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教育によって自分の可能性を発揮する

2022-01-23 08:40:22 | 日記
ヤングアダルト
教育によって自分の可能性を発揮する
YAウィークリースタッフ
学ぶ機会を求めることが自らの可能性を発揮するうえでどのような助けになるか,パプアニューギニアの一人のヤングアダルトが分かち合います。


イラスト/ジュリア・イエロー
あなたは自分がどのような人になりたいか,自覚していますか。そのような人になるうえで何が助けになるか,知っていますか。七十人のジョセフ・W・シターティ長老は次のように教えています。「自分がどのような人物になれるかについて明確なビジョンを育むことができたなら,主は皆さんのために道を開いてくださいます。

パプアニューギニアのフラ出身のクリスティーナ・オーゲリアは,教育によって自らの目標を達成する助けを得ています。クリスティーナは小さいころからずっと読書が大好きで,大学に行くという目標を持っていました。クリスティーナを教会に導いたのは,その読書愛でした。

「小学5年生のとき,学校には本がありませんでした」とクリスティーナは言います。「わたしの先生は教会員でした。先生はほかに本を持っていなかったので,わたしたちにモルモン書をくれました。」

時がたち,クリスティーナはフィリピンで伝道し,それからブリガム・ヤング大学ハワイ校で学び始めました。今は政治学と経営学の両分野を同時に専攻し,中国語を副専攻としながら,法科大学院を目指して努力しています。

クリスティーナは新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより帰郷を余儀なくされ,自身のストーリーの出発点に帰りました。故郷の村に滞在中のある日,クリスティーナは自分の小学校の図書館にシロアリが発生していることを知りました。クリスティーナは地元の団体と教会の協力を得ながら,新しい図書館の建設を監督しました。同時に,その図書館を今後長年にわたって運営し続けるためのシステムも整えました。

地域を助けられてうれしく思う一方で,自分がここまで来るには相当の信仰と努力が必要だったとクリスティーナは説明します。「何も持っていないけれども学びたいときにどんな気持ちがするか,わたしは知っています」とクリスティーナは言います。そして,自身のあらゆる経験を通して,クリスティーナは教育の価値と目的について多くを学んできました。
成績以上のもの
教会の指導者はしばしば,どのようなものであろうと可能なかぎり教育を求めることが重要であると教えています。「主と教会は教育を受けることを常に奨励してきました。それはわたしたちが能力を向上させ,主と天の御父の子供たちによりよく仕えるようになるためです」と,大管長会第二顧問のヘンリー・B・アイリング管長は教えています。

しかし,クリスティーナも話しているように,教育とはただ教室に座っていることだけを言うのではありません。「教授の一人がわたしたちにこう言ったんです。学問で大事なのは,ただ好成績を上げ,卒業証書をもらい,最終的に職を得ることではない。大事なのは概念を理解することだ,と。」そして,教育によって人生にほんとうに違いをもたらすには,学んだことを自分の一部としなくてはなりません。「学ぶことが大好きでなければいけません」とクリスティーナは付け加えます。

教育を受ける方法は,たくさんあります。「学ぶ場所は,学校だけではありません」とクリスティーナは言います。「教会でも学べます。家庭でも学べます。わたしたちはどこでも学べます。」知識を広げる機会を生かすとき,わたしたちはより高い教養を身につけ,学びの過程がますます生活の中心となっていきます。
教育は奉仕をする助けになる
わたしたち一人一人が「神にお会いする用意をする」(アルマ34:32)うえで知識は重要な助けになると,クリスティーナは証しています。「わたしたちは学ぶことによって成長し,自らの可能性を発揮できるようになります」とクリスティーナは言います。謙遜に知識を求めるとき,わたしたちはより天の御父とイエス・キリストのようになり,再び御二方とともに住むための用意をすることができます。

個人の可能性を解き放つことで,教育はほかの人々に奉仕する能力も高めます。ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように言っています。「教育とは,ほかの人を助けたいと願う人を,助けることができる人に変えるものです。

これは,クリスティーナが教育から見いだした最大の祝福の一つです。「教育はわたしに,自分はほかの人にスキルを教えられるという自信を与えてくれます」とクリスティーナは言います。「教会で教えることにも,多くの責任が伴います。ですから,自信を持って若い女性や青少年を教えられるのはすばらしいことです。」
神がわたしたちを助けてくださる
教育を得るためには,根気と強さが必要です。しかし,それは可能です。最初,クリスティーナは目標をどのように達成すればよいか分かりませんでした。「どこで資金を得られるか分かりませんでした」と言います。しかしクリスティーナは次のことを知ります。わたしたちが神を信頼し,神の助けを求めるとき,神は御自分がお求めになっていることを達成できるよう,わたしたちを助けてくださるのです。

「自分の夢や計画のどれについても,わたしは必ず天の御父に二つのことを教えてくださるよう求めました。わたしに何が行えるのかと,どうすればそれを行えるのかです。そして,御父は決してわたしを放っておくことはなさいませんでした。わたしにとってより良いものがあることを御存じで,わたしを導いてくださいました。その間ずっと,わたしは天の御父がともにいてくださることを知っていました。また,今もともにいてくださいます。」

そして,わたしたちが天の御父の助けを求めるとき,御父はさらに教育と知識を得る機会を授けてくださいます。

教育を受けることは努力に値するということを,クリスティーナは知っています。「自分にはできないと考えている人には,神がわたしたちに与えてくださっている莫大な可能性を思い出してほしいと思います。神がその可能性を与えてくださっていると信じることで,わたしたちはそれを解き放つことができます。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2022年2月号リアホナからご紹介しました。

赤字青字は追加しています。

本日もお読みいただいてありがとうございます。

良い安息日をお祈りします。

アブラハムの僕を迎えるリベカ

2022-01-22 04:15:10 | 日記

旧約聖書の絵
アブラハムの僕を迎えるリベカ


わたしは……水をくみに出てくる娘に向かって,『お願いです。あなたの水がめの水を少し飲ませてください』と言い, 「お飲みください。あなたのらくだのためにも、くみましょう」とわたしに言うなら、その娘こそ、主がわたしの主人の子のために定められた女ということにしてください』。 創世24:12-44

「井戸の傍らのリベカとエリエゼル」オッタビオ・バンニーニ画、美術史美術館(オーストリア・ウィーン)、写真/エーリッヒ・レッシング/Art Resource, NY




