まず、以下の引用文を読んでみよう。
「日本国憲法が『個人の尊重』を力説する のは、苦い全体主義の反省の意味もこめて『人権概念』の原点を再確認するものである。この『人権概念』によれば、『自由権』を中心とする前国家的、自然権的性格の権利のみが人権の名に値するということになるが、実際には「国政への参加権 」=「参政権」 及び「社会権的基本権」(注)も人権と観念され、更には実定憲法の保障する諸権利一般と同義に用いられることも少くない」
「『人権』は永久不可侵性をその本質とするが、共同の社会生活を前提に成立するものであるところからくる制約、すなわち人権相互の調整という観点からする制約を免れない」
(注) 社会権的基本権:
国民の側から国家に対して社会的・経済的弱者保護のための 積極的作為を要求するものである。 生存権(憲法 25 条)、教育を受ける権利(憲法 26 条)、勤労の権利(憲法 27 条)、労働基本権(憲法 28 条)は社会権的基本権 であるが参政権(憲法 15 条)はこれに当たらない、とある。
つまり「日本国憲法」の「基本的人権」の中には「国政への参加」=「参政権」も含まれていると考えられるのである。しかしこの「参政権」なくして、「特別在留者」として日本政府に「在留資格」を与えられて長年の間住み続けている人々がいる。「在日コリアン」の人々である。
「『人権』は共同の社会生活を前提に成立するものであるところからくる制約、人権相互の調整という観点からする制約を免れない」とあり、相互の調整の中には「国籍での区別」なども当然含まれる。
日本で日本国籍の人々の人権が外国籍の人々の人権より優先されるのは「国家」というものの成り立ちから考えても当然のことであろう。
「人権」=「(人としての)権利」には、個人と国家との相互契約に基づくものであり、同時に国民としての「義務」が発生する。
では「参政権」を持たない「在日コリアン」の存在そのものはつまり「違憲」であるから彼らに「参政権」を与えるのが正しい、と果たしていえようか。
在日コリアンが「本人の意志に関わらず連れて来られた人々とその子孫」であったならば、本人が日本への帰化を望めば、元の国籍離脱が困難であったとしても、なるべく日本国籍を付与して「参政権」を与え、本人が帰国を望めば祖国へ帰国させる、というのが正しいと思う。
しかし、日本にいる「在日コリアン」の多くが、世界中で問題になっている「不法移民」「密航者」であったという前提に立てば、「密航者」やその家族、子孫に「参政権」を与える国はないし、日本政府も恐らく多くの日本国民もこれまでもこれからもこの立場なのである。
ここで、犯罪傾向のない真面目な日本を愛する在日コリアンに、自分たちのルーツを正しく知った上で判断せよ、といいたいのだ。外国籍のままで「参政権」よこせはありえない。そもそも多くの在日コリアンは「連れて来られた人々」ではない。
「日本政府は徴兵のために労働力が不足した戦時の数年間を除き、戦前戦後を通じて日本内地への渡航制限などにより朝鮮人の移入抑制策を取ったが、移入が止まらなかった」とある。
2010年3月10日衆議院外務委員会で質疑に高市早苗議員が席上配布した資料について、翌日の産経新聞朝刊で報道され、「全文を読みたい」という問い合わせがよせられて同氏がネット上に掲載しておられるものを多くの人々が拡散している。
それは「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、特に戦時中の徴用労務者について」(記事資料 昭和34年7月11日:昭和35年2月外務省発表集第10号より抜粋)という資料である。
それによると「現在登録されている在日朝鮮人の総数約61万に対して、最近関係省の当局において外国人登録票についていちいち渡来の事情を調査した結果明らかとなった数字として、245名が「元徴用工」の人数」なのだそうだ。
それ以外の人々は本人の自由意志で日本に来た「募集工」か「密航者」として日本に来てそのまま本人の自由意志で日本に在留している人々やその後日本で生まれたそれらの人々の家族ということらしい。
■併合前から朝鮮人の流入に苦しんだ日本
日本政府は、第一次世界大戦終了後、朝鮮人流入に起因する失業率上昇や、犯罪増加に悩まされており、朝鮮人の日本内地への流入を抑制する目的で、満洲や朝鮮半島の開発に力を入れた。(満州開拓は朝鮮人流入対策という側面があったらしい)
