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英国が女系の国王を容認した歴史的背景①~ハノーヴァー朝は母系の国王で始まった

2019-07-27 12:12:11 | ヨーロッパ
英国の君主はご存知の通り、エリザベス女王陛下(エリザベス2世陛下 Queen Elizabeth II)次の国王はエリザベス女王の長子のチャールズ皇太子か、長子の家の長子(孫)のウィリアム王子でしょうから、日本の皇室と違い女系での王位継承もありということですね。


しかしこれは「男女平等」などの観点で女王の君臨を認めた結果として、女系になったのではなく、歴史的な権力闘争の結果や前の王朝との繋がり(前の王朝の王家の娘との婚姻での王朝奪取、嫡出の疑念等々)でとっくの昔からイングランド国王が女系であることも容認されていたとみるべきようです。


英仏で戦った「百年戦争」(1337年~1453年) のすぐ後に、フランスから侵入してきたリッチモンド伯 (後のヘンリー7世)によってイングランドの「ヨーク朝」の最後の王であるリチャード3世が倒され、ヨーク朝を広義の意味で含めた「プランタジネット朝」が終焉したのが「ばら戦争」(1455年~1485年) でした。

「ばら戦争」で戦死したリチャード3世の亡骸はレスター州の教会に埋葬されるも、チューダー朝」のヘンリー8世の宗教改革で、教会が壊され、リチャード3世の亡骸や墓地の詳しい場所が500年間行方不明になっていたようです。


そのリチャード3世の遺骨が近年、2012年にロンドン五輪で偶然発見され、遺骨の骨髄から採取されたDNAの解析によって、過去のイングラント王の系譜において、不都合な真実が明かされてしまったようです。


英国の君主はいつから女系になったか、ということの答えとして、まず「チューダー朝」のヘンリー7世はプランタジネット家の王女との婚姻でイングランド王の王座を手にしていることから、これは母系になったのではと思われるかもしれませんが、しかし「チューダー朝」を開いたランカスター家の始祖ジョン・オブ・ゴーント(ランカスター公)がリチャード3世の曾祖父であるヨーク公の兄であることから、ランカスター家もプランタジネット朝の男系男子であると思われてきました。


明確に、家系図の上での女系による王位継承はそれよりも後、「チューダー朝」最後の王にして「ハノーヴァー朝」の最初の王であるジェームズ1世のときであろうと。エリザベス1世には子がなかったので、次の王はスコットランド女王メアリーの息子であるジェームズ1世がイングランド王(ハノーヴァー朝)とスコットランド王(スチュアート朝)を兼ねたからです。


現在の英王室は1917年に始まる「ウィンザー朝」です。ウィンザー朝は、「サクス=コバーグ=ゴータ朝」の後身、あるいは「ハノーヴァー朝」(1714年~1901年)の後身、と見なされています。


「サクス=コバーグ=ゴータ朝」とは、ハノーヴァー朝第6代女王のヴィクトリア女王と王配アルバートの第二子であるエドワード7世と、エドワード7世の次男のジョージ5世の2代の王の代を指します。


ジョージ5世が家名を「ウィンザー家」と改称したことから、現在のように「ウィンザー王朝」と呼ばれるようになったようですので、ウィンザー朝の始祖は「サクス=コバーグ=ゴータ朝」のジョージ5世。


そしてジョージ5世からエリザベス2世までは男系です。「1948年にエリザベス王女(当時)の第一子で長男チャールズが誕生した時、チャールズは国王ジョージ6世の女系の孫であったため、本来ならば王族とはならないが、状況からしてチャールズが将来次期国王に即位することは確実であったため、勅令によってチャールズは王子となった」とあります。


エリザベス2世の夫君のエディンバラ公爵フィリップ殿下は祖父にギリシャ王ゲオルギオス1世 、曾祖父にデンマーク王クリスチャン9世、高祖父にロシア皇帝ニコライ1世、高祖母にイギリス女王ヴィクトリアがいる、とありますから、英王室に繋がる人物ではあるものの、こちらも母系です。


