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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

関東大震災の記憶②

2019-03-09 18:22:46 | 歴史
2018/4/1(日) 午前 0:38

1923(大正12)年9月1日午前11時58分44秒。
震源地は相模原湾海底、M7.9の地震が発生。


1つ前からのつづき


本所深川あたりから避難してきた罹災者約3千名が集まっていた越中島の 糧秣廠 (りょうまつしょう)を爆破し、多くの避難民を殺害して逮捕された朝鮮人テロリストの証言によれば、目標は11月27日の御大典(皇太子のご成婚の式典)だったが、大震災が起こって予定どおり行われるかどうかわからなくなったので、大震災という好機を逃すべからずと決断したとのことだったという。


本所、深川一帯での死者、行方不明者は5万8千人を超えおり、本所区、深川区における日本人の対人口死亡率は約15%にのぼった。


同じように「目標は御大典だったが、大震災に乗じてことを起こした」と自白したテロリストはずいぶん多かったようだ。


大震災のニュースを聞いた朝鮮の過激派労働者集団は、「共産主義を鼓吹する者及之等に依り組織せられたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の被害より之に伴ふ火災の損害が最甚大なる規模なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因る(よる)ものなり」と喜んだそうなのだ(「現代史資料6」)


9月3日、戒厳令発令直後の東京淀橋警察署は朝鮮人無政府主義者朴烈とその愛人金子文子 を逮捕。朴烈は御成婚の折に皇太子をはじめ政治経済界の大物たちを爆殺する計画をたてていたようだ。



摂政宮(皇太子裕仁)はじめ、日本の政財界の要人の暗殺計画を企て、黒龍会の通報により未然に逮捕されたテロリスト朴烈。
テロリストらの背景は抗日パルチザンからの資金調達と日本を赤化するべく工作活動を行っていたロシアと結びついていた共産主義者や社会主義者達の地下活動があった。


こうした大胆な計画の実行と資金調達は組織力や指導部なしに実行することはできない。抗日パルチザンの主力は満州北辺の関島と上海におり、従って内地にも有力な支援組織があると考えるのが当然である。


黒龍会(注)の主宰者 内田良平は、震災時における朝鮮人の謀略をいちはやく告発した人物である。彼は、それを政府に訴えた文章のなかで、朝鮮人独立運動家の背後にいるのは社会主義者であり、日本の赤化運動を狙うロシアが日本の社会主義者と朝鮮人を扇動し、彼らは気脈を通じ合っていると指摘。


市民に厳重な警戒を求めるよう報道を指揮してきた内務省だが、震災翌日には風向きが変わりはじめた。


9月4日に「東京朝日新聞」では「武器を持つ勿れ 朝鮮人は全部が悪いのではない。鮮人を不当にイヂメてはならぬ」という内容の手書きの号外が出され、ほぼ同じ内容の「善良な鮮人を愛せよ」という告示が翌朝、他紙にも掲載。


これらの記事では、朝鮮人の襲撃がなかったとは一言も書いていないが、「戒厳令が発令された以上は軍にまかせて市民は武器を持つな、善良な朝鮮人もいるのだから、そういう者は敵視するな」、という限定した意味が込められていた。(テロリストらと関係のない朝鮮人まで巻き添えになる危険性があったことを危ぶんだのだ)


9月6日には「三大緊急勅令」なるものが公布され、朝鮮人襲来記事を流布すれば処罰する、という強硬手段に出た。(これは一般市民の「知る権利」を阻害していると思うし、言論の自由にも反しているわけで、まるで今日の過剰なヘイトスピーチ対策法のようなものだと思う)


「義烈団」の団長 金元鳳(キムウォンボン)は震災の8日後の9月9日、日本の民心動揺を好機ととらえ、部下を集めて天津から東京へ向かわせた。「義烈団」は保管してた爆弾50個を安東(アントン・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)に発送したという情報を警務局がキャッチ。



同時に一般朝鮮人への保護具体策が次々にとられた。市内の朝鮮人を千葉県習志野、および下志津の兵舎に収容し、衣食住と医療を安定。朝鮮人収容能力は1万5千人分にも達した。(これは収容能力であって、実際に収容された人数ではない)


ところが、それさえ歩かされて「強制連行」されたと主張する史料が多いのだ。自動車などあるはずがないではありませんか。市民への食糧、医薬品、警備に使う車さえこと欠き誰もが歩いていたのだが。


そして新聞は手のひらを返したように、「鮮人団相愛会が無償で道路工事 誤解をとく為に奉仕」「鮮人に救はれた老婆」などという朝鮮人の"美談”を載せ始めた。「道路工事」というのは要するに道路の障害物を取り除く作業のことで、これは美談でも何でもない当たり前のことでしかない(有料で震災のあとかたづけをする日本人などいない)