創世記 第24章


24:1アブラハムは年が進んで老人となった。主はすべての事にアブラハムを恵まれた。

24:2さてアブラハムは所有のすべてを管理させていた家の年長のしもべに言った、「あなたの手をわたしのももの下に入れなさい。

24:3わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。

24:4あなたはわたしの国へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければならない」。

24:5しもべは彼に言った、「もしその女がわたしについてこの地に来ることを好まない時は、わたしはあなたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきでしょうか」。

24:6アブラハムは彼に言った、「わたしの子は決して向こうへ連れ帰ってはならない。

24:7天の神、主はわたしを父の家、親族の地から導き出してわたしに語り、わたしに誓って、おまえの子孫にこの地を与えると言われた。主は、み使をあなたの前につかわされるであろう。あなたはあそこからわたしの子に妻をめとらねばならない。

24:8けれどもその女があなたについて来ることを好まないなら、あなたはこの誓いを解かれる。ただわたしの子を向こうへ連れ帰ってはならない」。

24:9そこでしもべは手を主人アブラハムのももの下に入れ、この事について彼に誓った。

24:10しもべは主人のらくだのうちから十頭のらくだを取って出かけた。すなわち主人のさまざまの良い物を携え、立ってアラム・ナハライムにむかい、ナホルの町へ行った。

24:11彼はらくだを町の外の、水の井戸のそばに伏させた。時は夕暮で、女たちが水をくみに出る時刻であった。

24:12彼は言った、「主人アブラハムの神、主よ、どうか、きょう、わたしにしあわせを授け、主人アブラハムに恵みを施してください。

24:13わたしは泉のそばに立っています。町の人々の娘たちが水をくみに出てきたとき、

24:14娘に向かって『お願いです、あなたの水がめを傾けてわたしに飲ませてください』と言い、娘が答えて、『お飲みください。あなたのらくだにも飲ませましょう』と言ったなら、その者こそ、あなたがしもべイサクのために定められた者ということにしてください。わたしはこれによって、あなたがわたしの主人に恵みを施されることを知りましょう」。

24:15彼がまだ言い終らないうちに、アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘リベカが、水がめを肩に載せて出てきた。

24:16その娘は非常に美しく、男を知らぬ処女であった。彼女が泉に降りて、水がめを満たし、上がってきた時、

24:17しもべは走り寄って、彼女に会って言った、「お願いです。あなたの水がめの水を少し飲ませてください」。

24:18すると彼女は「わが主よ、お飲みください」と言って、急いで水がめを自分の手に取りおろして彼に飲ませた。

24:19飲ませ終って、彼女は言った、「あなたのらくだもみな飲み終るまで、わたしは水をくみましょう」。

24:20彼女は急いでかめの水を水ぶねにあけ、再び水をくみに井戸に走って行って、すべてのらくだのために水をくんだ。

24:21その間その人は主が彼の旅の祝福されるか、どうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。

24:22らくだが飲み終ったとき、その人は重さ半シケルの金の鼻輪一つと、重さ十シケルの金の腕輪二つを取って、

24:23言った、「あなたはだれの娘か、わたしに話してください。あなたの父の家にわたしどもの泊まる場所がありましょうか」。

24:24彼女は彼に言った、「わたしはナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です」。

24:25また彼に言った、「わたしどもには、わらも、飼葉もたくさんあります。また泊まる場所もあります」。

24:26その人は頭を下げ、主を拝して、

24:27言った、「主人アブラハムの神、主はほむべきかな。主はわたしの主人にいつくしみと、まこととを惜しまれなかった。そして主は旅にあるわたしを主人の兄弟の家に導かれた」。


24:28娘は走って行って、母の家のものにこれらの事を告げた。 24:29リベカにひとりの兄があって、名をラバンといった。ラバンは泉のそばにいるその人の所へ走って行った。

24:30彼は鼻輪と妹の手にある腕輪とを見、また妹リベカが「その人はわたしにこう言った」というのを聞いて、その人の所へ行ってみると、その人は泉のほとりで、らくだのそばに立っていた。

24:31そこでその人に言った、「主に祝福された人よ、おはいりください。なぜ外に立っておられますか。わたしは家を準備し、らくだのためにも場所を準備しておきました」。

24:32その人は家にはいった。ラバンはらくだの荷を解いて、わらと飼葉をらくだに与え、また水を与えてその人の足と、その従者たちの足を洗わせた。

24:33そして彼の前に食物を供えたが、彼は言った、「わたしは用向きを話すまでは食べません」。ラバンは言った、「お話しください」。


24:34そこで彼は言った、「わたしはアブラハムのしもべです。

24:35主はわたしの主人を大いに祝福して、大いなる者とされました。主はまた彼に羊、牛、銀、金、男女の奴隷、らくだ、ろばを与えられました。

24:36主人の妻サラは年老いてから、主人に男の子を産みました。主人はその所有を皆これに与えました。

24:37ところで主人はわたしに誓わせて言いました、『わたしの住んでいる地のカナンびとの娘を、わたしの子の妻にめとってはならない。

24:38おまえはわたしの父の家、親族の所へ行って、わたしの子に妻をめとらなければならない』。

24:39わたしは主人に言いました、『もしその女がわたしについてこない時はどういたしましょうか』。

24:40主人はわたしに言いました、『わたしの仕えている主は、み使をおまえと一緒につかわして、おまえの旅にさいわいを与えられるであろう。おまえはわたしの親族、わたしの父の家からわたしの子に妻をめとらなければならない。

24:41そのとき、おまえはわたしにした誓いから解かれるであろう。またおまえがわたしの親族に行く時、彼らがおまえにその娘を与えないなら、おまえはわたしにした誓いから解かれるであろう』。

24:42わたしはきょう、泉のところにきて言いました、『主人アブラハムの神、主よ、どうか今わたしのゆく道にさいわいを与えてください。

24:43わたしはこの泉のそばに立っていますが、水をくみに出てくる娘に向かって、「お願いです。あなたの水がめの水を少し飲ませてください」と言い、

24:44お飲みください。あなたのらくだのためにも、くみましょう」とわたしに言うなら、その娘こそ、主がわたしの主人の子のために定められた女ということにしてください』。

24:45わたしが心のうちでそう言い終らないうちに、リベカが水がめを肩に載せて出てきて、水をくみに泉に降りたので、わたしは『お願いです、飲ませてください』と言いますと、

24:46彼女は急いで水がめを肩からおろし、『お飲みください。わたしはあなたのらくだにも飲ませましょう』と言いました。それでわたしは飲みましたが、彼女はらくだにも飲ませました。

24:47わたしは彼女に尋ねて、『あなたはだれの娘ですか』と言いますと、『ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です』と答えました。そこでわたしは彼女の鼻に鼻輪をつけ、手に腕輪をつけました。