朝鮮人労働者の流入は日中戦争・太平洋戦争により増加。併合当初は土建現場・鉱山・工場などにおける下層労働者で、単身者が多くを占める出稼ぎの形態をとっていたが、次第に家族を呼び寄せたり家庭を持つなどして、日本に生活の拠点を置き、永住もしくは半永住を志向する人々が増えた。
日韓併合以前から朝鮮人は日本に流入し、留学生や季節労働者の朝鮮人が日本に在留。併合以降はその数が急増。内務省警保局統計は、1920年に約3万人、1930年には約30万人の朝鮮人が在留していたとしている。
■流入者の人口
大正9年(1920年)および昭和5年(1930年)の国勢調査(民籍別)を記載した 1938年(昭和13年)発行の年鑑によれば朝鮮人の民籍は、大正9年(1920年)で40,755人、昭和5年(1930年)で419,009人との記載がある。」
1934年10月 岡田内閣は「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定し、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発と密航の取り締まりを強化。
1939年9月 「朝鮮総督府」の事実上の公認のもと、民間業者による集団的な募集の開始。
戦争で兵役により不足した日本の労働力を補うため、朝鮮半島からの民間雇用の自由化(1939年)、官斡旋による労務募集(1942年)により在日朝鮮人が急増。1939年から1945年までに在日朝鮮人の人口は約100万人増加。
1942年3月 朝鮮総督府朝鮮労務協会による官主導の労務者斡旋募集の開始(細かな地域ごとに人数を割り当て)(これが「募集工」の始まり)
この内の約70万人は自ら進んで内地に職を求めてきた個別移住者とその間の出生で、残りの約30万人の大部分は工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者であったそうだ。
■戦争末期
1944年9月 日本政府が国民徴用令による徴用=日本政府は国民徴用令による戦時徴用を朝鮮半島でも開始し、徴用は1945年3月に下関-釜山間の運行が止まるまでの7か月間実施された。
つまり、35年間の日韓併合時代に、朝鮮半島に住んでいる人々(当時は朝鮮半島出身の日本人という位置づけ)に対する「徴用令」が出されたのは僅か7か月であり、「徴用工」として日本にきた朝鮮半島出身の在日コリアンの人数は245名でしかなかったそうだ。
終戦後、日本政府としては帰国を希望する朝鮮人には常時帰国の途を開き、現に帰国した者が多数であるようだ。現在日本に居住している者は前記245人を含み、皆本人の自由意志によつて日本に留まつた者また日本生れのものであり、現在日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き1名もないそうだ。
■終戦後
1945年8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人、その9割以上が朝鮮半島南部出身者で多くが第二次世界大戦終戦前の10年間に渡航したと考えられている。
「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、特に戦時中の徴用労務者について」(昭和34年7月11日:昭和35年2月外務省発表集第10号より抜粋の資料より)引用元:末尾参照
在日朝鮮人の約75%が朝鮮に引揚げた。その帰還状況を段階的に次の通り。
(1)1945年8月から46年3月までの間に、帰国を希望する朝鮮人は、日本政府の配船によつて、約90万人、個別的引揚げで約50万人合計約140万人が朝鮮へ引揚げた。
右引揚げにあたつては、復員軍人、軍属および動員労務者等は特に優先的便宜が与えられた。
(2)日本政府は連合国最高司令官の指令に基づき1946年3月には残留朝鮮人全員約65万人について帰還希望者の有無を調査し、その結果、帰還希望者は約50万人ということであつたが、実際に朝鮮へ引揚げたものはその約16%、約8万人にすぎず、残余のものは自から日本に残る途をえらんだ。
(3)1946年3月の米ソ協定に基づき、1947年3月連合国最高司令官の指令により、北鮮引揚計画がたてられ、約1万人が申し込んだが、実際に北鮮へ帰還したものは350人にすぎなかつた。
(4)朝鮮戦争中は朝鮮の南北いずれの地域への帰還も行わなかつたが、休戦成立後南鮮へは常時便船があるようになつたので、1958年末までに数千人が南鮮へ引揚げた。