つまり当時から新聞はある意味で「弱者である朝鮮人の無批判的な味方であった」ということ。


こうした一連の措置は、内務相兼帝都復興院総裁に就任した後藤新平の発案によるものだった。


後藤は、「朝鮮人の暴動があったことは事実だが、このまま自警団にまかせて力で押しつぶせば、彼らはそのままでは引き下がらないだろう。その報復の矢先が万が一にも御上(皇室)に向けられたら大変なことになる」と、当時、警視庁官房主事であった正力松太郎に語ったそうだ。やはり、皇太子暗殺の懸念が強かった。


日本人の朝鮮人に対する憎悪や自警団による過剰な攻撃を止めさせるためにやむを得なかったとはいえ、実際は暴動が起き、何万もの日本人が放火などの犠牲になったにも関わらず、こうして朝鮮人の暴動はなかったこと、あるいはデマだった、「流言飛語」に惑わされたのだ、という虚構にすりかえられていったのである。


多くの朝鮮独立運動家が結集していた上海の大韓民国臨時政府が発行する機関誌「独立新聞」が報じた数は6,419人です。これは多くの関係書に翻訳引用され、「虐殺人数の原点」扱いされているものですが、ここには「屍体を発見できなかった同胞」実に2,889人としている。


死体が発見されないまま、それを「虐殺された」と主張してカウントするのは道理が通らず、「行方不明者」であって、「行方不明者だから殺された」というのは非論理的。震災によって圧死したか、焼死したと考えるのが当然なのだ。「死体を発見した」とされる1,274人も、殺害されたのか震災による死体なのか、また、どうやって日本人と朝鮮人の死体を見分け、どうやってカウントしたのかは不明。


「独立新聞」とは別に、学生を中心とした「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」に所属する崔承万(チェスンマン)の調査によれば、虐殺された人数は「2,607人または3,459人」となっているそうだが、こんな大雑把な数字は、震災による死者数も一緒に数えている可能性が高く、信憑性はさしてない。


ところが、大正時代を代表する民本主義として著名な吉野作蔵が主張する2,613人という数字も、崔承万の調査をもとにしているのだ。日本人で、他の著名人もこのような「数字」に対する客観性がなく、「相手任せ」の、つまりは情緒的な方々がなかにはおられるようだ。


前述したように、震災直後に東京およびその周辺にいた朝鮮人の総人口は9,800人。そのうち、3,169人が習志野の陸軍廠舎に、2,500人が市内各警察署に、617人が目黒競馬場に、471人が埼玉・栃木の各警察署に、40人が神奈川県庁にそれぞれ収容保護されていた。つまり収容所で保護されていた朝鮮人は6,797人。


つまり、東京およびその周辺にいた朝鮮人9800人のうち、6797人は生存が確認されており、残る人数は 9800-6797=3003人、その内、自警団によって殺害された無辜な朝鮮人は233名。


その収容中の待遇に不平不満をいいつのり「飯がまずい」「強制連行された」「扱いが乱暴だった」と口々に文句を並べた記録が残されている。しかし、保護された朝鮮人は食糧を与えられ、テントで雨露がしのげたのに対し、一方で、被災した日本人の大多数は野宿をしたり、食糧も不足し、トイレもない生活を強いられていたことを忘れてはならない。


さて、戒厳令司令部は自警団等による過剰防衛容疑の日本人367人を起訴している。その調査に基づいて、殺害された無辜の朝鮮人の人数は233人であると公表された。 更に、朝鮮人と間違えられて殺害された日本人57名、中国人4名となっている。


東京およびその周辺にいた朝鮮人で、震災後に収容保護された人や無辜なのに殺害された233人を除くと3003-233=2700人であるが、この人数の内震災で死亡した人数がどのくらいいたかであるが、少なくとも、震災での死亡者が0人であろうはずはなく、実際は233人以外の数字については残り2700人以下であること以外には詳細はここでは不明。

東京府全体の死者、行方不明者は7万人余(死者総数は10万5千人余)、下町界隈の死者は実にその80%といわれ、朝鮮人も多く居住していた本所、深川一帯での死者、行方不明者は5万8千人を超えおり、本所区、深川区における日本人の対人口死亡率は約15%にのぼったそうで、

多くの朝鮮人の家屋はおそらく耐久性も低く、劣悪な環境だったと推察されるので、それより多めの20%を対人口死亡率ほどと仮定して、被災基礎人口9,800人に乗ずると、1,960人という数字が震災による死者、行方不明者として算出。


2,770人からこれを引けば2770ー1960=810人となり、これがテロリストやその賛同者、または付和雷同して自警団に現行犯的に処刑されたおよその人数と推定できる。


