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ソビエト連邦の成立と崩壊の意味

2019-03-10 19:22:43 | ロシア
2018/7/30(月) 午前 1:59

現在のロシア国旗は実はロマノフ王朝時代の帝政ロシアの国旗が復活したものです。つまり、現在のロシアはソ連の後継者ではなく、帝政ロシアを引き継いだ国家という位置づけのようです。

では帝政ロシアと現在のロシアの歴史的中間にあった「ソビエト社会主義共和国連邦」とは何だったのか。


世界最初の社会主義国家「ソビエト社会主義共和国連邦」(ソ連)は1922年から91年まで存在した「世界最大」の国家でした。そして「共産主義」というイデオロギーによってつくられた「壮大な社会実験国家」であったともいえます。


「ソビエト」とはロシア語で「評議会」という意味で、戦前は「同盟」とも訳されていたようです。しかし、在日ソ連大使館では戦前から一貫して「連邦」という訳語を使用してきたため日本では「ソ連」という略称も。

ソ連の成立から崩壊までをざっくりみてみることに。



「ソビエトの成立:ロシア革命~第二次世界大戦まで」
ソビエトの成立の歴史はニコライ2世率いるロシア帝国時代の1910年代の「ロシア革命」から始まっていました。日露戦争(1904年2月~1905年9月)を戦っていた1905年1月5日、首都であるサンクトペテルブルグで起こった戦争中止・労働者の権利保護を訴える平和デモ行進に対して兵士が発砲、4000人以上ともいわれる死傷者を出した「血の日曜日事件」です。

この事件で「皇帝に対する信頼や願い」が打ち砕かれ、この波紋からロシア全土で労働者によるストライキが発生。全国で農民の反乱が相次ぎ、その混乱を収めるため、皇帝は議会の設立の勅令を出し、資本家セルゲイ・ヴィッテを首相に任命、立憲主義に移行。国会(ドゥーマ)の開設を認め、更に、信教、言論、集会、結社の自由など市民的自由を認める「十月宣言」を出し、自由主義者と一部の社会主義者が革命勢力から離脱し、事態は沈静化。(第一次革命)

社会主義革命を目指したリーダー達はロシア国外に脱出し再起の時期を探ることに。第一次世界大戦が勃発すると、ロシア全土は愛国的熱狂に沸き、内政の不満が解消。しかし、長引く戦争は国民生活に打撃を与え、皇帝は国民からの支持を失っていきました。そして第二次革命が起きます。

1917年2月(ユリウス暦)に反戦と平和を訴える大規模なストライキと暴動が全国に広がり、軍隊にも大きな反乱が発生、皇帝ニコライ2世は捕らえられ、(二月革命)その後、1918年エカテリンブルグのイパチェフ館で一家は殺害されロマノフ王朝が終焉。

皇帝一家の殺害命令を下したのはレーニンであったとされています。(但し彼は処刑への関与を示す文書を一切残さなかった)幼い子供も含め一人残らず殺されていることに驚愕するのですが、皇帝一家の血を断ち帝政ロシアと決別するのための非情なまでの徹底ぶりでした。
参考:https://blog.goo.ne.jp/eternalturquoiseblue/e/0bbb46eba7d21a5bf4e276f276e83fc7

政権を握ったのは自由主義的市民を中心とする臨時政府で、労働者と兵士はこれを支持。その後、海外から社会主義者たちが帰国してくると、臨時政府に反対するロシア社会主義労働党の多数派で、ウラジミール・レーニン率いる「ボリシェヴィキ(注)」と呼ばれる勢力が台頭。

注:ボリシェビキとは「多数派」という意味。対義語はメンシェビキ「少数派」


彼らは臨時政府を倒して政権を奪取して「プロレタリア独裁(注)」を実現しようとしていました。(十月革命)ボリシェヴィキは、当時の臨時政府を転覆させ、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国(1936年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に改称)を設立。

注:マルクス主義では、資本主義から共産主義社会に移行する過渡期に必要とされ、特にマルクス・レーニン主義を標榜する社会主義国家においては国家や社会に対する党の指導性、ひいては一党独裁制を正当化するための思想的根拠となっているようです。