24:48そしてわたしは頭をさげて主を拝し、主人アブラハムの神、主をほめたたえました。主は主人の兄弟の娘を子にめとらせようと、わたしを正しい道に導かれたからです。

24:49あなたがたが、もしわたしの主人にいつくしみと、まことを尽そうと思われるなら、そうとわたしにお話しください。そうでなければ、そうでないとお話しください。それによってわたしは右か左に決めましょう」。

24:50ラバンとベトエルは答えて言った、「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことができません。

24:51リベカがここにおりますから連れて行って、主が言われたように、あなたの主人の子の妻にしてください」。

24:52アブラハムのしもべは彼らの言葉を聞いて、地に伏し、主を拝した。

24:53そしてしもべは銀の飾りと、金の飾り、および衣服を取り出してリベカに与え、その兄と母とにも価の高い品々を与えた。

24:54彼と従者たちは飲み食いして宿ったが、あくる朝彼らが起きた時、しもべは言った、「わたしを主人のもとに帰らせてください」。

24:55リベカの兄と母とは言った、「娘は数日、少なくとも十日、わたしどもと共にいて、それから行かせましょう」。

24:56しもべは彼らに言った、「主はわたしの道にさいわいを与えられましたから、わたしを引きとめずに、主人のもとに帰らせてください」。

24:57彼らは言った、「娘を呼んで聞いてみましょう」。

24:58彼らはリベカを呼んで言った、「あなたはこの人と一緒に行きますか」。彼女は言った、「行きます」。

24:59そこで彼らは妹リベカと、そのうばと、アブラハムのしもべと、その従者とを送り去らせた。

24:60彼らはリベカを祝福して彼女に言った、
「妹よ、あなたは、ちよろずの人の母となれ。
あなたの子孫はその敵の門を打ち取れ」。

24:61
リベカは立って侍女たちと共にらくだに乗り、その人に従って行った。しもべはリベカを連れて立ち去った。

24:62さてイサクはベエル・ラハイ・ロイからきて、ネゲブの地に住んでいた。

24:63イサクは夕暮、野に出て歩いていたが、目をあげて、らくだの来るのを見た。

24:64リベカは目をあげてイサクを見、らくだからおりて、

24:65しもべに言った、「わたしたちに向かって、野を歩いて来るあの人はだれでしょう」。しもべは言った、「あれはわたしの主人です」。するとリベカは、被衣で身をおおった。

24:66しもべは自分がしたことのすべてをイサクに話した。

24:67イサクはリベカを天幕に連れて行き、リベカをめとって妻とし、彼女を愛した。こうしてイサクは母の死後、慰めを得た。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2022年2月号リアホナから、ご紹介しました。

赤字青字は追加しています。

本日もお読みいただいてありがとうございます。

良い1日をお祈りします。

キリストのようになる

2022-01-21 05:03:48 | 日記
キリストのようになる
スコット・D・ホワイティング長老
七十人
神である救い主の助けを受けることによってのみ,わたしたちは皆救い主のようになることを目指して成長できるのです。
イエス・キリストの生涯と教導の業をしっかりと研究している人にとってさえも,「わたしのようでなければならない」という救い主の訓告は気の遠くなるような,達成不可能なことに思えるものです。恐らく皆さんもわたしのように,皆,自分の欠点や失敗に気を取られすぎています。ですから,あまり成長を求められない楽な道を歩むほうが精神的に楽であると感じるかもしれません。「確かに,この教えは非現実的で誇張である」と言って正当化し,わたしたちは抵抗のもっとも少ない道,すなわち,変わるためにエネルギーをあまり使わなくて済む道を気楽に選択するのです。

しかし,わたしたちの現世での状態において,もし「〔救い主の〕ように」なることは比喩ではないとしたら,どうでしょうか。もしこの世においても,ある程度達成可能だとしたらどうでしょうか。実際,主と再びともに住むための前提条件ですが。もし「わたしのようでなければならない」ということが,寸分たがわず救い主が意味しておられたことであったらどうでしょうか。どうするでしょうか。自分の本質を変えることができるように,主の奇跡の力を自分の生活に招き入れるために,わたしたちはどんな努力を進んで行うでしょうか。

ニール・A・マックスウェル長老は次のように教えています。「主のようになるようイエスから命じられていることについて深く考える際,わたしたちは,自分たちの置かれている現在の状況を必ずしも邪悪なものとは考えていませんが,むしろ,そのせいであまり真剣に物事を行わず,わたしたちの大義でもある主の大義に対する熱意も著しく欠けています。わたしたちは主を褒めたたえますが,主の模範に倣うことをめったにしません。」若い牧師であったチャールズ・M・シェルドンは,同じような感想を次のように表現しています。「わたしたちのクリスチャンとしての生活は安易さと心地よさを好みすぎるあまり,難しくて困難なことを十字架として負うことをしていません。

実際,イエス・キリストが御父のようになられたように,すべての人がイエス・キリストのようになるよう命じられているのです。わたしたちは進歩するにつれて,さらに完全となり,完成し,十分な成長を遂げるのです。そうした教えはどこか一つの宗派の教えに基づいたものではなく,主御自身から直接教えられているものです。この教えに従って,わたしたちは生活し,人とのコミュニケーションの仕方を考え,関係を培うべきです。実にわたしたち一人一人が,平和の君である御方の模範にさらによく倣う以外,壊れた関係や分断した社会の傷を癒す方法はないのです。

まさにイエス・キリストの特質を得ることによって,思慮深く,慎重に,また固い意志をもってキリストのようになる道を歩む方法を考えてみましょう。
決断し決意する
数年前,妻とわたしは日本の最高峰である富士山の登山口に立ちました。登り始めてから,遠く離れた頂上を見上げて,果たしてあそこに到達できるのだろうかと思いました。



 進むにつれて,疲れ,筋肉痛,標高の高さの影響を感じ始めました。精神的に,次の一歩を進むことだけに集中することが重要になりました。わたしたちは次のように言い聞かせました。「頂上にはすぐにたどり着けないかもしれないが,次の一歩は進むことができる。」一歩一歩進み,やがてこの困難な課題は最終的には達成可能となりました。

イエス・キリストのようになるというこの道の最初のステップは,そのようになりたいという願望を持つことです。キリストのようになるという訓告を理解することは善いことですが,生まれながらの人である自分を一歩ずつ克服したいという切なる願いをその理解に加える必要があります。そのような望みを培うには,イエス・キリストがどのような御方か知る必要があります。主の資質を知る必要があります。そして,聖文や礼拝行事,およびそのほかの聖なる場所から主の特質を見つける必要があります。主のことをさらに知るようになると,わたしたちは他の人々の中に主の特質を見るようになります。そうなるとわたしたちが自分自身の探求を進めるうえで励みとなります。もしほかの人々が,ある程度,主の特質を得ることができるのであれば,自分たちにもできるからです。

