教育についていえば、常に最新の教育方法や切り口が現れます。
アクティブラーニング・反転授業・STEM教育・探求学習 etc
また
食育、平和、環境、人権、金融 etcなど
〇〇教育と名の付くものも次々と登場するわけです。
そのたびに教員もそれに合わせるがごとく、新手法や新分野の教育を吸収し、生徒に提供していくというのが、現在の在り方のように思われます。
しかし、これでは際限がありません。時代が進むにつれ、世の中は高度化し、複雑化していくので、このペースだと学ぶべきものは指数関数的に増大し、提供する側(教員)も受け取る側(児童・生徒・学生)も疲弊する一方です。
そこで、本来、教育とは何をすべき”場”なのかの本質・源をそろそろ本気で共通理解としておいておく必要があるのではないかと最近感じるようになりました。
もちろん、個々に知っておくべきことややっておくべきことすべてを放棄すべしという主張ではありませんが、いったん、その発想から離れてみることをおすすめしたいのです。
一般的に動物は、客観的に観察していればわかりますが、親が導き・教えることは最低限です。植物に至っては親から子への教える・みせるという概念すらないわけです。そう、環境さえ整っていれば、生物は勝手に成長するという動かない事実。
ならば、発達を見守り、健全な成長をうながすべく、土壌、水、日光にあたるものをどう整えていくか、ここに教育はもっと注力するべきあり、あとは勝手に生物としての人間は自ら発現し成長していってしまう。
お酒は、適度な環境を整えれば、微生物の力で勝手に発酵し、勝手にお酒になっていく。ただし、環境を見守り、つくり、整えるのは人間の側です。
自然農法も同じですね。土壌には気をつかい、観察する。農薬・肥料が残っているといったんそれを抜くのに時間と労力がかかる。しかし、生育するのに最適な土壌の状態が整ってくれば、あとは植物が勝手に成長していくわけです。
われわれ大人は、複雑・変化の激しい時代に生きるがゆえに、生き抜くためには、さまざまなツールや手段や防衛装置を身につけないと生き抜けないという発想になってしまい、つい本来ある子どもの成長の力を信じられなくなっているのではないでしょうか?
土壌と整えるように うまく発酵するように 教育の場を整えたら、
あとは自然な化学反応を待つだけ。
その原理の理解が、これからの教育には不可欠のように思えている昨今です。