要約すると、
東京及びその周辺に震災の日の当時に当時住んでいた約9800人の朝鮮人の内、

収容所に保護された人数は、6,797人、
震災による推定死亡者は1,960人、
殺害された、無辜の朝鮮人233人(この人数を虐殺された朝鮮人の人数とすべきなのかも)
残る810人は共産主義者や社会主義者に扇動され、放火などのテロ行為で、自警団によってその場で処刑された人数と推定。

但し、震災によって死亡した人数も1960人以上に更にもっといたのか(何しろ日本人は10万5千人も死んでいるのだし、また、自主的に他地域へ避難した人もいたであろうと考えられる。


日本人と朝鮮人の衝突は不幸な事件であることは事実だが、もとはといえば、横浜から押し寄せてきた朝鮮人の一団をはじめ、多くのテロリストが目の前に現れたゆえの結果なのだ。

例えばだが、ゲリラ、戦時下敵国の人間ならばスリーパーセル(便衣兵)をその場で処刑するのは、戦時国際法上、治安上やむ無しと認めらているのだ。

大震災という事態で、皇太子暗殺計画の代わりに「この好機を逃すまい」と混乱を利用して暴動を起こした朝鮮人のテロリストらは「内乱罪」(注)の適応対象であるから、その場での処刑もやむを得なかった。何しろ震災そのものではなく、避難所の火災で9万人以上の日本人が亡くなっているのだ。


自警団は自らの命をかけて、民族独立のためには手段を選ばず皇太子暗殺さえ計画していた朝鮮人テロリストの襲撃から街を、家族を守ったのだ。そうでなければ、組織的な主義主張をもって日本を大混乱に陥れようとするテロリストたちに組み伏せられ大変な事態(一部の朝鮮人による内乱状態)になっていたかもしれないのだ。

しかし、朝鮮人=テロリスト、のようなとらえ方は明らかに間違っており、一部のテロリストによる暴動が起きてしまったことは事実で、そのために犠牲になった日本人が数万人いたとはいえ、当時日本にいた朝鮮出身者の多くはテロリストとは無関係の人々であったことも忘れてはならない。


関東全域の被害:
死者・行方不明者 105,385人(約10万5千)
家屋全壊 128,000戸
家屋半壊 102,000戸
家屋全焼失 447,000戸
避難人数 190万人以上


引用元:「デマでなく実話!」:http://wasavi0032016.hatenablog.jp/entry/2016/09/18/000907


黒龍会:右翼の源流とされる団体、日清戦争後の三国干渉に憤慨した玄洋社の内田良平らを中心として設立された。

内乱罪: 内乱罪(ないらんざい)は、国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をする犯罪である(刑法77条)。内乱予備罪・内乱陰謀罪(刑法78条)や内乱等幇助罪(刑法79条)とともに、刑法第2編第2章に内乱に関する罪として規定されている。皇太子暗殺を計画していた一派には当然適応される。



コメント

内務相兼帝都復興院総裁だった後藤新平は、台湾総督府民政長官や満鉄初代総裁も歴任しており、ロシア・中国と通ずる反米左翼です。
後藤邸の跡地は現在中国大使館になっています。KGBの支援を得て反米活動のための「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)結成や日本共産党支援などの活動にもかかわっていたようです。
後藤は、主たる新聞社を左翼のものにした張本人のようです。
後藤直系の官僚などを、朝日新聞社副社長、同盟通信社社長、読売新聞社社長、大阪毎日新聞社会長、朝日新聞社主筆、東京朝日新聞社論説委員などマスメディアの幹部に転じさせたことにより、後藤系の左翼がマスメディア業界に牢固たる地盤を築いたとのことです。きっと、それが現在の偏向報道につながっているのです。
大震災の混乱において朝鮮人襲来があったにもかかわらず、一般朝鮮人への保護などを理由に朝鮮人による悪行の記事をやめさせた裏には、左翼の後藤の力があったのですね。
2018/10/8(月) 午後 11:12 泉城


> 石田泉城さん
コメントをありがとうございます。泉城さんに教えて頂いて、関東大震災後の朝鮮人による放火テロや暴動が「日本人による朝鮮人虐殺」という真逆の歴史のようにいわれてきた理由がわかりました。
通州事件のことは殆どスルーでむしろ南京大虐殺だの、朝日の捏造による慰安婦の強制連行だのと「日本人=悪」であるかのような図式を中露の意に操られたむしろ日本のマスコミが作ってきたのと同じ図式だったのですね。
日清、日露戦争の恨みなのでしょうか。恐ろしい話ですね。当時の内務大臣が潜在的な敵国の工作員になっていようとは。
中露の工作員のような人物が内務相で復興院総裁というのなら、朝鮮人の悪行記事を書かせないようにしたのもうなずけます。今日の左寄りの偏向報道もその続きのようなものですね。
ひとつひとつの事象が背後にあった「日本への工作活動」で繋がっていたようですね。大変よくわかりました。
2018/10/9(火) 午前 0:20 kamakuraboy



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