わたしたちが自分自身に対して正直であれば,わたしたちの内にあるキリストの光が,現在の自分と,望ましい救い主の資質と比較すると隔たりがあることを知らせてくれます。わたしたちが救い主のようになるために成長するうえで,そのような正直さは不可欠です。実際,正直さは救い主の特質の一つです。



 さて,わたしたちの中の勇敢な人たちは,信頼できる家族や伴侶,友人,あるいは霊的な面での指導者に,イエス・キリストのどんな特質が自分に必要なのか尋ねることを考えるかもしれません。その場合は答えを聞く覚悟が必要になるかもしれません。時々,わたしたちは,びっくりハウスの鏡のように自分を実際より太って見せたり,痩せて見せたりする,ひずんだ鏡を通して自分自身を見ていることがあります。

信頼できる友人や家族は,わたしたちが自分自身をより正確に見詰めるうえで助けとなりますが,彼らでさえ,できるかぎり愛し助けたいと願ってはいても,物事を不完全にしか見ることができないのです。結果として,わたしたちはまた,愛する天の御父にわたしたちに必要なものは何か,どの部分に努力を集中しなければならないのか尋ねることが不可欠なのです。天の御父はわたしたちを完全な視点で見ておられ,愛をもってわたしたちの弱点を示してくださいます。恐らく,皆さんは,幾つか例を挙げれば,忍耐,謙遜さ,慈愛,愛,希望,勤勉さ,あるいは従順さといったものがさらに必要であることを学ぶでしょう。

つい先ごろ,わたしは霊的に成長する経験をしました。愛する教会の指導者がわたしに,ある特定の特質をさらにもっと伸ばすことができると,とても直接的に提案してくれました。その指導者は包み隠さず,愛をもって伝えてくれました。その晩,わたしは妻にこの経験を話しました。彼女はとても慈愛をもって,彼の提案したことに同感だと言いました。彼らの助言が愛にあふれた天の御父からのものであると,聖霊が確信を与えてくださいました。

また,『わたしの福音を宣べ伝えなさい』の6章にあるキリストのような特質の活動を正直に行うことも助けになるでしょう。

正直な評価を行い,山を登り始める決意をしたら,悔い改めが必要です。ラッセル・M・ネルソン大管長は愛をもって次のように教えています。「悔い改めを選ぶとき,わたしたちは変わることを選びます。自らを救い主にゆだねて,最高の自分に変えていただくのです。わたしたちは霊的に成長し,喜びを受けることを選びます。それは主による贖いの喜びです。悔い改めを選ぶとき,もっとイエス・キリストのようになることを選んでいるのです。

イエス・キリストのようになるには,わたしたちの心と思い,行い,わたしたちの人格そのものを変える必要があります。そして,それは,イエス・キリストの救いの恵みを通してのみ可能です。
特定し行動する
自分を変えて,悔い改める決意をし,祈り,正直な心で深く考え,また,他の人に相談することを通して導きを求めたら,次に皆さんは特に焦点を当てたい特質を選ぶ必要があります。意義ある努力を行うという決心をする必要があります。こうした特質は簡単には,また突然には得ることはできません。しかし,努力を続ければ,救い主の恵みを通して,徐々に得ることができます。

キリストのような特質は,わたしたちと周りの人々を祝福するために,愛にあふれた天の御父から与えられる賜物です。ですから,わたしたちがこうした特質を得るために行う努力には,天の御父からの助けを求める心からの懇願が必要となります。わたしたちが他の人々によりよく仕えるためにこれらの賜物を求めるならば,天の御父はわたしたちの努力を祝福してくださいます。利己的に神からの賜物を求めるならば,落胆と挫折に終わるでしょう。

必要な一つの特質に深く焦点を当てて,その特質を得られるように成長するとき,そのほかの特質も次第に得られるでしょう。慈愛に深く焦点を当てている人は愛と謙遜さを増し加えることができないのでしょうか。従順に焦点を当てている人は勤勉さと希望を増し加えることができないのでしょうか。一つの特質を得るための皆さんの意義ある努力は,港に停泊しているすべての船を持ち上げる潮流となるのです。
記録し継続する
わたしにとって,キリストのようになるための努力をする際,自分の経験と学んでいることを記録することが重要です。救い主の特質の一つを心に深く留めながら研究すると,わたしはこの特質の具体例を主の教えや主の教導の業および主の弟子に見るとき,聖文から新たなことを学びます。また,わたしは他の人々の特質を認識することにもっと目を向けるようになります。わたしは,救い主に倣う特質を備えたすばらしい人々を教会の内外で目にしてきました。彼らは,救い主の愛にあふれた恵みを通して,こうした特質がどのように単なる死すべき人間に現れるのかを示す力強い模範です。

真の成長を見るには,努力を継続する必要があります。登山に事前準備や登山中の忍耐や我慢強さが必要なように,この行程にも真の努力と犠牲が求められます。真のクリスチャンになることには,そのためにわたしたちは主のようになるための努力をしていますが,常に最善の努力が求められます。

さて,短い注意事項があります。救い主のようになりなさいという戒めは,皆さんが罪悪感や,ふさわしくないと感じたり,愛されていないと感じるようにすることを意図したものではありません。わたしたちの現世での経験のすべてが,挑戦と失敗と成功を通して成長するためのものなのです。妻とわたしが目を閉じて,奇跡的に頂上に瞬間移動できたらいいのにと願ったとしても,人生はそのようなものではありません。

皆さんは大丈夫です。皆さんは愛されています。だからといって,皆さんが完成された状態ということではありません。この世でも,次の世でも,なすべき業があります。神である救い主の助けを受けることによってのみ,わたしたちは皆救い主のようになることを目指して成長できるのです。

すべての物事が混乱〔しているように見え〕……恐れがすべての人に及〔んでいるように見える〕」この時期にあって,唯一の防御手段,唯一の対処法は,全人類の贖い主,世の光であられる救い主のようになるよう努め,「わたしはみちである」と宣言された救い主を求めることです。



 わたしは,神である救い主の助けと力を通して,救い主のようになることは,一歩一歩行うことで達成可能であることを知っています。もしそうでなければ,主はこの戒めをわたしたちにお与えにならなかったでしょう。わたしはそのことを知っています。なぜなら,実に多くの皆さんに救い主の特質を見ているからです。これらのことをイエス・キリストの御名により証します,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2020年10月の総大会からご紹介しました。