「十月革命」を皮切りに、革命派の赤軍と反革命派の白軍との間にロシア内戦が開始。赤軍は複数の旧ロシア帝国領に侵攻し、名目上労働者及び小作農の代表として振る舞ったソビエトを通じ、現地の共産主義者の権力掌握を支援。

1922年共産主義者が勝利し、ロシア、ザカフカース、ウクライナ、白ロシア各共和国を統合し、ソビエト社会主義共和国連邦を形成。

24年にレーニンが死亡、レーニン亡きあとは、スターリンがトロツキーその他のライバルを党から除名し優越者としての地位を確保。

スターリンはネップ(New Economic Policy)によってソ連の農業生産を拡大、商品価値の高い生産に集中し、穀物の供給が滞るようになったためネップを終わらせ、計画経済への転換によるソ連の工業化を図り、28年から第一次五か年計画を開始。鉄鋼の生産増強、農業の集団化、電化や機械化に重点を置いた工業化が達成。(28年と37年を比較すると、石炭は3倍強、粗鋼は4倍強の生産高に達した)

1929年米国経済の悪化で起きた世界恐慌で欧米諸国が多数の失業者を出し経済を縮小させたのに対し、ソ連の経済成長率は世界最高を記録(工業全体では第一次で2倍、第二次五か年計画で2.2倍に)

一方コルホーズ(集団農場)に代表される強引な農業集団化は農民の強烈な抵抗に遭い、最終的に農民層は大部分が工業労働者となったり、コルホーズに組織されたものの、弾圧や飢餓で多くの犠牲者を出した(カザフスタンでは30%の農民が中国に逃亡、1932年から33年の大飢饉の影響でウクライナで400~800万人、ソ連全体で600~700万人とも言われる餓死者を出したとされる)

さらに工業賃金も上昇せず、労働者の実質賃金は12%近く減少。ソビエト政府はこれに富農狩りなどの強圧政策で臨み。白海、バルト海運河計画などの大規模インフラ建設には集団化に抵抗した農民や弾圧された共産党員たちの、いわゆる囚人労働者が動員。

第二次世界大戦の初め、国家社会主義独労働者党のアドルフ・ヒトラー率いる独国に対する英国及び仏国のソビエト連邦との同盟拒否後、ソ連は独との独ソ不可侵条約に署名。これにより両国の対立は先延ばしされたが、1941年独軍に侵攻され、歴史上最大の戦争となる独ソ戦が開始。

スターリングラードのような激戦での枢軸国に対する優勢確保のための犠牲において、ソ連の戦死者は同大戦の最大割合を占めた(5000~8000万人中の2660万人)といわれています。(因みに第二次世界大戦における日本の死傷者数は262万人~312万人と推定されていますからそのおよそ10倍です)

ソ連軍は枢軸国と共に共通の敵であるドイツと戦い、エルベ川の米国は西から、ソ連は東から反撃してエルベ川で両軍が出会い、そのときの両軍の兵士が握手している写真だそうです。



ソ連は第二次大戦で自国の犠牲者を2660万人出したとされ、そのことに恐怖を感じたスターリンは、自国防衛のため周辺国を親ソ政権国家にするため、戦争で都市が破壊された東欧の国々をナチスドイツの占領から解放した後も、ソ連に親和性の高い政権の樹立を求めて戦後も占領軍として留まりました。




「冷戦時代~ソビエト崩壊まで」
ソ連の後押しを受けた東欧の共産党が主導権を握り、ソ連にならって人民民主主義を唱える社会主義を採用。

ポーランド、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、アルバニアなどがそれらの国々で、計画経済による工業化を行いました。これらの国々が、西側諸国の北大西洋条約機構(NATO軍)に対抗してつくった軍事同盟がワルシャワ条約機構でした(55年設立、91年7月廃止)

以降、1980年代末まで米国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソ連を盟主とする東側諸国の共産主義・社会主義陣営との対立構造である米ソの冷戦時代と呼ばれる時代が続きました。

ソ連国内では1953年にスターリンが亡くなり、スターリン時代の独裁政策を大幅緩和。55年に書記長に就任したニキータ・フルシチョフ時代にはスターリン批判・大粛清への告発、スターリン体制からの決別表明。