北鮮へは直接の便船は依然としてないが、香港経由等で数十人が、自からの費用で、便船を見つけて北鮮へ引揚げたのではないかと思われる。
朝鮮へ引揚げずに、自からの意思で日本に残つたものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であつた。戦時中に渡来した労務者や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残つたものは極めて少数であった。
前述の通り、終戦後、日本政府は帰国を希望する朝鮮人には常時帰国の途を開き、現に帰国した者が多数ある次第であつて、現在日本に居住している者は、前記245人を含み、みな自分の自由意志によつて日本に留まつた者また日本生れのものなのである。
現在日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き1名もない。
■在日朝鮮人の来住特別内訳表
登録在日朝鮮人数 611,085人
(内訳)
(1) 所在不明のもの 13,898人
(1956年8月1日以降登録未切替)
(2) 居住地の明らかなもの 597,187人(100%)
・・・(2)の内訳・・・
(A) 終戦前からの在留者 388,359人(65・0%)
内訳
(イ)1939年8月以前に来住したもの 107,996人(18・1%)
(ロ)1838年9月1日から1945年8月15日までの間に来住したもの 35,016人(5・8%)
(ハ)来住時不明のもの 72,036人(12・1%)
(ニ)終戦前の日本生れ 173,311人(29・0%)
(B) 終戦後の日本生れおよび入国者 208,828人(35・0%)
■戦後の朝鮮半島からの密航
1948年の済州島四・三事件、1950年に朝鮮戦争、保導連盟事件(注)などが起こり、同胞による虐殺を免れるため、あるいは生活苦などから大勢のコリアン達が対馬海峡を船で渡って日本に「密航」して住み着いてしまった、というのが偽らざる真実のようなのだ。
(注)済州島四・三事件:
現在の大韓民国独立以前の1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件。南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺され、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。
(注)保導連盟事件:
朝鮮戦争の最中である1950年6月25日、韓国国軍、韓国警察、李承晩大統領支持者らが共産主義からの転向者やその家族を再教育するためとして設立されていた統制組織である「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを大量虐殺した事件。韓国では保導協会員虐殺事件とも呼ばれ、被害者は公式に確認されているもので4934人、20万人から120万人とする主張もある。
戦後の「密航」の例として、ここで、ソフトバンク創業者の孫正義氏の例を出させてもらおう。彼はある意味公人であるし、既に出版物で広く紹介されている内容なので、ここでも取り上げさせていただく。
「フォーブス2017年7月号」で「日本の長者番付50」(但し家族と共有する資産を含めて計算した金額)で 2兆6670 億円(2位)と紹介されているソフトバンク創業者の孫正義氏の実父の遜三憲氏が「週刊ポスト」(2011年2月連載 2/18号)の孫氏へのインタビュー記事「あんぽん」(孫氏の嘗ての通名=「安本」)という自伝の中で彼らが「密航者」であった事実を語っている。
「週刊ポスト」(2011年2月連載 2/18号)の孫正義氏へのインタビュー記事「あんぽん」の中で「密航者」であったという事実を「時効だから」として告白したのは孫正義氏の実父三憲氏。かなり豪快な人物のようである。
正義氏の祖母は、大邸(テグ)の出身。「冬ソナ」の舞台となった江原道。祖父母は終生、片言の日本語しか話せなかったそうだ。そのためか正義氏の曽祖父は日本に来て、戦後朝鮮に帰国。極貧であった一家を支えるために北朝鮮の金山へ採掘人夫として出かけ死去。
その後、孫氏の父三憲氏らは朝鮮で食い詰めて日本に「密航者」として舞い戻ってきたのだという。三憲氏本人は日本生まれ。福岡佐賀県鳥栖市の朝鮮人で生まれて、祖国を訪れぬまま密入国者の子として育ち、終戦を迎えて、当時のことを以下の様に語っている。
Q:日本が戦争に負けて悲しかったですか。
A:「全然悲しくなかったですね」