青字赤字は追加しています。

本日もお読みいただいてありがとうございます。

今日も、一歩一歩前進できますように、お祈りします。

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わたしのようでなければならない

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“even as I am”

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應當和我一樣

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应当和我一样

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(追加)





こちらから、引用させていただきました。

應當=おうとう=おうつう

ought to

音声は、中国語と英語 酷似していますね。

本質を変える信仰の力と人格

2022-01-20 05:05:23 | 日記
本質を変える信仰の力と人格
リチャード・G・スコット長老
十二使徒定員会
一貫して義にかなった生活から,内なる力と強さが生まれます。この力と強さは,罪や背きという浸食作用に対して永続する抵抗力があります。
信仰を正しく理解し働かせるならば,信仰の持つ影響力は絶大で広範囲に及びます。そのような信仰はわたしたちの生活を,感傷的でありふれた日常の活動から,喜びと幸福の交響曲に変えることができます。信仰を働かせることは,天の御父の幸福の計画に欠かせません。しかし,真の信仰,救いに至る信仰は,主イエス・キリストを中心とし,また,その教義と教えを信じる信仰,主の油注がれた者である預言者の教えを信じる信仰,人生を変える力のある自分の隠れた特性や特質を見いだす能力を信じる信仰を中心とするものです。まさに,救い主を信じる信仰は,行動と力の原則です。

信仰は創造の基本的な構成要素です。確かに,救い主イエス・キリストは,天の御父の指示の下,救い主としての御自身の役割に信仰を行使しておられます。主は信仰を行使することによって,銀河系から最も遠くにある星雲だけでなく,今日わたしたちが知る物質の最も小さな構成要素である粒子,クオークをもお造りになりました。しかし,驚嘆すべき創造にはクオークよりもさらに小さな構成要素があると,わたしは信じています。

神殿で結び固められる夫婦が示すのは未来を信じる信仰です。彼らはイエス・キリストの教えと天の御父の幸福の計画に従うことで,二人の生活が喜びに満ちたものとなることを理解しています。試練に遭っても,その目的とするところは人を成長させることなので,生産的かつ人格を築く形で克服する道が聖霊の促しを通じて見いだせるということを認識しています。

信仰と人格の間には,密接な関係があります。神の戒めに従う力を信じる信仰は,必要に迫られたときに役立つ人格的な強さを築いてくれます。このような人格は,大きな試練や誘惑に遭う瞬間に培われるものではありません。そのような瞬間には,すでに培った人格を用いなければならないのです。真の原則を信じる信仰を働かせるなら人格は築かれます。強められた人格は,さらなる信仰を働かせる能力を増します。その結果,人生の試練を乗り越えていく能力と確信がさらに強くなります。そして,人格が強まれば強まるほど,信仰の力を働かせることによる恵みをより受けられるようになるのです。信仰と人格がどのように作用し合い,互いを強め合うのかが分かるでしょう。人格とは,原則や教義,従順という糸を根気よく編んでできる織物のようなものなのですヒュー・B・ブラウン管長は,こう語っています。「人生でどのような状況に置かれているかにかかわらず,人は信仰によってのみ偉大で霊的に価値あるものを手にすることができます。人は信仰を持たずに生きていくことはできません。なぜなら,人生の冒険で中心となる課題は人格形成であり,人格形成は理屈の産物ではなく,理想を信じる信仰と,犠牲を払って理想に専心することから生まれるものだからです。」(Conference Report, 1969年10月, 105)

わたしたちは行いによって信仰を働かせます。ジョセフ・スミスは次のように語っています。「信仰は行動と力の原則です。」(Lectures on Faith〔1985年〕, 72)

わたしたちは,自分がそうありたいと願う人物になります。そのためには首尾一貫して毎日,自分がそうなりたいと願う人物であらねばなりません。義にかなった人格は,皆さんがなろうとしている人物が備えるべき大切な特質です。義にかなった人格は,今手にしているいかなる物質,学習によって得たいかなる知識,あるいはこれまでに達成したいかなる目標よりもずっと大切です。たとえこの世がそういった事柄をどれほど称賛しようともです。現世という特権をどれほど有効に使ったか判断するために来世で評価されるのは,皆さんの人格だからです。

サタンもそのほかのいかなる力も,皆さんの培った人格を破壊したり,傷つけたりすることはできません。そうすることができるのは,自分自身の不従順だけです。非の打ちどころのない人格は,欺きや背きにむしばまれるときに,価値のない灰へと変わるのです。

道義をわきまえた強固な人格は,人生の試練と試しの中で一貫して正しい選択をした結果として培われるものです。このような正しい選択は,自分が信じる事柄に信頼を置くときに行うことができます。また,そのような信条に従って行動するときに,その信条が正しいというさらなる確信が得られます。

信仰の基となる力の原則としてどのようなものがあるでしょうか。
神を信頼する。どんなに難しい状況でも,必要なときには神が喜んで助けてくださると信じる。
神の戒めに従って生活し,信頼に足る人物であることを神に示す。
聖なるの静かな促しに敏感になる。
御霊の促しに,勇気をもってこたえる。
神があなたの成長のためにあなたが苦しむままにされているとき,また,長期にわたって答えが少しずつしか与えられないときに,忍耐し,広い視野に立って考える
信仰とは待ち望んでいながらまだ見ていないものである……。あなたがたは,自分が見ていないからということで疑ってはならない。信仰が試されてからでなければ,証は得られないからである。」(エテル12:6)ですから,皆さんが「信仰を試す」度に,つまり何らかの印象に従ってふさわしい行動をする度に,御霊による確認の証を受けるのです。たとえ確信がなくても最善の判断に従い信仰を働かせながら歩むとき,ほかの方法では得られない答えに導かれるでしょう。どんなに強い信仰があっても,神が望みに応じてすぐに報いてくださるとは限りません。むしろ,神は,永遠の計画の中で皆さんにとって最もふさわしい方法で,最も実り多いときに,おこたえになるのです。時として,神は皆さんが答えを受けるまで長い間苦しむに任せられることがありますが,感謝してください。そのような経験を通じて,皆さんの信仰が増し,皆さんの人格が培われるからです。

人格の基礎となるのは高潔さです。ふさわしい人格を培うと,御霊の導きに気づき,従順にこたえる能力が高まります。一貫して信仰を働かせれば,強固な人格が形成されます。皆さんの人格の成長を支える確かな土台は,イエス・キリストとその教えを生活の中心とすることによって築かれるのです。