フルシチョフは農業政策に力を注ぎ成功するも、「生産第一主義」で土地や気候、伝統的農法を無視したことで63年には大凶作に。この結果食料を国外から輸入しなければならない事態に陥り、また西側諸国への寛容政策を批判されフルシチョフは失脚。

この時代にも軍拡が進められており、核やミサイル兵器の配備が進められ、62年のキューバ危機のときには核戦争の危機を世界に知らしめることになりました。その後は米国との関係改善が進むも、ベトナム戦争やアフリカ・南アフリカでの代理戦争と呼ばれる紛争が継続。

フルシチョフの後を継いだブレジネフ政権では安定した代わりに改革は行われず、官僚主義による党官僚の特権階級化(ノーメンクラトゥーラ)、ブレジネフ一族の縁故主義など体制腐敗。

経済成長率も次第に鈍化して国民生活に影響。小麦生産量で世界一位を誇った農業も陰りが見え始め、アメリカから輸入するようになり、技術競争でも日米に後れを取り始めることに。ソ連崩壊直前にはGNPも人口、国土面積のはるかに小さい日本に抜かれて世界3位となる。

しかし、国家の威信をかけて行われた宇宙開発では、世界初の人工衛星打ち上げ成功、世界初の有人宇宙飛行、長期間に渡る宇宙ステーション(ミール)の運用成功など輝かしい実績を残しています。その技術力は軍事及び宇宙開発部門を中心とした重工業のみが突出しており、一般国民に必要な物資の供給は後回しにされました。

ソ連の世界初となる業績:大陸間弾道ミサイル(1957年、R-7)人工衛星(1957年、スプートニク1号)、宇宙へ行った動物(1957年、ライカ)、有人宇宙飛行(1961年、ユーリイ・ガガーリン)、人工衛星(1959年、ルナ1号)月面衝突(1959年、ルナ2号)、月面着陸(1966年、ルナ9号)宇宙ステーション(1971年、サリュート1号9、火星着陸(1973年、マルス3号)など。

これだけの大きな業績を次々にあげられたのも、米ソの対立において世界が注目するものであるが故に各国で大きくとりあげられ、成功によって国威発揚となるのみならず、これらが全て軍事転用可能な技術ばかりであったことも、力を注いだ動機であったと思われます。

それを可能にしたのは、航空宇宙工学、燃料、材料、その他を専門とする最高に優秀な大勢の科学者達を集めて開発に参加させることが出来たということと、強靭な精神力をもった宇宙飛行士たちを養成できたということ。それに必要な資金を投入することができたということで、しかも米国と競ってほぼ全て(人類の月面着陸以外)先に成功させているということも凄いと思います。このようなことが可能だったのは果たしてソ連だけの力だったのだろうか。初めの内こそドイツのロケット工学の専門家の指導を受けたとされているが、大半がソ連オリジナルの技術であったというのだ。

79年12月、米国に接近しようとしたアフガニスタンにソ連軍が侵攻(~1989年)その動機は明確にされず諸説ありましたが、現在では(アフガニスタンの)共産主義政権の維持と、イスラーム民族運動抑圧のための2点が動機であったとされているようです。

ソ連によるアフガニスタン侵攻を受けて80年のモスクワ五輪は日、米、西独、韓国、中国、イラン、サウジなど50か国が出場をボイコット。(英、仏、伊、オーストラリア、オランダ、ベルギーポルトガル、スペインなどは参加、入場行進のみ棄権するなど)

84年のロサンジェルス五輪では逆にモスクワ五輪ボイコットに対抗しソ連その他の東側の諸国がボイコットする異例の事態に。これはまさに冷戦を象徴する出来事でした。

生産性や成長率停滞による経済危機を打破するため、83年3月に就任したミハイル・ゴルバチョフ政権は社会主義体制改革を掲げた「ペレストロイカ(改革)」を実施。一党独裁体制下で腐敗した政治体制改革を推し進めました。
86年4月26日、ソ連が独自に設計開発した黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉(RBMK)のRBMK-1000型を使用した4つの原子炉が稼働している内の4号炉が炉心融解(「メルトダウン」)の後爆発し、放射性降下物がウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)、ロシアなどを汚染。史上最悪の原子力事故とされた。