Q:朝鮮半島が開放されるからうれしかったんですか。
A:「うれしいとも感じなかったですね。僕はやっぱり、こっちで生まれていますからね。向こうにはまだ一度もいったことがなかったし」
「親父とおふくろ(正義氏の祖父母)は、日本語は片言で、ほとんど韓国語でしゃべるわけですよ。だから(自分が朝鮮人だと)自然にわかるわけです」
「戦前は日本に二百何十万の朝鮮人が来とったでしょう。それが戦争が終わると、ほとんど帰って、20~30万人しか残らなかった」
「その残っている朝鮮人は、落ちこぼればっかり。日本にはカスばっかり残っとるんですよ」
孫氏の一家はいったん朝鮮戻り、そこでも食い詰め、密航という手段で再び日本へ戻って来たのである。
「ボロ船で・・・朝鮮人ばかり50~60人乗っていましたね」
密航船は山口県の仙崎に着き、それから一家の再びの日本暮らしが始まったそうだ。
三憲氏はインタビューの中で、はっきりと「戦前は、朝鮮人に対する差別はなかった」と明言。
孫氏の祖父は貴族階級である両班(ヤンパン)の出身なのだそうで、「他の殆ど密航者たちのような奴婢(奴隷)=白丁(ペクチョン)で(朝鮮社会において)『人間以下』とされていたやつらと一緒にされてたまるか」という意地、つまりハングリー精神があった故に、密造酒、金貸し(サラ金)その他諸々で次第に裕福となり、在日社会からの「成功者」としての孫正義氏という人物を育てたようなのだ。
ここに本国の朝鮮人が在日同胞へ抱く侮蔑感の根拠の一つとされている感情が実はあるようだ。祖国から逃げ出して日本に密航した者たち、という侮蔑感である。
「密航者」として日本に居ついた父母のもと、孫正義氏は1957年に日本の佐賀県鳥栖市で誕生。彼は在日として受けた差別について語っているが、それには差別される側にも問題が多すぎたようだ。(後述)
遜氏は16歳で渡米する前は安本正義という通名を名乗っており、中学は福岡市の文教地区にある福岡市立城南中学、進学したのは県内有数の進学校である久留米附設高校である。ご自身は裕福な家庭に育っており、ご自身が「差別されたことで自殺も考えるほど悩んだ」というのは「中2病」のような誇張した部分もあるように思う。それはご本人の胸の内にしかわからない問題である。
ソフトバンク創業者の孫正義氏(1990年に日本に帰化)
他のもう一つの例としてパチンコの「マルハン」の社長の韓昌祐(ハン・チャンウ )氏もインタビューでご自身の家族が「密航者」であったことを認めている。彼は1945年10月21日、 日本でレンガ工をしていた実兄の招きを受けて密航船に乗り込み、同年10月22日に山口県下関市から日本へ密入国後、日本の戦後の混乱に紛れて「特別永住者資格」を取得した のだそうだ。
マルハン社長の韓昌祐氏(2001年に日本に帰化)
日本は第一次世界大戦後、朝鮮半島からの密航者が増え、逮捕、送還を繰り返していたのだ。半島からの流入が無制限であったのではなく、当然制限があり、一方で戦前から「密航」などで日本に棲みついた朝鮮人達の集落は、豚の糞尿を川に垂れ流すような暮らしぶりの家が一軒のみならず集落をなし、戦前・戦後、朝鮮人が度々起こす犯罪の数々。しかも多くは自由意思で流入してきた人々か、「密航者」たちなのであった。
「吉田茂からマッカーサーへ送られた書簡より」
戦後今日まで裁判に付せられた、朝鮮人による刑事事件は以下のとおり。
年次 事件数 朝鮮人関係者数
1945(8月15以降) 5334件 8355人
1946 15579件 22969人
1947 32178件 37778人
1978(5月末現在) 17968件 22133人
合計 71059件 91235人
年次 事件数 朝鮮人関係者数
1945(8月15以降) 5334件 8355人
1946 15579件 22969人
1947 32178件 37778人
1978(5月末現在) 17968件 22133人
合計 71059件 91235人
戦後、朝鮮人達が起こした名前のついている暴力事件のその代表例として、
新潟日報社襲撃事件(1946年9月)9名の朝鮮人が逮捕起訴
阪神教育事件(1948年4月)
高田ドブロク事件(1949年4月)朝鮮人500名が集結、首謀者12人を検挙
などが例として挙げられる。
このような事件は、恐らく本国で「白丁」として「人間以下」と差別されてきた人々の過剰な「被害者意識」が爆発して起こったものである。
