2018/3/31(土) 午後 4:42
関東大震災の死者行方不明者 105385人(約10万5千人)の9割近くは避難所などの火災による焼死(約9万2千人)といわれている。
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/pdf/kouhou039_20-21.pdf
以下は「デマではなく実話!」から引用しながら、時系列的に転載。
(引用元は最後に紹介)
大震災のニュースを聞いた朝鮮の過激派労働者集団は、「共産主義を鼓吹する者及之等に依り組織せられたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の被害より之に伴ふ火災の損害が最甚大なる規模なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因る(よる)ものなり」と喜んだそうなのだ(「現代史資料6」)
「義烈団」の団長 金元鳳(キムウォンボン)は震災の8日後の9月9日、日本の民心動揺を好機ととらえ、部下を集めて天津から東京へ向かわせた。「義烈団」は保管してた爆弾50個を安東(アントン・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)に発送したという情報を警務局がキャッチ。
時代背景:
1910年日韓併合。
(前年、保護国朝鮮の総督府初代総監伊藤博文公が中国ハルピンにて暗殺)
これにより日本国内に多数の朝鮮出身者が流入。
震災当時東京都内に約9千人(政府の計算では東京在住者はおよそ9千人(労働者6千人、学生3千人)とされています。(「現代史資料6」朝鮮総督府警務局文書)横浜ほか東京近県には3千人が住んでいたので、合計1万2千人。夏休みで帰郷していた学生がこのうち2,200人(東京1,800、その他400)と推定され、差し引き9,800人が東京・横浜附近にいた。これは多くの関係資料が認めるところだそうだ。
天皇の御不例が巷間噂されはじめた1917(大正6)年10月にはロシア革命が成立。労働運動の波が朝鮮半島をも 席捲し、大正デモクラシーの風潮にのって日本本土でも社会主義者や共産主義者が勢いを得る。
ロシア革命の成功からコミンテルン創立への一連の趨勢が民族主義と一つになって発火したのが1919(大正8)年3月、韓国における「三・一独立運動」。
暴動は鎮圧されたが、同年9月12日、テロリストによる朝鮮総督府爆弾投擲事件が発生。犯行は組織的テロ集団「義烈団」の金益相によるものとわかり、金は上海で逮捕。
独立運動の中心人物たちは上海へいったん上陸し、満州の間島(カンド・現・中国吉林省東部、ロシア、北朝鮮に向かい合う一帯)であらためて武装闘争の準備をはじめた。別の一群は日本を運動拠点に定め、密入国して朝鮮独立と社会主義運動の拡大を目指していた。
以来、日本における朝鮮人の犯罪が新聞に載らない日はないと言っていいくらい、活動資金調達のための現金強奪事、首相官邸の爆破襲撃未遂事件などが多発。
原内閣のあとを引き継いだ高橋是清内閣も翌大正11年6月内閣府統一によりわずか半年足らずで 瓦解 。後継の加藤友三郎首相は8月24日に急死。次期首相には大地震の4日前の8月28日午後、海軍大将 山本権兵衛に二度目の大命が下りた。
1923(大正12)年の4月、皇太子は軍艦「金剛」で台湾行啓に赴かれたが、このときすでに義烈団のテロ行為が危ぶまれていた。魏烈段は台湾で早くから皇太子暗殺計画を練り、団員はすべてピストルを携行し爆弾部隊も編成されていたが、結果として厳重な警戒態勢が功を奏し無事に台湾視察から帰国。
しかし、「義烈団」をはじめとする朝鮮人過激派は皇太子暗殺を諦めたわけではなく、実は摂政宮の御婚儀の機会を虎視眈々と狙っていた。摂政宮を暗殺し、日本の国体を揺るがせて独立運動の勝利に結びつけようという朝鮮独立運動家たちのたくらみは政府も重々承知して、警戒を強めていた。
目標達成のため日本国内への侵入をくりかえし、時機をうかがっていた上海の大韓民国臨時政府とその 庇護 ひご を受けたテロ集団にも路線をめぐる党派争いがあり、その結果、いくつかに分裂した集団は個々に計画を練り、日本内地襲撃を狙っていたと考えられる。
