる津軽海峡も氷河期のピーク時には水深20mほどの浅い海であったため、縄文人たちは流氷を伝ったりあるいは舟のようなもので北海道と東北の間を比較的自由に行き来していたようです。
北海道と北東北地方の縄文前期~中期の遺跡か発見された土器には、極めて高い類似性が見られるそうです。それらの形は筒型で、口縁部は山型の突起のあるもや、ラッパ状に開いてひも状の貼り付け装飾が施されているのが特徴。
この時期に津軽海峡の両側の地域に発達した文化は、円筒土器文化と呼ばれています。土器以外でも石器や石製品等にも両地域の共通点が多くみられ、海を渡っての交流が盛んだったことを示しています。
引用:「縄文時代はいつから?」小林謙一
http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20120820.html
https://ameblo.jp/oldworld/entry-11356479391.html