チャールズ皇太子は両親のいずれもイングランド王の家系でみると女系ということになり、現代英王室が女系を法的に正式に容認したのは、チャールズ皇太子が誕生し「王族」の一人と認められた1948年当時ではありますが、実はこれよりはるか昔に、王朝の交代時点で数度女系になっています。






「歴史は勝者によって書かれる」という言葉があります。


英国の「ばら戦争」で敗れたヨーク家のリチャード3世(グロースター公リチャード)のことを、チューダー朝の劇作家であった、ウィリアム・シェークスピアは戯曲「リチャード3世」の中で、実母に「傲岸不遜な冷血漢、奸智に長けた策士」などと言わせ、「邪悪なヒキガエル」「そばを通れば犬も吠える」などと悪意に満ちた表現描写で描いています。映画などでは名優ローレンス・オリビエが演じていますが、舞台劇などではそれこそ冷酷で醜悪な人物という設定でした。


「ばら戦争」(1455年~1485年)の定義もこれまでは「勝者側」のランカスター家によって「イングランド中世封建諸侯による内乱で、イングランドの王座を争って起こっ権力闘争であり、1455年に、ヨーク公リチャード(リチャード3世)が、ヘンリー6世(イングランド王とフランス王を兼ねていた人物)に対し反乱を起こしたことで始まった」などとされ「約30年間ヨーク家(白ばら)とランカスター家(赤ばら)との間で武力で戦われた」などとランカスター家とヨーク家を王位について並列なものであったかのように位置づけられてきました。しかし、果たしてそうでしょうか。


「戦争」そのものはヨーク公リチャードが起こした「反乱」が原因だったのではなく、「百年戦争」で敗れた仏国の側から、遺恨として、リッチモンド公(後のヘンリー7世)がイングランド王の王座を狙って侵入したことが原因と言えなくはないと思います。


この当たりの「教科書的な歴史の記述」などは、あくまでも勝者側に立ったものであり、「ヨーク朝最後の王である」リチャード3世もはその後の「チューダー朝」の劇作家であるシェークスピアによって散々な人物像に描かれて、実像が歪められたきたことが「リチャード3世」の遺骨発見から伺いしることが出来ます。


「ばら戦争」という名は後世の人が名付けたものだそうですが、両家はともに「プランタジネット朝」のエドワード3世の血を引く親戚同士でした。


(詳しくは後の方で書いておりますが)実は「赤ばら」のランカスター家はプランタジネット朝の一族からみて男系親族ではなく女系親族(注)であったことがレスター大学遺伝学チームの解析から判った事実。


そして、リッチモンド公(後の「ヘンリー7世」)が武力でヨーク家を倒し、ヨーク家の王女でエドワード4世の娘のエリザベスと結婚してヨーク家からイングランド王の王座を奪う形で「チューダー朝」を開いた、というのが客観的事実だと思います。


「チューダー朝」の前のイングランド国王は「プランタジネット朝」(広義の意味で「ヨーク朝」を含む)の王で「プランタジネット朝」の始祖は仏貴族であったアンジュリー伯アンリがイングランド王ヘンリー2世として即位したことから始まります。ヘンリー2世から数えて5代目に当たる国王がエドワード1世。


そしてリチャード3世から見て曾祖父に当たる人物がエドワード3世(エドワード1世の孫)。


「プランタジネット朝」最後の王が誰であるかについては諸説あり、狭義ではエドワード黑太子の息子であるリチャード2世までとされているものの、広義の意味で「プランタジネット朝」に含まれる「ヨーク朝」の最後の王はリチャード3世でした。