いずれの分派も目標の第一は摂政宮の御成婚当日、それも摂政宮そのものを目標とし、一斉に暴動を起こすことが画策。ところが、テロリスト集団さえ予想もしなかった大地震が、まだ準備の整わない9月1日に起きてしまった。彼らにとっても想定外の混乱が生じたのだ。
1923(大正12)年9月1日午前11時58分44秒。
震源地は相模原湾海底、M7.9の地震が発生。
軟弱な地盤に家屋が密集する東京下町一帯は、地震による倒壊にとどまらず、
大規模な火災の発生によって 未曽有 の大被害を受けた。
地震発生直後から自警団が組織されたのは、そういう社会不安が背景にあったことや、自分の住む町内は可能な限り自力で守るという伝統は、江戸時代の「自身番」からつづく我が国の習慣であり、そこへ朝鮮人襲撃の情報が入ってきたことから自衛に立ち上がるのは当然であった。
流言飛語などではなく、実際に当時の新聞によれば9月1日の関東大震災のあとに以下のようなことがあった。
9月3日・4日の新聞には、「不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令 を布く」「鮮人、至る所めったぎりを働く二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す」「三日朝二人づれの鮮人が井戸に猫入らずを投入せんとする現場を警戒員が発砲して直ちに逮捕した」
(いずれも「東京日日新聞」)
横浜では、朝鮮人およそ二千人が掠奪と強姦をくりかえし、軍隊の出動もままならないので、監獄の囚人を解放して、看守の指揮のもとでこれに対抗して大戦闘になり、朝鮮人百余人をたおした。(「河北新報」)
品川では、横浜方面から鉄砲や日本刀で武装した三百人ほどの朝鮮人が押し寄せて爆弾を投げて暴れ、住民が防戦するうち、第三連隊が出動して鎮圧したか朝鮮人と間違えられて殺された日本人もかなりいたという証言も。(「北海タイムズ」)
つづく
関東大震災の死者行方不明者 105385人(約10万5千人)の9割近くは避難所などの火災による焼死(約9万2千人)といわれている。
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/pdf/kouhou039_20-21.pdf
以下は「デマではなく実話!」から引用しながら、時系列的に転載。
(引用元は最後に紹介)
大震災のニュースを聞いた朝鮮の過激派労働者集団は、「共産主義を鼓吹する者及之等に依り組織せられたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の被害より之に伴ふ火災の損害が最甚大なる規模なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因る(よる)ものなり」と喜んだそうなのだ(「現代史資料6」)
「義烈団」の団長 金元鳳(キムウォンボン)は震災の8日後の9月9日、日本の民心動揺を好機ととらえ、部下を集めて天津から東京へ向かわせた。「義烈団」は保管してた爆弾50個を安東(アントン・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)に発送したという情報を警務局がキャッチ。
時代背景:
1910年日韓併合。
(前年、保護国朝鮮の総督府初代総監伊藤博文公が中国ハルピンにて暗殺)
これにより日本国内に多数の朝鮮出身者が流入。
震災当時東京都内に約9千人(政府の計算では東京在住者はおよそ9千人(労働者6千人、学生3千人)とされています。(「現代史資料6」朝鮮総督府警務局文書)横浜ほか東京近県には3千人が住んでいたので、合計1万2千人。夏休みで帰郷していた学生がこのうち2,200人(東京1,800、その他400)と推定され、差し引き9,800人が東京・横浜附近にいた。これは多くの関係資料が認めるところだそうだ。
