Bo-Bo-Rock

このページは、時間が前後しますが f-o-q の 備忘録 です。
昨日のことより、云十年前の方が鮮明だったりします。

バイオリンの日(8月28日)

2022-08-28 20:00:00 | 現在過去日記
1880年8月28日、東京・深川の三味線職人・松永定次郎が国産バイオリンの第1号を完成させた。
東京・深川の三味線職人松永定次郎が、ニコライ会堂にあるバイオリンを楽師デミトリに頼んで見せてもらい、見た目で図面を書き取って帰ると、輸入ラシャの外箱を使って製作し、1880年08月28日に、国産バイオリンの第1号を完成。当時は提琴(ていきん)と呼ばれていた。

明治事物起源という本に、「バイオリンの製造」として載っている。
鈴木政吉は1887年に、愛知県尋常師範学校の音楽教師恒川鐐之助(1867 - 1906)のもとで唱歌を習い始めた。1ヶ月ほど経った頃、鈴木政吉(1859 - 1944)は門人仲間の甘利鉄吉が持っていた日本製バイオリンを見た。それが、松永定次郎が作ったものであった。
甘利鉄吉がバイオリンを作ったら売れるというので、鈴木政吉はバイオリンを作ることを決心。
鈴木バイオリン製造株式会社製として、第1号は1887年から1888年に製作したが売れず、2号を経て、3号は1号の二倍の音量を出せるほど進歩した。1888年に、自作のバイオリンが恒川の門人に売れたことで、政吉は自信を持った。それらはすべて独学で作った。

1887年に発足した東京音楽学校のお雇い音楽教師ルドルフ・ディトリッヒ(Rudolf Dittrich/1867 - 1919)は、鑑定の結果「東京市内にも2、3か所で製作しているが、この品には到底およばない。和製品としては今日第一位を占めるものである」と評価。
1893年の『音楽雑誌』に、輸入バイオリンと同様の音質をもち、廉価であると、ルドルフ・ディトリッヒの推薦文が掲載されている。
その後、1900年パリ万国博覧会の楽器部門で入賞。

8月28日の出来事「 専守防衛 」
1853年:黒船から江戸湾を防衛する為、品川沖に沿岸砲台「御台場」の築城を開始。
幕末の要塞
1853年、ペリーの黒船来航に備え幕府はこの地に砲台を築く。

台場の数は、全国各地に約800基も存在するといわれている。
砲台の他に、土を高く盛った防御壁(土塁)や弾薬庫跡などがある。
史跡の名所は「品川第三台場」。なぜ、第三なのかというと、当初は第11基まで築造を予定されていたが、計画途中での築造中止や、のちの撤去を経て、現在は「第三台場」と「第六台場」のみが残されている。
お台場めぐりは、tokyo cruise ヒミコ、ホタルナ、エメラルダスでGO!
船のデザインは、「銀河鉄道999」で有名なSF漫画作家、松本零士。
で、家族様御一行で東モの帰りに巡ったよ。

8月28日生まれ「 名物監督 」
1923年:蔦文也(高校野球監督)
「攻めダルマ」の異名を持つ高校野球を代表する名将のひとり。
今から40年前の、夏の高校野球64回大会で初優勝を飾った池田高校の球児と蔦文也監督(1982年8月撮影)

芯を少々外していても筋力があれば打球を飛ばせる金属バットの特性を最大限に生かすため筋力トレーニングを積極的に行い、「やまびこ打線」というニックネームがついた強力打線で以後の高校野球のスタイルをも変えてしまった。

蔦の率いるチームも1982年夏の第64回全国選手権、1983年春の第55回選抜と夏春連覇を達成し、名実ともに黄金時代を迎える。
当時の池田高校は類まれなる強さと蔦のキャラクターもあり、高校野球史上屈指の人気校となった。
蔦監督の鉄拳制裁は、野球のミスではなく「野球部員としてふさわしくない行動」をとったとき。礼儀を守ることの大切さを教育した。
阿波池田、そして三好市を応援するキャラクター つたはーん
けつバットのプレゼント付き?だそうで、ご希望の方はぜひ

8月28日の誕生花「 千日紅:永遠の命、色あせぬ愛、不朽 」
センニチコウ(千日紅)は、名前のとおり開花期の長さが特徴。
7月~11月の約5ヶ月にわたって、あざやかな花を咲かせ続ける。
花言葉もそれにちなんで、「色あせぬ愛」「不朽」などがつけられた。
乾燥させても花色が変わらないので、ドライフラワーにも人気

おまけ
小僧君が、久方ぶりの帰省(ほぼ1年半ぶりだけど元気そうでなにより)
2号機GC8(IHIタービン仕様)が爆音仕様にいじられていたが、
ノーマルで乗っててほしかったなぁ。ボソッ

では f-o-q


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