「阪神教育事件」は「朝鮮学校」と日本社会との軋轢として生じた事件の典型的な例である。差別の激しい本国には帰りたくない反面、「民族のアイデンティティ」は残しておきたい、だから(建前上)民族教育するための「朝鮮人学校」なのであろうが、この「民族教育」そもそものが「いつか本国に帰還する」という前提でないことが問題なのではないだろうか。
孫氏や韓氏のような「成功者」でご自身の家族が「ボートピープルであった」と話す人々はごく少数で、「密航者」であったことすら隠し、「強制連行されて連れて来られた」可哀そうな人々であるという「虚構」で日本に居すわり続け、「差別されてきた被害者」という「弱者」の衣を被って「土台人」などと言いながら日本に棲み続けることを「権利」と主張しているの在日コリアンが殆ど。
遜三憲氏がインタビューの中で「戦前は朝鮮人に対する差別はなかった」と明言しているように「朝鮮人であるから」という理由だけでいわれのない差別などは戦前、戦中の日本社会には存在していなかったことは事実のようだ。
当時を知る人々の話として、私も母に当時の様子を聞かされたことがある。戦前・戦中の頃の日本の普通の社会では「朝鮮人」であることを理由に差別する風潮はさほど見られなかったようだ。
母の小学校のクラスに1人朝鮮人の女の子がいた。大人しくて真面目な子であったので、母はごく普通に差別意識などもたず、その女の子をクラスメートの一人と捉えていた。「朝鮮人だから」という理由での差別はごく一部であって、多くの当時の日本人は朝鮮半島出身者を日本社会の一員と考えていたようなのだ。
「戦後の朝鮮人差別」は彼らの多くがそもそも戦後に舞い戻ってきた「不法な密入国者」であったこと、犯罪、土地の強奪、暴力、暮らしぶりの不浄、嘘、たかり、脅しなどが原因であり、「不良不法移民」と「日本人」との当然の「区別」でもある。
またこのような感情は英国や米国でも外国人不法移民に対する「外国人嫌悪:(ゼノフォビア)として見られるものであり、日本人はむしろ、戦前彼らを日本社会の一員として特別な差別などしていなかったのだ。
戦前・戦後の「密航者」「不法移民」なのに「オールド・カマ―」のふりをした「不法滞在者」で、日本国籍をもたぬ、選挙権のない、憲法の「基本的人権」の考えに矛盾する存在である彼らに、逆に「税金の実質的免除を含めた在日特権」を与えた背景にとして何があったのか。あまりにも長きに渡り彼らを他の外国籍の不法移民に比べて際限なく優遇し過ぎてきたのではないだろうか。
ただ、日本で生まれ、日本の社会に溶けんでいる「在日3世、4世」で、祖国の言葉を話すことが出来ず、帰国しても「パンチョッパリ」と差別されるくらいなら帰国は考えられない、という人々ならば、日本に帰化するという意志をもつのが普通なのではないかと思うのだが。
このあたりは、特に彼らの国籍国の思惑が大きく変化してきたことと無縁ではないようなのである。
引用元:
私の九州の親戚は材木商で戦前には多くの韓国人を雇っていて、彼らは済州島からの「出稼ぎ」だったようです。
いずれにしてもダイナミックに韓国人の流出入があって、戦後の混乱に乗じて生れた多くの違法滞在者に特別永住者資格等を与えたのは過ちでした。
舛添氏失脚の原因は「公私混同の公用車の利用、生活費まで領収書で公費扱いにする」などよりも、都民の利益よりも在日韓国人を優先にする政策のためでした。
https://ironna.jp/article/3079
「発端は東京都が韓国学校を増設する用地として新宿区矢来町にあった旧都立『市ケ谷商業』の跡地を、韓国政府に有償で貸し出す方向で「具体的な協議に入る」と発表したことからだったそうです。
「舛添氏に直接朴槿恵大統領(当時)から要請があったため、都(舛添氏)は東京都の中でも待機児童の多さが問題となっている新宿区(前年の4月時点での待機児童は「168名」だった)都立高校跡地に、保育園建設を、という要望がかねてよりあったにも関わらず「韓国人学校」を都民の血税でつくるろうとしていたそうです。
彼は日本に巣食っている所謂「なりすまし」認定されてしまったことで、根底から都民の信頼を失ったというのが偽らざる実相でした。
日本人が払う税金を日本人よりも在日韓国人のために優先的に使うのは「(国籍で区別する)人権相互の調整」というどこの国でも当たり前の道理に反しています。
「なりすまし」政権(旧社会党や旧民主党政権)や自民党政権でも、地方自治体の行政レベルでも日本人以上に優遇されるなど「道理に反したこと」が度々起こっきたことなどが問題なのだと思います。
本来ならばとっくに帰化か帰国を選ぶのが筋だと思います。