この地上の幸福だけでなく,永遠の救いを得るには,多くの正しい選択をする必要がありますが,難しい選択は一つもありません。それらの選択が合わさると,罪や背きという浸食作用に抵抗できる人格が形成されます。高潔な人格は,厳選された素材でできた貴重な磁器と同様,信仰によって形作られ,一貫性のある義にかなった行いで念入りに整えられ,人を向上させる経験という窯で焼かれます。非常に美しく大変貴重です。しかし,罪によって瞬く間に破損することもあります。元に戻すには,痛みを伴い,長期に及ぶ努力が必要となります。自制心で保護されれば,義にかなった人格は永遠に存続します。

物質的な事柄自体が,地上における幸福や満足,達成の喜びを生み出すことはありません。わたしたちを昇栄へと導くこともありません。人生にその進むべき方向を与えるのは,人格の高潔さ,すなわち無数の義にかなった決断で培われた内なる強さと確信です。一貫して義にかなった生活が,内なる力と強さを生み出すのです。この力と強さは,罪や背きという浸食作用に対して永続する抵抗力があります。イエス・キリストを信じ神の戒めを守ることによって,皆さんは自分の人格を強化することができます。皆さんの人格は,皆さんが今まさにどのような人物になろうとしているかを示す尺度です。それはこの試しの生涯の間,地上での時間をどれほど有効に使っているかを示す証拠です。

わたしたちのだれもが「支払った分だけ手に入る」という格言の意味を理解しています。この格言は霊的な事柄にも当てはまります。従順,イエス・キリストを信じる信仰,学んだ真理を地道に実践することにおいても,自分が支払った分だけ手に入るのです。皆さんが手に入れるのは,磨かれた人格と高められた能力であり,試され喜びを得るという地上での目的を立派に成し遂げた生涯です。

人生において消極的であってはなりません。さもなければ,ふさわしく生活しようとする皆さんの努力を生まれながらの人がやがて台なしにしてしまいます。皆さんの行いと考えが,皆さんの将来を決めます。人格に足りない部分があると,人は欲望を満たしたり,個人的利益を追求したりするよう強いられることになります。見せかけの強さでひ弱な人格をしっかりと支えることなどできません。

目の前の状況に左右されて決断を下す人は,いつの日か,ほぼ確実に重大な罪を犯すことになります。真理という鉄の棒もそのような人を正しい道にとどめておくことはできません。そのような人は,戒めから離れさせる多くの巧妙な誘惑にいつもさらされることになります。好ましくない選択をしても正当化します。それほど悪い選択ではないとか,社会に受け入れられやすく,仲間もたくさんできる選択はこちらの方だとか主張するのです。支えとなる原則がなくても器用に立ち回れば,一時的に目覚ましい業績を上げることはできます。しかし,そのような業績は,砂の城のようなものです。人格の試しに遭うと,粉々に崩れてしまいます。その過程で,往々にして,ほかの業績まで台なしにしてしまいます。罪を犯した人が戒めに背いたことをどれほど入念に隠そうとしても,やがては,まず間違いなく,公の知るところとなります。サタン自身がそうなるように仕向けるからです。サタンとその手下は,天の御父の子供たち一人一人に可能な限りの害を及ぼそうと決意しています。たった一度でも重大な違反行為あるいは背信行為があれば,必ず,ほかにも同様の行為はないかという疑念が生じます。周囲の人が抱いていた信用や信頼が根底から覆されるのです。

この現世は試しの場です。試しにどれほど正しく向き合うかで,皆さんの人格がどれほどしっかりしたものとなるかが決まります。イエス・キリストを信じる信仰とその教えを信じる信仰が皆さんの人格を高めてくれます。

わたしには自分で検証した事柄があります。それは,信仰,祈り,愛,といった概念は,経験を通して,また,聖き御霊の導きに助けられて,自分の特性となるまでは,何の重要な意味も持たないし,何の奇跡ももたらさないということです。若いころは,福音の教えは頭で学び,理性と分析の力でその大切さを理解できると思っていました。しかし,福音にはわたしの能力と想像力の限界を超えてわたしを高めてくれる途方もない力があると実感できたのは,それらの教えを忍耐強く実行し続け,聖き御霊がその意味を心にしみ込ませ深く理解させてくれてからのことでした。真心から奉仕しているとき,神がわたしの人格を築いてくださることに気づきました。神は御霊の導きを認識する能力を高めてくださいました。福音の計画の持つ特徴は,主に勧められていることを行うことによって,現世で平安と豊かな充実感を得るために必要なあらゆる理解,あらゆる能力が与えられるということです。またそれは,主のみもとで永遠に幸福な生活を送るために必要な備えにもなります。

証は,教えや義にかなった行いが正当なものであることを確認する霊的な印象によって強められます。しばしばそのような導きには強烈な感情が伴います。涙が込み上げてきて,声が詰まることもあります。しかし,証は感情ではありません。証は,無数の正しい決断から生じる糸で織りなされた人格にとって,不可欠な要素です。自分が信じるもの,少なくとも最初のうちは,信じていながらまだ見ていないものに信頼を置くときに,このような選択を行うことができます。強い証は,平安と慰め,そして保証をもたらします。強い証は,救い主の教えにいつも従っていれば,人生はすばらしいものとなり,将来は安定したものとなり,人生で遭う試練を克服する力が得られる,という確信を生むのです。証は真理を理解することによって強くなります。真理は祈ったり聖文に記された教義について深く考えたりすることで徐々に明らかにされます。約束された結果が得られるという不動の確信に支えられた信仰を持ち,真理に従った生活を送ることによって,証ははぐくまれていきます。

皆さんの証は,十分の一の律法に喜んで従うときに,また,断食献金をささげるときに強くなります。主はこのことを通じて皆さんを豊かに祝福されます。皆さんの証が強められると,サタンはさらに激しく誘惑しようとします。サタンの働きかけに負けないでください。皆さん自身が強くなればなるほど,サタンから受ける影響は弱くなります。

サタンの影響力は世界で増大していますが,それは同時に,わたしたち自身の強さを証明する環境が与えられているということでもあります。今日,サタンは大混乱を引き起こしていますが,サタンの最終的な運命はイエス・キリストのと復活によって決まっています。サタンは勝利を得ないのです。今でも,サタンは主が設けられた境界内で活動することしかできません。すでに与えられたいかなる祝福も取り去ることはできません。義にかなった決断の蓄積により築かれた人格を変えることもできません。聖なる宮で結ばれた夫婦と子供の間の永遠のきずなを断ち切ることもできません。真の信仰を失わせることもできません。皆さんの証を取り去ることもできません。そうです。これらはわたしたちがサタンの誘惑に負けるときに失われます。しかし,サタンは自分自身の力でそれらを破壊することはできないのです。