89年3月26日にはソ連初の民主的選挙「第1回人民代議員大会選挙」が実施。このほか、情報を一般公開する「グラスノスチ」を本格化。国民の間で民主化要求が拡大、一党独裁放棄が決定。90年3月15日ゴルバチョフが初代ソ連大統領に。こうした改革の中で共産党内の内部抗争が激化、ボリス・エリツィンらが率いる急進改革派、ゴルバチョフらの穏健改革派、保守グループに分裂。

ソ連国内のインフレ・物不足が深刻化。市民の共産党への批判が高まり、87年12月に米国との間で「中距離核戦力全廃条約」が締結。翌88年5月からはソ連軍のアフガニスタンからの撤退を開始。89年12月2日から2日間に地中海・マルタで「マルタ会談」が行われ、正式に冷戦終結。

その後は各地で民族紛争多発。90年3月11日にはリトアニア、3月30日にはエストニア、5月4日にはラトビアといった第二次大戦後に併合された「バルト三国」が独立宣言。

91年8月にはゴルバチョフに反対する保守派(マルクス・レーニン主義者などの守旧派)が「ソ連8月クーデター」を起こすも、エリツィン改革派の活躍によりクーデターは失敗。求心力を失ったゴルバチョフは8月24日に共産党書記長を辞任。共産党中央委員会の解散を要求。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のソ連邦からの離脱を国民投票で決定。

12月8日に急遽行われたロシア共和国、白ロシア、ウクライナの代表による秘密会議にいおいてベロヴェーシ合意が宣言。3か国のソ連邦からの離脱とEUと同レベルの共同体創設が確認。

12月17日に「年中に連邦政府の活動停止」を宣言、12月21日にロシアを初めとして12共和国がソ連邦に代わる新しい枠組みとして独立国家共同体(CIS)の設立を宣言である「アルマ・マタ宣言」に調印。25日にゴルバチョフがソ連大統領を辞任。最高会議で連邦解体を宣言することでついにソ連は崩壊。

これによってソ連邦はその存在意義を完全に喪失、建国から69年後の1991年12月25日にソ連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任によるソビエト連邦解体で歴史の幕を閉じたのでした。

この出来事には、社会主義の実現を信じていた西側諸国内のソ連型社会主義政党や政治学者にとって「イデオロギー的敗北」を意味していました。



「ソ連崩壊による世界への影響」
ソ連型社会主義とは一線を画するユーロコミュニズム政党だったイタリアの共産党は解党し(91年2月)共産主義的イデオロギーを放棄、左翼民主党となった。

仏共産党は1920年に成立、第二次世界大戦後、仏共産党はかつて同国最大規模の政党に成長、49年6月には182人の議員を擁し、旧ソ連から援助を受けていた。80年代末期から90年代初期にかけて東欧諸国の脱共産党化とソ連崩壊の影響を受けて次第に衰退し、政治的発言権は微々たるものとなり、歴史に終止符が打たれつつあり「来年は解散」と宣言されているそうです。

オランダ共産党やフィンランド共産党は自主的に解散。

スウェーデンの左翼党・共産党人、英国共産党、サンマリノ共産党などの政党も旗印を変更し、共産主義的イデオロギーを放棄。

スペイン共産党は内部で深刻な思想的混乱が生じ、消滅させると主張。

ソ連の崩壊は「壮大なイデオロギー実験の終了」と「共産主義イデオロギーの敗北」「共産党の存在意義の喪失」を意味する出来事でもあったということですが、果たして完全に敗北したということなのだろうか。

ソ連という国家で壮大な実験を行ったのは何者かの強固な意思が働いており、ウラジミール・レーニンは明らかに確信をもっていた。確信をもって「革命」を成し遂げて「実験国家」をつくった。彼を背後で強力にサポートしていた何者かがいたと考える方が自然ではないだろうか。



「日本への影響」 
日本共産党の帝王といわれ名誉議長だった野坂参三氏(初名は小野 参弎(おの さんぞう)、中国では岡野 進や林 哲と称した。ペンネームは野坂鉄嶺、野坂鉄など)は1930年代のソ連滞在当時に同志の山本懸蔵ら数名をコミンテルン内務人民委員部NKVDに讒言密告し、山本はスターリンの大粛清の犠牲となって処刑されたということで、このことが「週刊文春」92年9-11月の連載記事により暴露。
野坂参三氏が当時ソ連のスパイであったことから、100歳にして日本共産党を除名。93年11月に死亡。

