2017年6月15日、いわゆる「共謀罪」の創設を含む改正組織的犯罪処罰法が第193回通常国会で成立し、同年7月11日に施行された。
北朝鮮の拉致実行犯(工作員)に協力したり、その犯罪を隠匿した組織や政治家(土井たか子)を誘拐の組織犯罪に問える法律がこの「改正組織的犯罪処罰法」といういわゆる「共謀罪」であろうか。
この法律ができることを恐れ、妨害した勢力はつまり、共謀罪に問うべき犯罪者側に加担している人々であったということなのではないだろうか。
■再会を果たすことなく・・
1977年11月15日に新潟市内で下校途中の中学1年生のときに北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお父さんで、「拉致被害者の家族の会」の元会長の横田滋さんが6月5日に87歳の生涯を終えられた。
愛娘のめぐさんの無事の帰国と再会をどれほど待っておられたことか。
中学1年生の女の子がひとりぼっちで、北朝鮮の工作員や日本にいる北朝鮮の協力者(朝鮮総連など)によって、誘拐されて連れ去られてしまい、そのまま帰国することを許されずに二度と肉親に会えずに異国のしかもかなり制限だらけの生活を強いられているという状況は、本人だけではなく、その身を案じ続けているご家族全員にとり、人生を大きく狂わされて奪われたようなもの。
このような非人間的なことが赦されるはずがもなく、なぜ、土井たか子氏や朝鮮総連を国会に証人喚問し、犯人隠匿や誘拐幇助などの罪に問わなかったのだろうか。これは大変な組織犯罪である。
日本人拉致被害者の人々を北朝鮮から返してもらうことが、北朝鮮との交渉が出来ずに膠着状態になってしまった現在では殆ど絶望的ではあるが、唯一の救いは、横田さんご夫婦がめぐみさんの娘の子供、つまりひ孫の赤ちゃんに会う機会があったことくらいのようだ。
5名の拉致被害者とその家族の方々が帰国した当時は、他にも大勢いる北朝鮮に拉致された人々を一人残らず帰国させ、原状回復させるべし、という思いを国民の多くが寄せたものであったが、北朝鮮が核やミサイル開発を進め国際社会での孤立を深めていく中で、日朝交渉も膠着状態となって、徒に時が過ぎてしまったようだ。
この状況をどれほど忸怩たる思いで過ごしておられたことか。
■安倍総理の談話
「本当に残念です。横田滋さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。そして(妻の)早紀江さんはじめ、ご遺族の皆さまに心からお悔やみを申し上げたいと思います。滋さんとは本当に長い間、めぐみさんはじめ拉致被害者の方々の帰国を実現するために共に戦ってまいりました」
「2002年の10月15日、5人の拉致被害者の方々が帰国をされた羽田空港に、当時私は官房副長官としてお出迎えにうかがったわけでありますが、横田滋さんも早紀江さんとともに家族の会の代表としてきておられました。そして代表としての責任感から、その場を記録にとどめるためにカメラのシャッターを切っておられました。」
「帰国された拉致被害者の方々はご家族の皆さんと抱き合って喜びをかみしめておられた。その場を、写真をとっておられた滋さんの目から涙が流れていたことを今でも思い出します。あの場にめぐみさんがおられないということ、どんなにか、残念で、悔しい思いだったかとその時、本当ににそう思いました」
このように安倍総理が無念の思いを語っておられた。
■石岡亨さんから届いた手紙
下の文章はめぐみさんと同じように、北朝鮮に拉致された被害者の石岡さんから1988年9月に石岡さんの実家に届いた手紙の全文である。
上の写真のように石岡さんと有本恵子さんと赤ちゃんの写真が同封されてあったのだそうだ。
厳しい監視や検閲の目を潜り抜けて、自分の無事と居場所を家族に知らせるために石岡亨さんからご家族のもとに奇跡的に届いた貴重な証拠の手紙だったのだ。
家族に届けられたその命がけの手紙を持って、「北朝鮮とパイプがある」とされていた土井たか子氏に拉致被害者の家族の有本けいこさんのご両親が藁をもすがる思いで救出を頼んだところ、なんと土井たか子氏は朝鮮総連を通して結果的に北朝鮮にこの手紙のことを密告したそうなのだ。
土井たか子氏が朝鮮総連に教えたことよって、拉致被害者の石岡亨さんという人物がその後どのような運命を辿ったのかは想像ができよう。