チューダー朝はヨーク朝のエドワード4世の娘エリザベスと結婚したヘンリー7世が始祖で、有名な絶対王政の君主エリザベス1世の父ヘンリー8世は前王ヘンリー7世の次男。


ここで問題となったのは、論文によると、今回のDNA鑑定の結果によって、ヘンリー4世(Henry IV)、ヘンリー5世(Henry V)、ヘンリー6世(Henry VI)と、ヘンリー7世(Henry VII)から始まりヘンリー8世(Henry VIII)、エドワード6世(Edward VI)、メアリー1世(Mary I)、エリザベス1世(Elizabeth I)で終わる「チューダー朝全体」に嫡出に関する疑念が生まれたこと。


話を少し戻しますが、悪意に満ちた描写でリチャード3世をシェークスピアが貶めたのも、彼が、ランカスター家が開いた「チューダー王朝」のエリザベス1世の時代の劇作家であったことで、チューダー朝のプロパガンダとしての描写であったことが想像されます。


彼の遺体が約530年振りに発見され、その人物像がシェークスピアの描写とは異なり、歴史の勝者であるランカスター家のプロパガンダとは違った人物像が明らかになったため、「シェークスピアが素晴らしいが、リチャード3世は醜悪なヒキガエルではなかった」などの表現で皮肉られています。


グロスター公リチャード(リチャード3世)が、ご自身の兄であるエドワード4世の遺児で少年王エドワード5世とその弟、彼にとって甥である二人の王子をロンドン塔に閉じ込め殺害したというのも、証拠がなく真相は不明。


摂政であったグロスター公リチャード(リチャード3世)が不穏な国内をまとめるために、摂政としてでなく自らが12歳の甥に代わってイングランド王となったのは(12歳では王は務まらず)むりからぬことともいえますし、妻でウォーリック伯の娘アン・ネヴィルとは幼馴染で初恋の相手のようで、アンが28才の若さで亡くなったのはリチャード3世が毒殺したのではなく、長年患っていた結核が原因だったという説があります。


つまり「血に飢えた冷酷な人物像」はつくられたものに過ぎない。


ロンドン五輪に伴う工事によって、500年もの間行方不明だったリチャード3世の遺体がレスター州の駐車場の地下から偶然発見され、DNA鑑定でその遺体が誰のものであるかということが特定され、DNA情報から毛髪の色、瞳の色、遺骨を復元した容貌、遺骨全体の状況などから、リチャード3世という歴史上の人物の実像がおおよそ判ったようです。


DNA鑑定で人骨が15世紀のイングランド王リチャード3世その人であることが確認されたことに加え、数百年にわたり英国を統治した君主たちの系譜に疑問を投げかける「誤った父子関係」も示されたという内容の論文が2014年12月2日に英科学誌「ネイチャー・コミュニケーションズ」で発表されました。


リチャード3世のDNAは彼の曽祖父の兄のジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt)から続く同家系の男系の子孫とは一致しなかった。


これが意味していることは、「(ジョン・オブ・ゴーントから続く同家系の男系の)子孫の中に公式の家系図に書かれた父親とは違う父親を持つ子供がいたこと」であるそうで、レスター大学の遺伝学者テューリ・キング(Turi King)氏率いる研究チームが発表した論文では「この家系図の、ある時点で起きた誤った父子関係は、重要な歴史的意味を持つ可能性がある」と指摘。


ロンドンで開いた記者会見で、同大学のケビン・シュラー(Kevin Schurer)副総長は「我々が発見したのは、(英王家の)(家系の)鎖には断絶した部分があるということ。これがいつ起きたのは分からない」と述べた上で、「エリザベス女王(Queen Elizabeth II)陛下が王位に就く資格がないと示唆しているわけでは、決してない」と注意を促しています。


(注)今回のDNA解析の結果から、「チューダー朝」は「プランタジネット朝」からみて、男系の繋がりがどこかで切れた「女系親族」というのが正しいうようです。

つづく


訂正:
エリザベス女王の初孫はウィリアム王子ではなく、チャールズの妹アン王女の長男のピーター・フィリップス王子でした。

引用:
新潮文庫「リチャード3世」シェークスピア






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