しかし、日本における「秘密結社的共産主義者」は実は国家の中枢にいた人物達の可能性も最近では指摘されており、日本国民が泥沼の日中戦争や無謀な太平洋戦争へと駆り立てられたその根底が何であったのかを、ようやく今日検証されてきているようです。


引用:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6

http://www.epochtimes.jp/2017/07/27914.html



コメント

20世紀に起きたそして20世紀のすべての時期を左右した大きな問題ですね。だがまだ終わってはいない、その亡霊がまだ蠢いて居ると云う事です。すでにロシア革命当初から野蛮な状況は続いて居たと云う事ですし、帝政ロマノフ自体も野蛮な存在で有ったと云う事なのでしょう。ロシア革命には金融ユダヤ資本であるロスチャイルドが深く係って居る事なのかも知れません。崩壊したソ連邦の全貌はまだ解明されて居ないです。廃棄された資料共々、国家アーカイブに秘匿されて深く眠って居る。それはUSAやブリテンの資料も同様です。ユダヤ人に関する手頃な著作としては、ヒレアベロックの「ユダヤ人」が面白いかも知れませんね。
2018/7/30(月) 午前 10:20 [ 井頭山人(魯鈍斎) ]


> 井頭山人(魯鈍斎)さん
こんにちは。コメントを頂きありがとうございます。仰ることを、私も意識しておりました。ナチスドイツを動かしたものの正体も正確にはわかっていないそうですね。歴史は常に表側と違うもう一つの裏の顔があるようですね。ユダヤ人に関するお薦めの著作を、私も是非読んでみたいと思います。いつもアドバイスを頂きありがとうございます。
2018/7/30(月) 午前 10:35 kamakuraboy


最後当たりのコメントがバランスがとれていて秀逸ですね、
陰謀論的な話も多いのでしょうが・・・どれが真実やら

参考となるかはわかりませんが、ビジネス用語で「風土」というものがあります。ようするに、その組織に染みついた癖みたいなもので、その組織に所属している人がなんとなく思っている事です。
これは良い方にも悪い方にも働きますので組織論としては非常に重視されます。

そこらあたりから考えると陰謀を企てた人などおらず、その時代の人々が何となく共産国家を作って試してみたいと思っていたのが原因だったという可能性もあると思います。
ただ、そういった人の思いがまるで、独立した人物のように動く場合もあるのは確かではないでしょうか?
2018/7/30(月) 午後 10:01 [ 黒岩虎吾郎 ]


> 黒岩虎吾郎さん
こんばんは。コメントを頂きありがとうございます。また、「風土」という素晴らしいキーワードを挙げて、ニュートラルなご意見を頂きありがとうございます。

私も様々にその時代の「空気」のようなものを、現代の我々が想像することは容易なことではないけれど、その時代の空気を想像してみるという感覚をもつことは「過去」となっていく歴史を検証する上で大切だと思います。

現代の我々には想像できないほどの飢餓の時代が日本にはあったし、世界中にあった。その中で「共産主義」が生まれた。しかし、共産主義とは現代の中国やロシアがそうであるように、富を公平に分配する理想の社会ではなく、一部のエリートが国富を独占するシステムであるらしい、と。健全な社会というのは、労働や社会への貢献度に応じた対価の得られる社会のことで、分厚い勤勉な中流層に支えられた社会のことであると思っております。
2018/7/31(火) 午前 0:20 kamakuraboy


返信遅れてすみません。
>健全な社会というのは、労働や社会への貢献度に応じた対価の得られる社会のことで、分厚い勤勉な中流層に支えられた社会のことであると思っております。

すごく的確な意見ですね。
考えてみれば、平和が長く続いた江戸時代にしても、欠点がありながらも、まだまともだといわれる民主主義にしても上記を書かれた事を実現していますね。
2018/8/2(木) 午後 9:16 [ 黒岩虎吾郎 ]

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