この件に関して、土井たか子氏について、論壇誌WiLL2006年5月号では「拉致実行犯辛光洙釈放を嘆願した“社民党名誉党首”」と題する記事をジャーナリストの花岡信昭氏が以下のようなことを書いておられる。
その中で、「土井たか子氏は朝鮮半島出身で本名は『李高順』である」と社民党の土井元衆議院議員は帰化人であったことを明かした上で、「そのことが土井の拉致事件を見る目を曇らせたのか、全て知った上で政治的演技をしていたのか」と論じ、祖国・北朝鮮の利益を図るために日本の利益を蔑ろにしたのだ」と土井を婉曲的に糾弾しておられたそうだ。
■在日マスゴミによる「おたかさんブーム」「マドンナブーム」
このような人物をマスコミがもてはやし、1989年の参議院選と、1990年(平成2年)の衆議院選で土井たか子を中心とする「マドンナ旋風」「マドンナブーム」「おたかさんブーム」なるものを作り出し、社会党優位の選挙結果の延長線上のこととして、自・社・さきがけという3党連立での社会党政権(村山富市内閣)が94年に誕生。
ちょうど民主党政権をマスコミが誕生させたのと同じ現象がこのときも起こってしまったのである。
■土井たか子の大罪
その当時、旧社会党委員長や衆議院議長まで勤めた「女性国会議員」の土井たか子氏は「(北朝鮮による)拉致などない」と国会で断言していたのだそうだ。
つまり、旧社会党は朝鮮総連と繋がりをもった土井たか子のような帰化人が代表を務めるような政党だったわけで、「慰安婦問題」のシナリオを描いたのは「土井チルドレン」の筆頭、福島瑞穂だった。彼女は2003年から2013年の10年間にわたって旧社会党の党首を務めた。
この福島瑞穂という人物は、帰化前の氏名が趙春花といい1986年2月15日に帰化した人物であるという情報がある。
2010年に、当時、東京都知事だった石原慎太郎が、外国人地方参政権に反対の立場をとった集会で、総論として「与党幹部(自社さきがけでは社会党が与党だった)には、親などが帰化した人が多い」という旨の発言をしている。
福島瑞穂氏は「私のことを指していると思った」とし、「私も、私の両親も帰化した者ではない」と、わざわざ帰化を否定。石原慎太郎都知事が発言を撤回しない場合は法的訴訟に出る、と激怒したのだそうですが、その後どうなったのであろうか。
■「河野談話」はマドンナブームの副産物?
「自社さきがけ」連立時代(1994年6月30日~1998年6月)の当時の自民党の総裁(1993年7月30日~1995年9月30日)が河野洋平氏である。
社会党政権が誕生する前年の93年8月4日に河野洋平氏が朝日新聞社の虚構の記事をもとにした「河野談話」を出し、現在も日本にとり計り知れないほど国益をそこなうことになる「従軍慰安婦問題」の原点をつくった。
実は、朝日新聞に先立ち、従軍慰安婦問題シナリオを書いた張本人は、土井ちるどれん筆頭の福島瑞穂現社民党副党首なのだ。
従軍慰安婦問題のために、海外で日本の子供たちがいわれないいやがらせや苛めを受けるなどの事例もあるそうだ。
福島瑞穂氏の悪行については、いつか必ず公の場で問い質し、やってきたこと相応に償ってもらわなければならないと思う。
「自民党総裁で唯一総理になれなかった人物」などといわれる河野洋平氏は、当時の社会党旋風「マドンナブーム」の土井たか子や福島瑞穂らに恰も洗脳されていたかのようであり、結果的に英霊達には拭い難い泥をかぶせ、福島瑞穂氏同様、日本の歴史には汚点を残すことになった大罪人といえる。
拉致問題に戻ると、もし、1988年石岡亨さんから届いた1通の手紙が、土井たか子の目に触れる前に、心ある日本の有力政治家が素早く動いて、北朝鮮に対し日本政府として、石岡亨さん、有本恵子さんの安否確認をしていたなら、この方々も含め、拉致された日本人の方々をもっと多く、もっと早く帰国させてあげられたのではないだろうか。
土井に始まり福島瑞穂、辻元清美。
ついでに有田芳生、山口二郎、小沢一郎、辛淑玉、朝日新聞論壇時評の津田大介・・・。河野洋平や宮崎駿はDupesなんでしょうか。彼らには共通の思想があるようです。
大村愛知県知事のブレインは山口二郎、愛知トリエンナーレの監督は津田大介、愛・地球博記念公園のジブリパークは宮崎駿。
何だか匂います。チュチェ思想については、緊急特番『チュチェ思想研究会inチャンネルくらら』が詳しく面白いです。