要約すると――
神は皆さんの信仰を用いて,皆さんの人格を形成されます。
人格は,皆さんが今まさになろうとしている人物の姿を映し出すものです。
強固な人格は,一貫して正しい選択をした結果生まれるものです。
人格の根底にあるのは高潔さです。
人格が強められれば強められるほど,信仰を働かせる能力は増します。
謙遜とは,御霊を通して高い所から教えを受けることを可能にし,元々は主からの霊感であった源,例えば,聖文や預言者の言葉から教えを受けることを可能にする特質です。謙遜とは,義にかなった人格をはぐくんでくれる貴重でな土壌です。そこで本人の成長という種が発芽します。信仰を働かせることで耕され,悔い改めによって刈り込まれ,従順と善い行いという囲いによって守られた種は,霊的な導きという実を結びます。その結果として,神の霊感と力,すなわち,主の御心を知る霊感,霊感により知った御心を果たす能力を高める力が得られるのです。

わたし自身の人生にこの上なく深い平安と幸福感をもたらしてくれた4つの原則を分かち合いたいと思います。主はその永遠の計画においてこれらの隅石を確立されました。その一つ一つが不可欠です。すべての原則が調和しながら,互いに強め合っています。これらの原則を絶えず熱心に実行することで,強固な人格が形成され,人生の試練を幸福への足掛かりに変えていく能力が,今もとこしえにも増し加えられます。以下がその原則です。
主イエス・キリストを信じる信仰,およびイエス・キリストの計画を通して達成する力が得られるという信仰。
してはいけないことをした誤り,あるいはするべきことをしなかった誤りの結果を正すための悔い改め。
生活に力と指針を与えてくれる主の戒めに対する従順。
周りの人の生活を豊かにする無私の奉仕。
義にかなった生活を送ろうと決心しているのなら,落胆しないでください。今はつらい人生のように見えても,あの真理の鉄の棒にしっかりとつかまっていてください。皆さんは,自分で気づいている以上に進歩しているのです。一貫して神の戒めに従うとき,皆さんの苦難は,人格,自制心,そして天の御父と救い主の約束に対する確信をいっそう確かなものとします。聖霊の促しによって,皆さんが,人格を高め,多くの喜びと幸福をもたらす決断を常に下せますように,イエス・キリストの御名によって,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2010年10月の総大会からご紹介しました。

お読みいただいてありがとうございます。

今日も、正しい選択ができますように、頑張りましょう。

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人生において消極的であってはなりません

You cannot be passive in life,

passive
【形】
  1. 受動的な、受け身の
  2. 抵抗しない、いいなりになる、従順な
  3. 参加しない、活動的でない、不活発な
(英辞郎より引用)



主の強さの内に

2022-01-19 04:20:13 | 日記
主の強さの内に
デビッド・A・ベドナー
 十二使徒定員会
主の強さの内にあれば,すべてを行い,堪え忍び,克服することができるのです。
兄弟姉妹の皆さん,今わたしは胸がいっぱいです。様々な思いが脳裏を駆け巡っています。ひざは震え,皆さんに伝えたい感情と思いを言葉で表そうとすると,どの言葉も物足りない気がします。この安息日の朝に,簡潔に話すに当たり,わたしと皆さんに御霊みたまがとどまるよう祈ります。

ヒンクレー大管長にこの新しい召しを告げられてから今に至るまで,これまでにないほどの目的意識をもって「すべての聖文を自分たちに当てはめ」るようにというニーファイの言葉に心を向けています(1ニーファイ19:23)。


わたしはパウロの次の教えを思い巡らしています。「……神は,知者をはずかしめるために,この世の愚かな者を選び,強い者をはずかしめるために,この世の弱い者を選〔ばれた。〕」(1コリント1:27)今朝,自分がまさにこの世の弱い者だと承知していることに,大きな慰めを感じます。

モルモン書のヤコブの言葉についても深く考えています。

「それゆえ,わたしたちは預言者の書を調べている。また,わたしたちには多くの啓示があり,また預言の霊がある。このように証あかしするものが数々あるので,わたしたちは希望を抱いており,わたしたちの信仰は揺るぎないものになっている。実際にイエスの名によって命じれば,木々も山々も海の波も従うほどである。

にもかかわらず,主なる神はわたしたちの弱点を示される。それは,このようなことを行う力がわたしたちにあるのは,神の恵みと人の子らに対する神の大いなるへりくだりによるということを,わたしたちに分からせるためである。」(モルモン書ヤコブ4:6-7)

兄弟姉妹の皆さん,今読んだ節に出てくる「恵み」という言葉に特に注目してください。英語の『聖書辞典』(Bible Dictionary)によると,聖文の中で頻繁に用いられている「恵み」という言葉には,基本的に「人を強める力,能力を授ける力」という意味があります。

恵みとは,イエス・キリストの憐れみと愛によって人に授けられる,様々な形の天からの助けと能力を意味する。

……主の恵みを通して,人はイエス・キリストの贖罪しょくざいに対する信仰を持ち自らの罪を悔い改めるなら,自分の力だけでは達成不可能な善行でさえ達成することができる。このような恵みを通して,男性も女性も,全力を尽くした後に永遠の命と昇栄を獲得することができるのである。」(697ページ)

つまりわたしたちは,人に能力を授け,強める贖あがないの力を通して,死すべき人間としての限られた能力では到達することも達成することもできない方法で,理解し,行動することができ,さらに善良になることができるのです。救い主の贖いには,実際に人に能力を授ける力があることを証します。人を強める贖いの力がなかったならば,わたしは今朝,皆さんの前に立つことはできなかったことでしょう。

次のアンモンの証の中に,キリストの恵みと人を強める力を感じることができるでしょうか。「まことに,わたしは自分が何の価値もない者であることを知っている。わたしは力の弱い者である。だから,わたしは自分のことを誇るつもりはない。しかし,わたしは神のことを誇ろう。わたしは神の力によって何事でもすることができるからである。まことに見よ,わたしたちはこの地で多くの偉大な奇跡を行ってきた。だから,とこしえに神の御名をほめたたえよう。」(アルマ26:12)兄弟姉妹の皆さん,まさに,主の強さの内にあれば,すべてを行い,堪え忍び,克服することができるのです。
金曜日の午後,ヒンクレー大管長との面接を終え,教会執務ビルから出て来たとき,エノクの言葉を思い出しました。「エノクはこれらの御言葉みことばを聞いたとき,主の前で地に伏し,主の前に語って言った。『わたしがあなたの目にかなったのはなぜでしょうか。わたしは若者にすぎず,すべての人はわたしを憎みます。わたしは口の重い者だからです。どうしてわたしはあなたの僕しもべなのでしょうか。