天皇の御不例が巷間噂されはじめた1917(大正6)年10月にはロシア革命が成立。労働運動の波が朝鮮半島をも 席捲し、大正デモクラシーの風潮にのって日本本土でも社会主義者や共産主義者が勢いを得る。
ロシア革命の成功からコミンテルン創立への一連の趨勢が民族主義と一つになって発火したのが1919(大正8)年3月、韓国における「三・一独立運動」。
暴動は鎮圧されたが、同年9月12日、テロリストによる朝鮮総督府爆弾投擲事件が発生。犯行は組織的テロ集団「義烈団」の金益相によるものとわかり、金は上海で逮捕。
独立運動の中心人物たちは上海へいったん上陸し、満州の間島(カンド・現・中国吉林省東部、ロシア、北朝鮮に向かい合う一帯)であらためて武装闘争の準備をはじめた。別の一群は日本を運動拠点に定め、密入国して朝鮮独立と社会主義運動の拡大を目指していた。
以来、日本における朝鮮人の犯罪が新聞に載らない日はないと言っていいくらい、活動資金調達のための現金強奪事、首相官邸の爆破襲撃未遂事件などが多発。
原内閣のあとを引き継いだ高橋是清内閣も翌大正11年6月内閣府統一によりわずか半年足らずで 瓦解 。後継の加藤友三郎首相は8月24日に急死。次期首相には大地震の4日前の8月28日午後、海軍大将 山本権兵衛に二度目の大命が下りた。
1923(大正12)年の4月、皇太子は軍艦「金剛」で台湾行啓に赴かれたが、このときすでに義烈団のテロ行為が危ぶまれていた。魏烈段は台湾で早くから皇太子暗殺計画を練り、団員はすべてピストルを携行し爆弾部隊も編成されていたが、結果として厳重な警戒態勢が功を奏し無事に台湾視察から帰国。
しかし、「義烈団」をはじめとする朝鮮人過激派は皇太子暗殺を諦めたわけではなく、実は摂政宮の御婚儀の機会を虎視眈々と狙っていた。摂政宮を暗殺し、日本の国体を揺るがせて独立運動の勝利に結びつけようという朝鮮独立運動家たちのたくらみは政府も重々承知して、警戒を強めていた。
目標達成のため日本国内への侵入をくりかえし、時機をうかがっていた上海の大韓民国臨時政府とその 庇護 ひご を受けたテロ集団にも路線をめぐる党派争いがあり、その結果、いくつかに分裂した集団は個々に計画を練り、日本内地襲撃を狙っていたと考えられる。
いずれの分派も目標の第一は摂政宮の御成婚当日、それも摂政宮そのものを目標とし、一斉に暴動を起こすことが画策。ところが、テロリスト集団さえ予想もしなかった大地震が、まだ準備の整わない9月1日に起きてしまった。彼らにとっても想定外の混乱が生じたのだ。
1923(大正12)年9月1日午前11時58分44秒。
震源地は相模原湾海底、M7.9の地震が発生。
軟弱な地盤に家屋が密集する東京下町一帯は、地震による倒壊にとどまらず、
大規模な火災の発生によって 未曽有 の大被害を受けた。
地震発生直後から自警団が組織されたのは、そういう社会不安が背景にあったことや、自分の住む町内は可能な限り自力で守るという伝統は、江戸時代の「自身番」からつづく我が国の習慣であり、そこへ朝鮮人襲撃の情報が入ってきたことから自衛に立ち上がるのは当然であった。
流言飛語などではなく、実際に当時の新聞によれば9月1日の関東大震災のあとに以下のようなことがあった。
9月3日・4日の新聞には、「不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令 を布く」「鮮人、至る所めったぎりを働く二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す」「三日朝二人づれの鮮人が井戸に猫入らずを投入せんとする現場を警戒員が発砲して直ちに逮捕した」
(いずれも「東京日日新聞」)
横浜では、朝鮮人およそ二千人が掠奪と強姦をくりかえし、軍隊の出動もままならないので、監獄の囚人を解放して、看守の指揮のもとでこれに対抗して大戦闘になり、朝鮮人百余人をたおした。(「河北新報」)
品川では、横浜方面から鉄砲や日本刀で武装した三百人ほどの朝鮮人が押し寄せて爆弾を投げて暴れ、住民が防戦するうち、第三連隊が出動して鎮圧したか朝鮮人と間違えられて殺された日本人もかなりいたという証言も。(「北海タイムズ」)
つづく