主はエノクに言われた。『行って,わたしがあなたに命じたように行いなさい。そうすれば,あなたを刺し貫く者はだれもいないであろう。あなたの口を開きなさい。そうすれば,それは満たされるであろう。わたしはあなたに語る力を与えよう。すべての肉なるものはわたしの手の内にあるからである。そして,わたしは自分がよいと思うままに行おう。』」(モーセ6:31-32)
 主がエノクに与えられた約束は,新しい召しや責任を受けて準備不足や至らなさを感じ,圧倒されているすべての人に当てはまります。エノクの時代にその約束が真実だったのですから,今でも真実なのです。

2000年6月20日の夜,数人の同僚とともにアイダホ州レックスバーグのリックスカレッジ(当時)の役員室で,夜遅くまで仕事をしていました。思いがけず翌朝大学で開かれることになった歴史的な集会と,ヒンクレー大管長から発表される事柄の最終確認をしていたのです。その発表とはリックスカレッジが学士号を取得できる大学に生まれ変わり,ブリガム・ヤング大学アイダホ校と改名されるというものでした。わたしは大学管理役員であった同僚とともに,自分たちに課せられた責任とチャレンジの歴史的意味を感じ始めていました。

その晩,建物を出たときにある同僚が言いました。「学長,恐いですか。」記憶に間違いがなければ,わたしはだいたい次のように答えました。「この変更の実施に伴う一連の事柄が,完全に自分たち自身の経験と判断にゆだねられていたとしたら,非常に恐れたことでしょう。しかし,わたしたちには天の助けがあります。どなたが見守っておられるか知っており,頼れる御方がいらっしゃるので,恐れる必要はありません。」BYUアイダホ校で働いている者は,声をそろえて次のように証することができます。これまで確かに天の助けを受け,奇跡が起き,啓示が与えられ,門戸は開かれて,個人としても大学としても豊かに祝福されてきました。

ここで,心の内にある感謝を述べさせてください。わたしは自分の先祖に感謝しています。忠実で確固とした男女です。わたしが尊敬し,たたえる人たちであり,すべてを与えてくれた人たちです。わたしの両親と妻の両親を愛し,感謝しています。彼らの愛と支え,そして教えと力強さに感謝しています。

妻のスーザンは徳高い女性であり,義にかなった母親です。その表情を見れば,妻が清く,善良な女性であることを皆さんもすぐに分かるでしょう。言葉では表現できないほど,彼女を愛し,感謝しています。妻というすばらしい女性に感謝しています。妻が教えてくれた事柄に,お互いへの愛に感謝しています。

スーザンとわたしは3人の信仰深く雄々しい息子に恵まれました。彼らを愛し,感謝しています。家族は少しずつ増え続け,現在,2人の息子には義にかなった伴侶はんりょがいて,賢く,麗しく,かわいらしい孫娘が3人います。すばらしいことに,皆が集まる度に,永遠に家族が結ばれることの意味が少しだけ分かってきました。

愛する兄弟姉妹の皆さん,皆さんに感謝します。カンファレンスセンターに集う皆さんを実際に見て,世界中の集会所に集う皆さんの姿を思い描くとき,救い主に対する皆さんの忠誠心と献身に喜びを感じます。皆さんは土曜日に手を直角に挙げて支持を表してくれました。そのとき,支持を受けることがどれほど自分に影響を与えるかを身にしみて感じました。わたしのことを知っている人はほとんどいません。しかし,どなたによって召されたかを知っているという理由で,皆さんは進んで支持してくれました。皆さんに感謝し,心と勢力を尽くしてこの聖なる業に献身することを約束します。

主と主の教会の指導者が言う所ならどこへでも行きます。彼らがしてほしいと望むことなら何でも行います。彼らが教えてほしいと望むことなら何でも教えます。なるべき人物に,そして,ならなければならない人物になります。主の強さと恵みの内にあるなら,皆さんもわたしもすべてのことを成し遂げられると知っています。

最も弱い者の一人として,神が生きておられることを証します。イエスはキリストであられ,わたしたちの贖い主,救い主です。主は生きておられます。預言者ジョセフ・スミスを通して,イエス・キリストの完全な福音と真実の教会がこの末日にあって地上に回復されました。神権の鍵かぎと権能と救いの儀式は,現在,再びこの地上にあります。神権の力により,家族はまことに永遠になることができます。モルモン書は神の御言葉みことばであり,わたしたちの宗教のかなめ石です。兄弟姉妹の皆さん,天は閉じてはいません。神はわたしたち一人一人と,そして末日の地上の王国を指導する者たちと話されます。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,今日こんにちの地上における主の預言者です。これらのことをイエス・キリストの聖なる御名みなにより証します。アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2004年10月の総大会からご紹介しました。

青字赤字は追加しています。

本日もお読みいただいてありがとうございます。

良い1日をお祈りします。

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恵みとは,イエス・キリストの憐れみと愛によって人に授けられる,様々な形の天からの助けと能力を意味する。

……主の恵みを通して,人はイエス・キリストの贖罪しょくざいに対する信仰を持ち自らの罪を悔い改めるなら,自分の力だけでは達成不可能な善行でさえ達成することができる。このような恵みを通して,男性も女性も,全力を尽くした後に永遠の命と昇栄を獲得することができるのである。

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“The main idea of the word is divine means of help or strength, given through the bounteous mercy and love of Jesus Christ.

“… It is likewise through the grace of the Lord that individuals, through faith in the atonement of Jesus Christ and repentance of their sins, receive strength and assistance to do good works that they otherwise would not be able to maintain if left to their own means. This grace is an enabling power that allows men and women to lay hold on eternal life and exaltation after they have expended their own best efforts” (p. 697).

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「這個詞的主要意義是指:透過耶穌基督的厚恩及大愛,神所賜予世人的幫助或力量。
「……亦即,透過主的恩典,透過對耶穌基督贖罪的信心以及悔改個人的罪,世人可以獲得力量及幫助來從事善舉,而這是他們靠自己所做不到的。恩典是一股為人加添能力的力量,使男女在盡了個人的一切努力之後,藉此持定永生與超升」(第697頁)

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こちらから引用させていただきました。